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「オゾン層は有害な電磁波を吸収し、地上の生態系を守っている」はレトリックとしておかしい

前置き

には

成層圏オゾンは、太陽からの有害な紫外線を吸収し、地上の生態系を保護しています。」

とある。


高校の生物の教科書や、フロンガス禁止に関しての小話でも同じような言い回しを目にするが、これがレトリック的におかしいことを説明していく。


キーとなる概念は、オルタナティブな世界を想像できるか≫。一定以上の必然性を感じられるなら、正当な説明になると考える。




①地球環境は地球生物に都合の良いようにできている

という文にはどういう印象を受けるだろうか?

地球の生態系が現行の状態になるように宇宙全体が活動してきたわけでもないし、地球のこれまでの地学的な要素と生命の相互作用にも、何か必然性があるわけでもない。

①は何とでも捉えられるし、何も言えていない表現にも見えるだろう。つまり、少し歯車の噛み合いが違えば、今とは全く別の生態系になっていてもおかしくないという通念が存在する。

それゆえ①のような表現からは創造論的なニュアンスすら感じる人もいるだろう。


②地球の引力は酸素分圧が約160mmHgになるようにできている


②はどうだろうか?

高山では酸素分圧が低くなり、大抵の酸素を使っての呼吸を行う生き物は息苦しくなる。

だから地上の酸素分圧が160mmHgであり、約210hPaなのは必然だろうか?

もちろん違う。酸素分圧に合わせて生命が進化していき、その結果としての現在の生態系なのだ。

シアノバクテリア、好気性細菌、植物、そして(いわゆる)従属栄養生物のこれまでの絡み合いと、大気組成の関係を事細かに説明することは出来ない。

しかし、生命の誕生以前から現在までの地球の大気が、ずっと同じようだったわけはないことは確かだ。わたしたちは引力と酸素と生き物の関係においても、別の状態を想定できる。


オゾン層は有害な電磁波を吸収し、地上の生態系を守っている

細かな言い回しの違いは存在するが、これを含意する文は色々なところで確認できる。そして、疑問を付されているところを見たことはない。

では、この文章は妥当な説明なのだろうか?あるいは説明として正当なのだろうか?


私は、表現としては正しいが、文脈を選ぶし、何より①や②と同様に大した限定を行っていない、何も言えていない文章だと考える。


オゾン層の歴史

もしこの瞬間にオゾン層がぱっと消えれば、地上の生態系は甚大な被害を受けるどころか、ほとんど壊滅し、海中にしか生命体は存在できない。

そういう意味では「オルタナティブな世界」は想像できない。

ところが古代に目を向けると、海中のシアノバクテリア等の微生物によって酸素が産生されていく過程で、ほとんど0だった大気中の酸素とオゾンの濃度が上昇していき、それに伴って生命が地上に進出していった。

この進出の初期における地上の大気は、現在よりも酸素が薄く、オゾンも薄く低い位置にあった。先駆していった生物は当然現在の生物とは異なる形で、紫外線と向き合ったことだろう。

つまり、その古代の生命は、現在のような具合で「オゾン層に紫外線から守ってもらっている」わけではない。


思考実験

さらに、オゾン層の物理的性質に関して思考実験をしてみる。

「波長が260nm付近の時に最も核酸の吸収があります。また、微生物の不活化曲線のピークは260nm付近です。」

であり

また

「太陽の光には図3に示すような広い範囲の波長の光が含まれていますが、波長の短いものほど気体に吸収されやすいために、中間圏を通る間に波長が280nm以下の光がほとんど吸収されてしまいます。」

であり、

「酸素分子が波長200nm~240nm程度の光を吸収してオゾンが発生し、オゾンも波長300nm~320nm程度の光を吸収します。」

「結局、オゾン層で波長が280nm~315nmの光を吸収するため、地表面では波長が315nm以下の光は、非常に弱められて届くことになります。」

ということである。

つまり、吸収のピークだけで言うと、有機物と大気とでずれている。

よって、ここからの「オゾン層の物理的性質だけをずらしてみる思考実験」は正当なものである。


もし、酸素分子やオゾンが反応する波長の範囲が今よりも狭いとする。例えば310nm~315nmは素通りすると仮定して、この場合に地上には一切の生命が存在しないだろうか?

おそらくそんなことはなく、その波長では反応しづらい有機物の割合が(現実世界よりも)高いといった状態で、地上に進出し、「310nm未満の波長の電磁波から守ってもらっている」だろう。

そしてこの仮定において、310nm~315nmの波長の紫外線は有害扱いされないだろう。


同様に、実際よりも反応性が良いとすると、例えばオゾン層は315nm~320nmの波長も大いに吸収すると仮定したとしても、地上の生態系はまた異なったものとなっているだろう。

この場合、315nm~320nmの波長も有害扱いされる。現実世界よりも、この波長に反応してしまう有機物が多く存在する世界だからだ。


これらの思考実験条件において、人間ほどの知的生命体が生まれるかどうかは当然不明であるが、地上の生態系のオルタナティブな姿は想像できる。


③を①や②と比較すると

誰かに問いかけたとき、①、②、③ではおそらく③だけが真っ当な「説明」として受け入れられるだろう。

加えて、③“も”おかしいと言う人はほぼいないであろう。


①や②に対して感じるおかしさは、創造論的、必然性のなさ、あるいは法則のでっち上げといったものが理由となっていて、しかもその理由はほぼ自明なものとして扱われるだろう。

そして、ここまで論証してきた通り、③もまた①や②と同様のおかしさを孕んでいる


では何故③に違和感が持たれることがほぼないのだろうか?


一つには、学術的な装いが挙げられる。

科学的な響きを大いに感じる単語で構成された文章に対して、無条件で平服してしまいがちである。

例えば「地球の大気組成は地表からの放射を再吸収し、地上の生態系にとって適温になるようできている」などと言えば、少なくとも②よりは違和感をもたれづらいだろうが、レトリックの上では②と何ら変わらないおかしさがある。


加えて、人類との身近さがある。

光に分類される話はあるので、地球と生態系との関係としては地質や大気よりは理解しやすく感じるのだろう。

また、塩素の漂着によるオゾン層の破壊という、人類の采配で結果が左右されるという点も、話題としての人類との親密さを演出している。


とはいえ、論理として、レトリックとして、③は①や②と同じ分類に入っている。


④ベルクマンの法則・アレンの規則


地球と生態系の関係としては①、②、③ほど密接ではないが、④のような概念が存在する。

これもまた同様におかしいだろうか?

私の基準としては、④は①~③と違い、正当な説明の範疇と考える。


一つには、反例の少なさが挙げられる。

近縁種を生息域の温度ごとで見比べてみて、ベルクマンの法則に反する場合はほぼ見当たらない。


もう一つに、法則としての力強さがある。

暑い地域では、末端が大きくて熱を逃がしやすい。

体を大きくした方が他の方法で寒さをしのぐ(多くの餌を探す、生理学的な機構を工夫するなど)よりも効率が良さそう、などと法則の裏返しの利用や発展性が存在する。

人間の方言にも結び付けることが可能かもしれない(寒い地域では「んだ」といった、口をあまり開けなくていい相槌が生まれる、とか)。


④は①や②と、共通点を多くもつ言い回しではあるが、初期(あるいは前提)条件を少し変えた程度ではくずれない、③とは違った確からしさを感じる。


どう言えばいいか

では、オゾン層と地上の生態系を結び付けるにはどうしたらいいのだろうか?


それには、法則のように語るのやめて、単に叙述的な言い回しを用いればよい。


この場合なら

オゾン層の破壊によって、それまでオゾン層に吸収されていた有害な紫外線の、地球表面に到達する量が増加します。これによって白内障や、皮膚癌の発生が増加し、植物は発芽成長期の遺伝子破壊によって成長が阻害され、農作物の収穫減少など食料供給への影響が予測されています。」

といった具合に、個別の事項として扱うべきなのだ。


オゾン層に吸収されている光」と「地上の生命への影響の一つ」を一対一対応させるような語り口ならば、レトリック的に問題の出ようがない。


レトリックを正す意義

ただ、③はなんの疑問もなしに受け入れられているように、大きな間違いを抱えた言い回しではない。

更に言うと、①や②も違和感こそ覚えられるだろうが、嘘や偽物といった評を受けるほどの困った文章ではない。

それこそ一対一対応を束ねた、単なる叙述として捉えることも出来るし、仮に法則として受け取られても、簡単に「オルタナティブな世界」が再現できるわけではないので、具体的な反例が見つかることはそうそうない。


それでも私は、法則か叙述かは厳密に区別するべきだと思う。

正確に言うと、法則にまでは至っていない場合には叙述に留めて表現すべきだと考える。


これまでの話は

帰納的推論→一般法則→演繹

の流れにも似ている。③の場合は、紫外線は地上の生物にとって有害、というのが帰納的推論の“観察の一つ”になっている。


単一の観察しか出来ていないのに、さも法則かのような言い方をしてしまっている。

更には、そこから演繹思考が可能かのような誤解も生んでしまう。


③を一般法則とした演繹推理で、間違っていて有害な具体例が存在するということではない。

しかし、③のような「オルタナティブな世界」を容易に想像できる程度の文章を、ただの叙述から逸脱させてしまっていること全般が、特に地球環境や生態系と人間の相互作用に関する見方に、修正困難な歪みをもたらしている。


地球温暖化に関して、地球とは温暖と寒冷でサイクルしてきたものだから、人類の営為は影響が微小といった言説が飛び出てきて、それを一定数が信じてしまっている理由の一つが、ここまで説明してきた、法則でないものを法則かのように言ってしまう風潮にあると考える。

地学や気象学は非線形複雑系ではあるが、事象一つ一つの関係は確かな理屈をもって説明できる。ところが③のような言い回しが跋扈していれば、法則というものは不確かで、かつ新しい知見を推測できるような豊潤さに欠ける、という無意識な思い込みが生まれている。

法則がただの叙述扱いされている。

それが科学者の知見というものの信頼性を損なわせている。


逆に、進化論に関しては過剰な法則信仰が存在するように見える。

およそ知識と呼べるものの中で、質の振れ幅、絶対数ともに誤解がもっとも多いのが進化論であろう。

自然選択と、ダーウィンの進化論を補強した現時点の進化論との関係や、そもそも自然選択のアイデアの内実すら誤解されていて、非常に混沌とした様相を呈している。

しかし、全般的に進化論が信頼されない原因の一つに、やはりレトリック上の法則と叙述の混交があるように思う。


自然選択が万能なアイデアだという思い込みが、間違った「法則」を生む。

形質と環境要因の安易な結び付けが生まれ、それは変わった(!?)形質は必ず生存に有利に働いているメカニズムがあるという見識を作り、それがまたある(一つでも複数でも)形質が生存に有利かどうかを簡単に見抜けるはずだ、という形で形質と環境要因の一対一の強固な結び付きという、確かとは限らない個別の推理を行わせる。

簡単に観察を法則に転換する風潮は、安易な推理の負のスパイラルを発生させる。


帰納的推論→一般法則→演繹

と似ていると上の方で書いたが、

例えば「収れん進化」は、意味も意義もあまりなく、オルタナティブな世界を容易に想像できる「一般法則」を基盤にした演繹推理の典型例である。

だから反例の方が多いし、生物の形態の予測としてあまりに頼りなく、誤解を再生産するだけの概念となっている。ついでに言うと、新規の叙述ですらもない。


この項目の序盤に

『それこそ一対一対応を束ねた、単なる叙述として捉えることも出来るし、仮に法則として受け取られても、簡単に「オルタナティブな世界」が再現できるわけではないので、具体的な反例が見つかることはそうそうない。』

と書いたが、まさにこのぱっと見の問題のなさこそが、このレトリックと推理の不協和音を修正する機会を失わせているのだと思う。


叙述はあくまで叙述なので、新しい予測を立てれるわけでもなく、コトバとしてつまらない。

しかし簡単に、勇み足に法則を打ち立てる行為は、個別個別では問題はなくとも、それが様々な場で行われることで、法則というもの全般への不信感と誤解を生んでいる。


少しでもあやしさを覚えたときは、法則として発したいという欲をぐっとこらえて、あくまで叙述として記して他者の反応を待つというのを徹底したいものだ。


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