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我が子の体験格差を親の努力で埋めた物語の、第三部

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9.苦難や波乱万丈を体験できた顛末

 息子たちの教育に心血を注いでいた私の育成計画は、おおむね順調に成功していた。けれども、それは、「会社員の家庭としては」という限定つきのものでもあった。

 商売をやっている家の子は、商売をしている親の姿を日常的に見て、この世がどういうところかを自然に学んでいるはずだ。商売には上昇と下降がつきものだし、トラブルだって、次々に起こる。変わらない生活が当たり前の会社員の子は、経済が動く実感もなければ危機を見ることもない。いつも同じ給料で同じ生活をしている家庭では、計画性の大切さを体感させることもできない。

 給料が途切れない会社員の子の立場しか体験せずに、経済や経営の視点が身につくわけがない。吹けば飛びそうな小さな商店の子でも経済を体験しながら育つというのに、私の子は、その体験をしないで育ってしまうのだ。けれども、子供の体験のためにと夫に会社を辞めさせて、保障されている給料を捨てて、家族で商売を始めたり路頭に迷ったりするのも馬鹿だ。

 ところで、私は、異常なまでに旅行が好きだ。見たこともなかった場所で、そこに住む人たちの気配を体感するのが好きなのだ。そんな私が家族を連れて出る旅行は、息子が言うには、家族旅行ではなく放浪で、レジャーではなく修行だそうだ。

 この、レジャーではなく放浪か修行だと息子に言われる家族旅行が、私の息子の体験格差を少しは埋めてくれたと思う。

 修行の旅と言われた旅行が、どんなものかを書いてみる。

 下の子がヨチヨチ歩きを脱するまでは、行き先はすべて国内だった。野宿をしてもまず襲われない国内だから、出発の時には行く方向しか決まっていない。夫にも私にも予約ということをする習慣がなかったので、行った先にある宿のどれかに泊まるのだ。毎日をそんな感じで行き先知らずにうろついていると、ヨチヨチ歩きの息子が、「おかあしゃん、きょう、とまるところはあるの?」と、真剣な顔で訊いてきたりした。不安のあまりに尋ねた小さな息子と、爆笑した夫と私。そんな記憶が、思い返すたびに笑える人生の宝物だったりする。

 生まれつき臆病かつ慎重な性質で、不安な目で親を見張り続けていた、その子は、今では、愛らしかった外見のカケラも見えない姿になった。外見以上に、中身もほとんど別人だ。小さい頃には、いつもおどおどと石橋を叩いて渡らなかった、同じ人間が、守るより先手で攻める姿勢の大人になっているのだ。旅先だろうが仕事だろうが、事態が変われば瞬時に頭を切り替えて対応できる能力をつけ、予測や予防はするけど心配はしない大人になった。必要がなければ出しゃばらないけど、突発的な事態になれば先頭に立って指揮を取れる、そんな人材に育ったわけだ。

 あの臆病で怖がりで引っ込みがちな子が、よくもまあ、いまの姿になったものだと、親が自分でも感心しきりだ。性格自体は変わらなくても、行動姿勢は経験によって変わるのだ。さんざん振り回された挙句に「どうにかなった」を、子供時代に繰り返せば、元がどういう性格の子でも度胸が据わって、どんな事態にも柔軟に対応できる大人になるのだろうと思っている。

 経験が人間の行動様式を決める例えに、私のことも書いてみる。

 日本語どころか英語も通じない場所に行くのを、私は何とも思わない。現地の人と言葉が通じなくても、たいしたことではないと思っている。現地の言葉をひとつも知らなくても、英語が通じないのがデフォルトでも、バスと電車で移動してホテルを値切って泊まってきたのだ。「言葉が通じないとマズいよなあ」と想像するのは、テロリストに捕まった場合くらいだ。テロリストに捕まっても取り入って生き延びるつもりではあるけれども、交渉内容が複雑になるので共通言語がなければ厳しいと思うのだ。要するに、私は、テロリストに捕まりでもしなければ、言葉がどうでもたいした違いはないと思っているのだ。

 けれども、それは、私の生まれつきの特性ではない。本来は、私は、神経質で臆病な人なのだ。現在の私がたいていのことを平気なのは、「殺されていても文句は言えないな」みたいなものも混じっている、人生で重ねた体験の力だろうと思う。

 体験からしか得られない力を子供時代につけてやるのが、教育というものではないかと、私は思う。ディズニーランドに行くか行かないかが体験格差になると主張する人たちは、ディズニーランドに行くことでどんな能力が子供につくのか、説明してほしいものだと思う。能力格差につながらないなら、その体験の有無は、体験格差と言えないものではないのだろうか。

 楽しい家族旅行か厳しい修行の旅かで親子の見解が分かれる、親子の見方が一致するのは「旅」の一文字だけだという、行程の先が海外になったのは、下の子が普通に歩けるようになってからだ。出発前に到着地での初日の一泊を予約したのは、初めの頃の2回だけだけれども、初泊の予約が消えた頃には、心配症の下の子も怖がる顔をしなくなっていた。夜に香港に着陸してから、「空港で案内されるホテルは1万5千円以上する」というだけの理由で、急遽、バスで深圳に抜けたりしていたのだ。その日に泊まった深圳のホテルは3千円くらいだったと思う。

 まとめて有給を取れる期間に安く行ける都市との往復航空券を買って、バックバックに必要なものを詰めて、出発の後にどうなるのかは、子供だけじゃなく親も知らない。海外旅行は、そんな感じだ。わかっているのは、深夜に着くなら、そのまま空港に泊まることだけだ。泊まると言ってもホテルではない。空港の「どこか」に泊まるのだ。

 子供を育てていた頃の私たち家族は、夫の給料にタカって暮らす寄生サヨクが食い散らかした食べカスの残飯みたいな夫の手取りで、4人が暮らしていた。1人の稼ぎ、それも国家権力に棲む寄生サヨクに食われた後に残った残飯みたいな手取りで、4人分を買える航空券は、当然、子供を持たない人が買う航空券の4分の1の値段のものだ。4人家族の1人当たりの生活費は、子供を持たない人の生活費の4分の1しかないのだから、旅行の費用も4分の1になるしかなかったのだ。

 子供がいなかった時と同じに旅行する権利を持てるどころか、国家を使って強盗してくる寄生虫にどっぷりタカられ生存さえも許されていないような、私たち家族が買える航空券は、深夜に到着する乗継便だ。子供を持たない人ならシングル料金で泊まれるホテルも、子供を持たない人が払う金額の4倍を払わなければ、泊まれないのだ。空港ホテルに泊まれる身分ではないし、知らない場所では夜間に外に出るのは危険だし、タクシー代を払う気もない、となると、空港に泊まるしかないわけだ。

 空港から出た先の旅でも、泊まるのがホテルだとは限らない。泊まる場所が決まるのは、たいてい日が暮れてからだ。現地の人と親との話は何を言っているのかわからない。バスや電車は「来ることになっている」だけで、本当に来る保証はない。何かがあれば瞬時に予定を変えなければ、真夜中に山奥や知らない街で宿なしになる。冗談ではなく、交通手段も行き先もバスが来ないとわかった瞬間に切り替えないと、いるかもしれない狼に一家で食われる羽目になる。そんな不安定な状態が、旅の間は続いていくのだ。

 けれども、人生とは、本来そういう、行き先のわからない旅ではないか。一家で真面目に商売をやっている家の子なら、そんな体験は、日常生活で得られるものでしかない。

 大切な息子の、成人するまでの限られた時間を、老人会の慰安旅行みたいなものに何日も浪費させるほど、私は図々しくはない。ジジイやババアに向けた慰安を子供のうちからしているようでは、ロクな大人になるわけがない。娯楽などという時間の無駄は、その先を生きていても無駄でしかない、廃棄物になった奴らがしていればいいことで、子供にさせるべきことじゃない。

 死にかけの年寄りでもあるまいし、若い身空で、なぜ娯楽旅行などしなきゃならないのか。王様の子に生まれたわけでもあるまいに、はるかに年上のホテルの人に「お客様」とか言われてチヤホヤされることの、どこに肯定的な意味があるのか。自分で稼ぎもしないガキが、ガキどもだけでファミレスに入ることすら、私は、間違っていると思っているのだ。そして、教育をめぐって世の中から聞こえてくるニュースのほとんどは、私の考えの正しさを裏づける話ばかりだ。

 ディズニーランドで遊べることが何の教育になるのかを、言える奴などいるのだろうか。普段から伸びきっている脳味噌の皺が、ますます伸びるだけではないか。ディズニーランドに行けない子供は貧困で、子供の貧困を許しちゃいけないと、寄生サヨクはわめくけれども、どこがどうなる理屈で貧困だということになるのか、解説してみてほしいものだ。この世の中の誰一人解説できないことを真実だとわめき散らして、信じる人たちがついていくなら、それはもう、教祖と信者の関係だ。いつから日本は、国民から強制徴収したカネをサヨクカルトの教祖に貢ぐ、宗教国になったのだ。

 人生とは、ひとつしかない人生を賭けた、先のわからない旅だ。明日がどうなるかはわからない生を授かり、取り返しのつかない一方通行の旅を進むしかない。そんな人生を進んでいく子に、親は、わずかな期間で、できる用意をさせてやらなきゃならないのだ。

 次々に起こる問題をその場その場で解決しながら進む放浪の旅の体験は、帰りの飛行機に乗れば終わるとわかったものではあったけれども、「泊まる場所がないかもしれない」「立ち往生するかもしれない」という危険自体は、正真正銘の本物だった。その体験が、彼らが有能な大人になるために役立ったのは間違いないと、私は思う。生活の危機がない会社員の子だという体験格差での劣勢が、放浪だの修行だのと文句を言われる旅行のおかげで、かなり挽回できたと思う。

 余談だけれど、アジアの某国際空港の、私たち一家が空港スタッフたちと長年一緒に寝ていた場所に、「立ち入り禁止」のテープが張られた。「年も取ったし、小金持ちにもなったし、もういいよな」と思いながらも、青春が終わってしまったような寂しさがあった。

10.ディズニーランドに行くための金は錠剤だったのか

 セットアップされた娯楽など子供にはいらない、と、言いはするものの、実のところ、私の子たちは、それぞれ一回ずつはディズニーランドに行っている。

 小学校の行事だったのだ。

 正式な行事ではなくて、先生とママたちが企画した「卒業記念に行かせてやろう」というやつだ。「クラス全員が行くようだし、それで行かなきゃ生涯一度も行かずに終わりそうだし」と、行かせることにしたわけだ。いったいなんで毎年みたいに学校が子供に旅行させなきゃいけないんだ、と文句を言いつつ、「それはまあそれとして」と、ほとんどフルに参加させていた学校行事の、最後の旅行だ。

 ディズニーランドに行かせた時の話を少し書く。

 上の子が小学校を卒業する頃になっても、私の家庭はまだ、先生に貧乏だと思われていたようだった。面談で、ディズニーランドの日帰り旅行の話を出されて、「行かせない」とか「考慮する」とかの否定ワードを言いもしないうちに、先生に、「全員で行きたい」「カネが問題なら何とかできる」みたいなことを、熱い感じで語られてしまった。チケット代が出せない子の分を他の親たちに振るのだろうか、先生がカンパするのだろうか、と謎だったけれど、その話題に進むと誤解されそうなので、「何とかできる」がどういうものかは尋ねなかった。人に施されるのが大好きな私だけれど、その申し出は断った。

 普段は、私は、政府の補助金やら給付金やらを何でも取ろうとする人だ。どうせ泥棒のためにあるカネをなんで私が引っ張っちゃいけないのか、と心の底から思っているのだ。サヨクを真似して、政府からタダで引っ張れるカネを猟犬のように探しては引っ張ってもいた。

 そもそも、その頃、夫と私と子供たちが「戸籍上ひとつの家族」だったのだって、政府がカネを出す基準が今とは違ったからにすぎない。その頃の政策が今と同じなら、夫に籍を抜かせて、私はシンママになっていたと思う。夫の籍を抜くだけで、同じ家庭に政府がカネを出すからだ。仕組みを作った寄生サヨクには、寄生のネタに使うシンママパパとは桁違いのカネが流れているらしいけど、サヨクの幹部になれるわけじゃなし、利用されるだけの一般人が選択できるのはショボい二択からだけなのだ。「取られるだけ」の被害者よりは、「少しは取れる」末端になる方がまだマシだ。マルチと違ってサヨクでは、幹部のカネは、サヨクの末端が払うわけじゃなく赤の他人が払うので、末端には、マルチのように取られるのじゃなく少しはおこぼれが来るわけだ。寄生サヨクが国家を仕切る現状にいて、馬鹿じゃなければ、「夫が入籍していると損だよね」くらいのことは考える。

 ガザの住民にも、「自分たちへの爆撃を餌にハマスの幹部がガバガバ稼いで贅沢な暮らしをしている」事実を、知っている人がいるかと思う。けれども、そのガザの人だって、ハマスが食料を配る時には、やっぱり取りに行くだろう。ガザに住む自分や家族の命と引き換えにハイライフを楽しむハマスの幹部が、物資を撒くのはアリバイのためだとわかっていてもだ。権力にはどうせ逆らえないのだから、不正だ何だと考えたってしかたない。取れるものは取っておくのが、正しい庶民の生き方なのだ。

 人間界には良いも悪いもなくて、勝つ奴がいつも正しいだけだ。

 世界中の歴史の教科書で、ナチスは「正しくなかった」ことになっている。けれども、正しくなかったことに「なっている」だけだ。殺されたユダヤ人は子孫も未来もなくなって終わりだったのに、ユダヤ人から奪った資産をナチスにもらったドイツ人は子孫代々生き続けるのだ。ならば、結局、正しかったのは、ナチスを支持して、ユダヤ人から奪ったカネと命で豊かになって、子孫を残したドイツ人らの方ではないか。生きて子孫を残せる者が正しいのが、この世の正義で、自然の法則ではないか。

 寄生サヨクは、だから、正しい。

 寄生サヨクが勝ち続け、寄生の巣を拡大しつづけ、増殖するのを、昭和に生まれた私は今の今までずっと見てきた。人権という打ち出の小槌を握って、強盗できる権力のある政府に利権の巣を設営して、時代に合わせてネタを変えながら、勢力を拡大してきた寄生サヨクは、正しいことは正しい。そして、その寄生サヨクが作った現在の政策の下で、収入のある夫を籍から抜いてシンママになるのも正しいことだ。夫と一緒にいたければ、家族の籍から追い出した夫にパパ活すればいいのだ。どうせ建前だけだろうけれど特定の男と付き合うと支給停止だとかいう生活保護では厳しいかもでも、生活保護まで狙わなければ、恋愛を誰としようと支給が来る地位が薄れるわけじゃない。

 不特定多数の男とヤってる分にはかまわずに出るカネが、子供の父親1人と暮らすとどうして取り上げられるのか、国家権力の説明を聞いてみたいものだと思う。女に産ませた自分の子供を養おうとする男と、そういう男と暮らす女が、国家の敵だというならわかる。自分の子供を育てる者は国家の敵だと、はっきり宣言したらどうだと思う。そうでなければ、理屈が通らないからだ。

 パシリの国家権力に、抵抗できない弱い者から強盗させて、強盗の理由に使った者にも少しは渡す。ガザの人たちを爆撃させて億万長者になったハマスの幹部の配給みたいなカネなら、チャンスの限りに私は引っ張る。配給を受け取らなくてもハマスの豪奢な生活のための爆撃が止むわけじゃないガザと同じで、政府のカネを引っ張らなければ徴税が終わるわけではないからだ。配給を拒否すればハマスの豪奢な生活のための爆撃で死んだ家族が生き返るわけじゃなし、取れるものは取っておくしかないガザの人たち同様の、どうにもならないことなのだ。食い潰してくる寄生虫の施しヅラでの残飯みたいなカネであろうと、強盗されたカネの端のカケラでも取り戻せるなら取り戻す、それしか庶民の生き方はない。

 けれども、どうも、「ディズニーランドのチケット代は何とかできる」と先生が私に示唆したカネは、政府の汚い奴らが福祉と称する看板に使った者にアリバイで落とす、汚いカネではなさそうだった。政府のカネは、決まった時期に決まった手続きをしなければ出ないものだし、公のカリキュラではない話に補助があるとも思えない。どうせ強盗に山分けされる自分のカネだから取れるだけ取ろうと思うカネとは、違う種類のカネらしかった。

 本人の承諾もなしに他人を勝手に弱者に仕立てては、「弱者を代表して受け取る」とかいう触れ込みでサヨクが横領してきたカネの、アリバイ部分のカネではなさそうだった。ホス狂もどきの役人が、他人のカネで、寄生サヨクの巣に入れたシャンパンで善人気分に酔いしれながら、恩を売っては自分の居場所も寄生の巣に設営する、これ以上汚らしい話は見当たらないような、私の家庭からの強盗の上りのカネではなさそうだった。国家権力が独占している合法暴力を凶器に使って突き付けて、「恵まれない人のために出せ」と奪った、汚いカネではなさそうだった。

 そのカネは、そういう汚い世界のものとは違う気がした。だって、出所が思いつかないのだ。

 正真正銘の浄財なんじゃないかと、私は思った。

 抵抗できない私たち奴隷から強制徴収する権力を持つ、寄生サヨクになれるなら、なりたいものだと、私は思う。国民すべてを奴隷にできる寄生サヨクがこの世で最上の稼ぎ方だという事実は、他人の人権を食ってきた奴らの豪奢な生活で証明済みだ。寄生サヨクが蛆虫ならば、自分たちを食いつぶしにくる寄生サヨクに特権を与えて奪われている、私たち蛆虫の奴隷は蛆虫に劣る存在で、蛆虫に劣る存在でいるより蛆虫の方がマシではないかと思うのだ。なので、私は、蛆虫に支配されている日本政府が寄生の巣の正当化のためにカネを配る話を見ると、いつも、引っ張る手段を画策する。

 ところがだ。どこからともなく降ってきそうに先生が言ったカネは、そういう種類のカネではなさそうだった。そういう汚いカネとは違う、立派な浄財のように思えた。本当はぜんぜん貧乏ではない事実が未来永劫バレないとしても、浄財を受け取ることなどありえない。出所がクラスのママたちなのか先生なのかは知らないけれど、人間ならば、受け取れるわけがない。家族までがあきれるほどの極悪非道な私であっても、人間を辞めて寄生虫に成り下がったサヨクとは違う。まだ一応は、人間なのだ。

 政府に強盗させた人々の命を食いつぶし、その食人を善行だと言い抜ける、寄生サヨクとは、私は違う。親が子供を遊園地に連れて行けたはずのカネを強権政府にむしり取らせて、そのカネを自分の高給にしてみせる、人間を辞めた寄生サヨクとは、私は違う。善行をしながら見返りもポストも得られると、脳味噌も顔も融解させてルンルン極楽気分の役人と組んで、他人のカネと利権の山分け仲間で写真に納まるクズとは違う。貧しい親から政府に強盗させたカネを寄生仲間の高給に変換しながら、「子供のために」「子供の福祉」とわめく蛆虫どもとは違って、一応は、私はまだ人間なのだ。

 恥じる心を失って虫に変容したサヨクと違って、私は、一応、人間だ。他人に直接タカるならまだしも、強権政府をパシリに使って強盗させながら、堂々と世間に顔をさらせる寄生サヨクとは違うのだ。人権だの差別だのとカネを引っ張れるネタが尽きてきたからと、女子供まで利用し始める奴らと違って、人間なのだ。

 自分たちがレストランでワインを傾けるのに使うカネ、自分の子にステキな服や「いい教育」とやらを買うカネが、どこから来たかを考えなければ善人気分でいられる寄生サヨクと違って、まだ人間である私は、先生が匂わせるカネの出所をすばやく考えた。サヨク以外の人間ならば誰でも知っているように、この世に空中から無料で出てくるものなど存在しないと、私も一応、知っているからだ。どこから来たかを考えなければ、利権国家に貧乏人の布団を剥がせて奪ったものだという真実を見なければ、赤の他人の支払いで、高級料理とワインで楽しく過ごせる寄生虫とは違うのだ。

 そして、もちろん、私は、一瞬たりとも受け取ることは考えなかった。

 極悪非道な私でさえも、先生やママたちを騙して浄財を受け取る想像をすると吐き気がするのに、サヨクの寄生虫どもは、よくもまあ、権力に強盗させたカネで平気で生きていられるものだ。

11.親の努力では埋められなかった体験格差

 ちょっと前から、「ディズニーランドに行くカネがない、人権を奪われている哀れな子供に人権を与えてやろう」みたいなことを、寄生サヨクがわめき始めたなあ、とは思っていた。年末には、哀れな誰かをでっち上げては寄生する虫たちの鳴声が、今回は子供をテーマに最高潮に達したらしくて、鳴声を聞いた人々の流す派生ポストが山ほど回ってきた。

 人権がどうあるべきかは、都合次第でラインが動く。哀れな貧困女性を救済しよう、とかいう寄生サヨクの強盗ネタの貧困女性、つまりは立ちんぼ相場が1万5千円前後の売春女性の間では、最低限の人権の有無は、ブランド品の所有の有無で決まるのが数年前まで常識だった。ブランド品の有無で人権が決まるのだから、ブランド品を買うカネがないのが「人権が持てないまでの貧困」といえば、それはそうかもというところだった。しかしまあ、ずいぶん昔にブランド品所有ごときの人権の最低ラインは簡単に突破されてしまって、救わせてもらえないと困るサヨクの都合に合わせて、現在では、救うべき貧困女性の人権の最低ラインが「ホストへの多額課金」まで上がっている。ホストクラブの世界では1億2千万円のシャンパンまで登場したのだから、サヨク新設の最低ラインはしばらく安泰だろうと思う。

 人権の最低ラインを押し上げ続けて救済の対象を確保することで、寄生サヨクらが、タニマチでもあり共犯者でもある政治家や役人と組んで、私たちから強盗したカネをしゃぶっていたのは知っていた。同じ手法で、今度は子供ということなのか。売春婦にとってのブランド品やホストの課金という人権の最低ラインが、子供にとってのディズニーランドになったのだろうか。

 「ディズニーランドに行くカネがない子供には人権がない」。寄生サヨクに言わせれば、それが常識らしいけれども、本当にそれが日本の社会のコンセンサスなのか。それより前に「ブランド品を買うカネがない者には人権がない」とされていたのは、本当に、日本の社会のコンセンサスだったのか。人々がそれまで見たこともない差別を作り上げ、人権のためと称する強盗で作った巣に棲む寄生サヨクが、寄生の巣の材料になる人権のハードルを上げるプロパガンダのために作った話なのではないか。

 現在の日本における人権の維持に必要なことのほとんどが、いちばん初めに見た時には、広告か、嘘か、プロパガンダでしかなかったことだ。

 政治と情報の実権を握った寄生サヨクの音頭で事実無根のプロパガンダが流され、反復刷り込みの力で嘘が真実に変身しては、「人間じゃなくなるのはイヤだから売春してブランド品を買わなくては」みたいな話になっていく。人間でいられる基準が競り上がり、新たな差別が次々と開花してはサヨクの食い扶持となる。人権のためだと、新たな課金が次々と開花する。その花の養分にされる、寄生される者たちの命が弱っていく。

 寄生の巣にうまく入れた寄生サヨクは肥え太りながら増殖し続け、寄生の手段を持たない者は、生き血を吸われて消耗しては消えていく。それが、昭和から現在に至る日本の歴史の大要だった。近年の日本の歴史のその他のことは、膨れ上がっていった寄生の歴史に比べたら、全然たいした影響のない、どうでもいいことでしかなかった。膨張していく利権と寄生がなかったら、日本は今でも経済大国だったのだ。

 海外に住んだことがない人は知らないだろうけれど、日本はいつも、おおむね20年ほどの遅れで、欧米の社会の後を追っている。住んでいた頃とは変わってしまったらしいニューヨークの様子を聞くたびに「なぜ」と不思議だったものだけれども、日本を見てきて、「経過はこうか」と納得できた。欧米の街角にドラッグ漬けで転がっている人たちは、現在の日本同様に、膨大な量の寄生虫を養う暮らしに働く気力を失っていったに違いない。第一段階で、政府を通して国民の生き血を吸うキラキラサヨクが台頭し、寄生の巣を拡大しながらやたらと増殖していく。第二段階で、寄生され生き血を吸われる、普通の家族が疲弊して潰れ始める。第三段階で、潰れた人の2人に1人がドラッグ漬けになってゲームオーバーだ。

 政府にごっそりブラ下がり、他人の生き血の強制徴収で生きる寄生サヨクが、他の人にとっては「いない方がいい虫だ」という単純な事実に、なぜ気がつかないのかと思う。食いつぶされ尽くす前に気がついてもいいんじゃないかと思うのだ。欧米と日本が衰退したと言われているけど、人口のたぶん3割以上が寄生虫にすでに進化して赤の他人の生き血を吸っているのに、潰れ尽くしていない現実の方が凄いのだ。吸い尽くされながら命を繋げている人がまだいる現実は、生命力の奇跡でしかない。

 世の中に差別を作り出しては寄生するサヨクに目をつけられて、「行けない子供には人権がない」と、新たな差別に使われ寄生のネタにされているディズニーランドだけれど、ディズニーランドという言葉でいつも私が思い出すのは、はるか昔に一度だけ行ったその場所ではない。それより後に、一度だけ観た、東北の牧場一家を撮ったドキュメンタリー番組だ。

 家計の収支が厳しい東北の牧場一家の娘の修学旅行がディズニーランドで、カネを工面して何とか行かせた。ディズニーランドで使うための小遣いをほぼ使わずに帰った娘が、その小遣いで一家のみんなを日帰り旅行に招待できた。物語の中身はそれだけの、ほのぼのとしたドキュメンタリーだ。子供がたくさんいて、家族で団結して生きていて、すべての家族がこうならいいのにと思えるような御家族だった。

 キラキラ光るショップでもレストランでも使わずに持って帰ったカネを使っての日帰り旅行で、「ディズニーランドで使わなくて良かった」と言った娘の言葉が、私には、なんか、たまらなかった。

 家庭にカネがあること自体は、とてもいいことだ。けれども、私の子たちは、その牧場の娘のように「このカネを自分が使わなければ家族がもっと大切なことに使える」と考えられる立場になったことがない。中学生になった頃には、自分の親に、収入の中で何を優先するかを考える必要がないのをわかっていたからだ。

 そのカネで本当に家族を助けられる、牧場の娘の節約は、私の息子の、本人いわく「母親の趣味に付き合う」ための節約とは、性質が違うものな気がする。息子ら2人も、実はそれぞれ、ディズニーランドに行った時には何も買わずに、売っていた中でいちばん安いものをひとつ食べただけで帰ってはきた。けれども、それは、あまりに高いから何も買いたくなかったのと、昼食に払った金額を聞いた私に「ふん」と鼻を鳴らされて、あきれた目で見られたくなかったからだ。いちおう、私も、そういう気持ちの動きを極力隠そうとはしているものの、嘘がつけない体質なのだ。実際に、息子らが選んだ昼食のコスパを語った時には、「さすが私の子だ」と目がキラキラと光ってしまって、正直な気持ちのままに褒めてしまった。

 やっていることは同じでも、私の息子の場合には、「キラキラしたお土産は欲しいしコラボのステキなメニューをお腹いっぱい食べてみたいけど、その大金をとっておけば家族のために使えるんだ」みたいな健気な話ではない。「バカらしい」とか「母親にバカにされたくない」とか、「何も買わずに最低価格のものだけ食べれば確実に母親に褒められる」とかの、もう完全に、違う話だ。

 裕福な家庭で残念なのは、自分の子供に「親のために」「家族のために」自分が頑張らなきゃいけない、自分がみんなを助けるんだ、みたいな気持ちを味あわせてはやれないことだ。

 息子が就職した時だってそうだ。その頃にはもう、彼らの家は、「会社員の給料って何でしたかね」みたいなことになっていた。その状況では、「初任給でお母さんに何を買ってあげようか」みたいな場面になりようがない。「欲しいけど買うのを躊躇するようなもの」なんて、親にはないのがわかっているのだ。まだ買っていないのは、欲しくないからに決まっているのだ。

 就職できた成果で得られる、同年齢の平均値よりまぁかなり高い給料に、親の関心がまったく来なくて、「ふん」と鼻を鳴らされるだけの息子を、かわいそうだと思ってはきた。けれども、夫も私も、嘘を言えない性格なのだ。正直なところ「奴隷契約ですか」としか思えない給料に、感動したふりをするのは無理だ。欲しければ何でも買える状態なのに、欲しくもないものを贈られるのも、その場で顔が引きつりそうだ。

 親にカネがない家の子なら、有名企業に就職すれば、それだけで自分を凄いと思えるはずだ。親にチヤホヤされたり褒められたり、贈り物に涙してもらえたりしているに違いないのだ。なのに、私の息子ときたら、同じ年頃の子たちの多くがチヤホヤしてもらっているのと同じ有名企業への就職が、最低線のクリアでしかない扱いだ。よくもまあ、そこでグレずにいられるものだと、張本人の私自身も思ってはいた。「息子が贈ってくれるものなら何でも嬉しいんじゃないか」という見方もあるにはあるけど、「欲しくもないダイヤのジュエリーみたいなものを夫が贈ってきたら」と考えるだけで殺意が沸いてくる私にモノを贈るのが危険なのは、本人ですら自覚している。欲しかったものを贈られて涙した母の姿が息子の胸に大満足を刻む、みたいな、あるべき場面に似ても似つかない、正直な意見が抑えきれずに態度に出ての、修羅場になりかねないと思う。

 「日本の会社員はみんな奴隷だ」と、正直な感想をいつも言っているのに、しょぼい給料に感動した顔が今さらできるわけがない。かわいそうだと思ってはいたものの、就職しただけで親に感心してもらえる子や、就職の成果のカネやモノを親に渡してドヤ顔ができる子と、息子との、体験格差を埋める手段は思いつかなかった。

 裕福ではない家の母親たちは、欲しかったけど我慢していたものを、「初任給で買ったんだ」なんて渡されて泣いたりしているのかなあ、と思うと、ちょっとは私も残念だった。けれども、その感激は、私の家庭で持っている富と引き換えなのだ。「だったら感激しなくていいや」というところだ。

 世の中には、カネでは買えないものがあるだけじゃない。カネがあると得られないものも、確実にある。初任給で親を泣かせるみたいな体験が、その代表だ。子供が家計を理解していない頃にならガゼの設定もできるけれども、少し大きくなってしまうと設定だろうとバレてしまう。カネがあると逆に得られない体験を息子らに与えようと奮闘していた私が、「カネならあるだろ」みたいな見透かした態度を取られて、悔しさのあまり憤死しそうになったのは一度や二度のことではないのだ。

 現在はどうせ形骸化しているのだろうけど、欧州の最高級クラスの寄宿学校は、「家では女中や下僕にかしずかれて馬鹿になりそうな子供たちを鞭でビシバシしばいてくれる」ものだった。要するに、貧乏人の家の子の生活を模倣した教育が売りだったのだ。カネがあると逆に得られない、貧乏人の子みたいな生活を、貴族の子弟が大金と引き換えに得ていたわけだ。世界トップクラスのエリート教育だとされていたものの内容は、現在の日本の寄生サヨクが「教育」だの「体験」だのと主張するものとは、ほとんど真逆だったのだ。

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