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我が子の体験格差を親の努力で埋めた物語の、第一部


1.まずは自己紹介

 周囲とは断絶した部屋の中で、食べ物と運動とオンライン授業を与えられて育つ人間を、ちょっと想像してみてほしい。大人になって部屋を出されて、社会に適応できるだろうか。社会の中で色々な体験をしてきた者たちについていくには、半端ではない努力が必要なのではないか。

 この世に出現した日から絶え間なく与えられてきた「人間生活」という課題をこなし続けて育った者に、20年遅れで密室を出て学び始めた者が、そう簡単に追いつけるだろうか。経済界のトップスターのイーロンマスクやトランプが語る、かなり厳しい体験は、「社会において秀でるためには子供時代の体験がどれだけ重要か」という事実を示しているのではないか。

 子供時代の体験は、生涯の能力や考え方に、深く大きく影響するものだ。世間で言われるそんな視点を私も共有していたし、実際の、息子たちへの教育にも、そんな視点を基礎にしてきた。

 物語を始める前に、私の自己紹介をさせていただく。

 この物語をつづる私は、成人した2人の息子を持つ母親だ。子供を生んだ瞬間に発動した「赤ちゃん命」の野生の呪いが、かかった日から25年ほどかけて薄まった後の母親だ。

 愛らしかった過去とは変わった姿が見えていないのか?とは自分でも思いつつ、野生の呪いに操られるまま、20年以上を過ごしてしまった。動物界では、雌のすべては、子供を産んで育てるためにこの世に生まれるものなので、動物である私としては、まあ真っ当な人生だと思う。

 子供が1人で生きられるようになるまで溺愛の呪いがかかり、最後に産んだ子が独り立ちして呪いから醒めたところで死ぬ。人類みたいなタイプの種族の雌の、正しい姿はそういうものだ。つまりは、私は、健全に動物だったということだ。

 生まれる前には、「泣き声がうるさかったら押し入れに入れて戸を閉めておこう」と思っていたのに、生まれてみたら、泣いているのに抱き上げなかったことは一度もなかった。泣き声が聞こえた瞬間に、何もかも放り出して、すごい勢いで駆けつけてしまう。溺愛は、頭でやってたわけじゃないのだ。

 なので、私は、「子供に対する愛情が持てない」「虐待してしまう」という話があると、単純に「野生が発動しないのだ」と思う。生まれる前には、本気の本気で、「押し入れに入れて戸を閉めて、自分は離れて、泣き止むまで放置すればうるさくないし」と考えていた、私自身が生き証人だ。けれども、それはまた別の物語だ。いま書いているのは、子供の体験格差についての話だ。

 夫には、「いまのアイツらのどこにカワイイ要素があるんだよ」と言われ、息子たちには、「お母さんには僕たちの現在の姿が見えていない」と馬鹿にされ、かわいい我が子がいまや世間にオッサンと言われる年になりつつあるのをさすがに理解し始めたのが、この文章の筆者の現在地点といったところだ。

 子供を産めない身体になったら数年後には寿命が来ていた原始時代なら、私の人生は、「赤ちゃん命」だけで終わったはずだ。「赤ちゃん命」が終った後にも、自分の命がまだあって、この文章を書くこともできる、デフォで長寿が期待できる現代に自分が生きられているのは、実に幸運なことだと思う。

 神様がせっかくくれたオマケの時間を有益に使って、満足しきって死にたいと思う。この世から退場することになる、その日まで、寄生サヨクへの罵詈雑言を、思い残すことがなくなるまで書きまくりたい。それが、私の考える、正しい余生の過ごし方だ。この物語もそんなひとつだ。書きかけの物語が50くらい溜まっているというのに、年末に押し寄せてきたポストの波に触発されて、また新しく書き始めてしまったのが、この物語だ。ひとつくらいは、人前にお出しするところまで行きたいので、頑張ってみるつもりだ。自己紹介は、そんなところだ。

 この物語は、2人の息子を育てる母親、つまりは私が、「私の家庭で普通に育つだけでは、子供時代に得るべき十分な体験が得られないのではないか」と、心配していたことから始まる。そして、その息子たちが大人になって、体験格差を埋めようとしてきた私の努力の結果がわかったところで終わる。

 生まれついての能力を伸ばせる十分な体験をしてから社会に出るだろう子と、我が子の間の「体験格差」を、母である私の努力で埋めようとしてきた、約20年の、汗と涙の実録だ。

2.人間には体験格差というものが確実にあるし、子供時代の体験格差は生涯に影響する

 この先の話に意味が出てくるのは、「子供時代の体験がその子の後の人生に大きな影響を及ぼす」という前提がある場合に限られる。なので、子供時代の体験が重要だという私の視点を説明したい。

 自分自身を例にしてみる。

 現在の私の夫は、まあ資産家だ。そして、彼が資産家になった原資は私の節約が出発点だ。まずは、その、「資産家になれる原資を生んだ節約の手法がどこから来たか」という話だ。

 広い世の中には、「100万円にリバレッジをかけた投資を繰り替えして億万長者になりました」みたいな人も、いるにはいる。そういう人には節約で貯めた原資などいらないだろうけど、そういう人は、天才で、度胸もあって、早い話が、普通の人とは違うのだ。「100万円にリバレッジをかけて投資して億万長者になりました」みたいな1人に対して「20年かけて貯めた2000万円を1ヵ月で失いました」みたいな人が優に100人はいそうな感じだし、その100人に1人も、実のところは、「投資で儲けた」わけではなくて、「投資で儲けた」という看板で信者を集めて、信者のお布施で億万長者になったのかもだ。「リバレッジをかけて投資して」では全然儲けていなくても、誰にでもつけそうなその嘘で信者を集めて信者のお布施で億万長者になれるのだったら、やっぱり天才かと思う。投資も詐欺も、才能だけでの大儲けは誰にでもできるわけじゃない。

 リバレッジをかけた一発勝負の繰り返しで大金持ちになるのは、天才でなければ無理だ。自分はデキるかもという妄想に駆られて、財産がすべて消えた終着駅で泣いている人が、圧倒的に多いのだ。けれども、チマチマと貯めてチマチマ分散投資していれば、すべてがなくなることはない。20年も30年も放置できれば、一度や二度は、回復できる時がめぐってくるからだ。「わずかに貯まった分をチマっと投資して、また貯まった分をチマっと投資して」とやっていけば、株でも土地でも、自分が投資をしたものがある国が、買った財産が日本にあるなら日本が「経済が壊滅しなければ」「国家権力が国内の財産を没収することにならなければ」つまりは、「寄生サヨクに完全に食いつぶさなければ」という条件つきではあるけれど、ちょっとお金持ちくらいにはなれる。

 そのチマチマした投資を繰り返してきて現在に至った、私の夫は、まあ裕福だ。銀行の残高が500円だった夫を捨てて金持ちの夫に乗り換えたわけではなくて、同じ人間が金持ちになって、私は「銀行残高が500円の男の妻」から「金持ちの妻」になったわけだ。その投資の原資は、「大根の皮を炒めておかずにする、煮物の煮汁はカレーに使う」みたいな節約の成果の小銭なわけだった。

 違う話に見せかけて投資話に誘導して詐欺にかけたいわけではないので、投資の話はここで終わりだ。このエピソードで言いたいことは、「親のカネがどうだこうだとサヨクのクズが言うけれど、私の夫の入籍時の資産は500円だったし、親にカネなどもらっていない」というのがひとつだ。もうひとつが、「貧乏だと貧乏だと言いながら大根の皮を捨ててはいないか。煮物の煮汁を捨てていないか。料理する時間がない疲れていると言うのなら、キャベツをそのまま齧ったらどうだ。総菜だのレトルトだのと贅沢品を買いながら貧乏とか言うな」ということだ。

 とりあえず、私の家庭でキャベツをそのまま齧ったことは、「これはキャンプではなくて野宿だ」と息子に言われたキャンプの時くらいで、一応は、他の御家庭同様に料理されたものを食べていた。それでも、ショボい収入からチマチマ投資の原資を作れたことには理由があって、その理由が、ここの部分の本題だ。なぜそんな節約ができたかという理由が、体験格差の話だからだ。体験格差による優位といっていいものを、主婦の私が持っていて、その優位が富を生み出したからだ。

 後半生の豊かさのの元となった体験格差の優位のひとつは、「私の育った家が貧乏で、最底辺の価格の食材ばかりを使う親を見て育った」というものだ。キャベツと人参と玉ねぎとジャガイモ以外の野菜を、子供の頃には、私はほとんど食べたことがない。牛肉なんて大人になるまで味も知らなかったし、サンマとイワシ以外に魚があるのも知らなかった。「何が食べたいか」ではなくて、予算の中で「何が食べられるか」で、食事の内容が決まっていたのだ。食事とはそういうものだという体験が私にはしみ込んでいて、高価な食材を使おうと思わないので、私の考える料理は自然に安価で済むわけだ。

 体験格差の優位のふたつめは、高校卒業と共に、自分が育った死んだ方がマシなくらいにイヤだった家から逃げ出した私が、18歳から「自活」していたことだ。自分の稼ぎで収支を合わせて自活するためには、節約が必要だったのだ。

 ここで私が「自活」と書くのは、サヨクカルト以外の世界のすべてが「自活」としている、「自分の生活費を自分で稼いで生きる状態」のことだ。頭のおかしいサヨクが「自活」と考えているらしい、親や他人のカネに「タカって」の1人暮らしのことではない。他人にタカって生きるサヨクが、世界で唯一「自活」と呼ぶ、「他人から奪ったカネで好きに生きられる奴隷主に成り上がり一人で暮らす」状態ではない。

 世の中のすべての定義をサヨク仲間の解釈で、憲法も辞書も自由自在に別物にして見せる寄生サヨクは、他人から都合よく「カネだけ」引っ張り、見返りの労働を提供せずにタカって生きる生活を、「自活」だの「自立」だのと呼ぶけど、私は違う。高校卒業後の私は、自分で稼いだカネで生活する「本物の」自立をしていたのだ。

 親から逃げるには自活するしかなかった18歳の私が自活を始めた当時も寄生サヨクが占拠していたマスコミは、金持ちの親に留学させてもらった私と同年齢の子を「自立の見本」として崇めていた。自活の唯一辛い部分の「労働」も「生活費」もなく、他人のカネで生きられる1人暮らしは、住む場所が日本だろうとアメリカだろうとアフリカのどこかだろうと貴族や奴隷主と同じ天国みたいな生活なのに、マスコミが言うには、それが自立だそうだ。1人で暮らし始めた私が辛かったのは、労働と生活費だけで、他に辛いことなど何もなかった。タダでもらえるカネさえあれば、1人での海外暮らしなど誰でもできる。働きもせず誰とも住まずに、誰かにタカって暮らせるのなら、日本だろうが海外だろうが年齢がいくつだろうが、タカリ天国でしかない。寄生サヨクの規定によると、私の考える「タカり天国」こが若者の自立というものらしかった。

 「日本の子供を自分のようなタカり屋になるように育てよう」という崇高な目標に向かっているのなら、「子ども真ん中」だのの奴らの思想には筋が通ってはいる。問題は、「他人にタカる生き方を自立と考える」「将来タカり屋になれる子供を育てようと志す」奴らの脳味噌が、正常か否かということだ。正常ではないと私は思っているけれど、その解説は、ずっと後になる。いま書いているのは、体験格差の話なので、寄生サヨクの脳のイカレ方については、しばらく待ってもらいたい。

 高校卒業とほぼ同時に親の家から逃げたのは、半世紀ほど昔のことで、当時の日本には、中卒や高卒で働く子が大学に行く子の倍以上いて、未成年者の自立は普通のことだった。大学への進学率は3割程度で、7割の子は未成年のうちから働いていた。自立どころか親を養ってまでいる未成年者も普通にいた。けれども、すでにサヨクが占拠していたマスコミには、中卒や高卒の子たちの本物の「自立」は「ない」ことにされていた。あいつら寄生サヨクには、中卒や高卒で働く子は「人間ではなかった」からだ。

 中卒や高卒で働いていたみんなも、私も、1人暮らしだろうが留学だろうが、カネさえあれば、いくらでもできた。他人の労働にも、他人のカネにも、タカらずに自立していた私たちの存在は「見えない」らしいマスコミが、「自立」と呼んでチヤホヤしたのは、金持ちの子の、親にタカっての、贅沢な1人暮らしのことだった。サヨクにとっては金持ちの子は神の子らしく、金持ちの子に生まれただけで何をやっても称賛されていた。私たち貧乏人の子は、人間ですらない、存在しない者たちだった。神戸生首事件の犯人の言う「透明な存在」というやつだった。

 そうやって、人間に上下を設けて、「おまえらは人間じゃない」と私たち貧乏人を傷つけ、食い物にすることで、寄生サヨクは、増殖しながら寄生の巣を拡大してきた。ただ貧乏だというだけで差別してくる、貧乏だというだけで人間だということすら認めない、サヨク勢力は、寄生の巣を拡大しながら、政府に憑りつき国税庁と社会保険庁経由で私たち奴隷の生き血を吸い続ける寄生虫として、その頃から半世紀も経った現代もまだ増殖し続けている。

 貧乏人を差別し貶めてきたサヨクの寄生虫たちは、自分が差別し貶める当の貧乏人から、国家権力を使って奪ったカネで寄生の巣を作り、生息してきた。その最先端が、「子ども真ん中」の奴らだ。それが、私の認識だ。

 あいつらサヨクが、勝手に「守る」と言って公金を引っ張るために利用してきた「貧乏人」や「女」を、どれだけ傷つけてきたかは、話し始めると終わらない。奴らが幸福なまま死に逃げ込む前に、「実際に自分たちがしてきたのは何か」を突きつけてやる、それが、私の終活だ。しかしまあ、いま書いているのは「子供の体験格差」の話なので、その主題に戻ることにする。

 大学に通いながら、売春もせずに、たいしたことのないアルバイトで暮らすのは、節約ができなければ無理だった。節約や家計管理ができたから、私は、イヤな親の家も出られたし、誰からもカネを渡されない、奪いもしない、真の自活で、大学を卒業することもできた。けれども、私と同じ時代に、私と同じ立場にいた子でも、節約や生活費の管理ができなければ、イヤな家から出られなかったり、進学をあきらめるしかなかっただろうと、私は思う。

 節約ができたおかげで、私は、家を逃げ出せたし大学にも行けたし、夫が小金持ちになれる原資を作ることもできた。そして、その、私の暮らしを自由に豊かにした節約の能力は、子供時代の体験から培われたものだった。食費も衣料費も最低のラインで抑えて生き残ろうとする親の家で育った、その体験の力によるものだったのだ。

 つまりは、私は、「貧乏くさく育った」おかげで、1人暮らしをして大学に通える自由も、中年期には夫婦のどちらも働く必要がなくなるだけの経済的自由も、獲得できたということだ。十分にカネのある家で育った子には得られない体験が、私にはあったのだ。その能力は、育った家庭のおかげで私が優位に勝ち取れた、体験格差の力だった。

 こんな私の体験を聞けば、たいていの人は、「子供時代の体験は必要だ」とか、「体験格差というのは確かにあるな」と思うだろうと、私は思う。

 子供時代の体験は重要なもので、我が子を愛する親ならば、我が子が将来社会に出た時に優位に立てる体験をさせておくべきだ。そんな共通認識ができたところで、ここからは、私が実践してきた教育の話を語っていく。

3.優位な体験を我が子に与えられた顛末と、塾の効能について

 父親の収入がかなり低かった、私が育った家庭には、節約に明け暮れるだけの十分な理由があった。けれども、私の息子の父親、つまり私の夫の収入は、会社員の平均より少しくらいは上のあたりで、節約だの家計管理など考えなくても、いわゆる平均的な生活はできるはずだった。

 我が子の育つ家庭には、私の育った家庭と違って、節約に明け暮れなきゃならないほどの必然的な理由が存在しないということだ。

 けれども、私は、平均的な生活をしたいとは思わなかった。勤務先の会社を離れられない、経済的な自由がない人間は、奴隷と同じだと思っていたし、外貨をどれだけ稼いでも政府に寄生する人間を多く養うだけでしかない、夫の立場を馬鹿らしいとも思っていた。世界で爆売れしている機械の設計をしても、給料は、日本という仕組みに寄生している人たちの方が高いのだ。それが日本という国であり、私たち家族のいる地点だった。

 奴隷のような立場に甘んじて、似たような奴隷と一緒に「人並み」でいることに、意味があるとは思えなかった。そんな私は、いわゆる普通の家族になっても、他の人たちの暮らしぶりもカネの使い方も気にせずに、1人暮らしの頃と同じ感覚で、家族にとって本当に必要なものしか買わない生活をしていた。

 そんな母親のそばで育った息子たちには、私以上に、合理的な節約術が身についている。生活保護費より低い生活費で育ってきたので、どれだけ収入が低くても暮らせる力が身についている。

 それは、すなわち、収入のためにイヤなことを耐える必要がないということだ。

 生きていくためにかかる費用が安ければ、生活費のために腐った職場にいる必要もなければ、イヤな奴らに我慢し続けて職場にすがりつくこともない。イヤではないことをして生きられる自由がある、つまりは、奴隷にならずに済むということだ。

 大学に通っていた頃の私が、自由に恋愛できて、いつも自分の感情を最優先できたのも、生活にカネがかからなかったからだ。売春する必要もなければ、イヤな奴に媚びを売る必要もなかった。「ジジイに身体を嘗め回されるのがどんなにイヤか」という話や、「息の臭いデブにベロを入れられるのがどんなにイヤか」という話が、タイムラインによく来るけれども、その手の我慢をせず、誰にも媚びず、イヤすぎることはいっさいしないで生きられるのは、素晴らしいことだと、私は思う。

 過去の自分を思い返しても、私は、生活の維持のために他人に媚びた記憶がいっさいない。カレシも夫も上司も同僚も、お水の客も、すべて含めて、ただの一度すらない。夫の機嫌をとったことすら、一度もない。他人の顔色を見るくらいなら身一つで路上に出る根性を持っている限り、夫が収入源だろうが、金持ちになろうが、そんなのぜんぜん関係ないのだ。

 自由になれる。他人に媚びずに生きられる。それだけの貴重なスキルを得る体験を息子に与えてやれた事実を、私は、かなり誇らしく思っている。家計の管理が下手だと、貯金はないし、辞めれば生活できないしと、イヤな仕事やイヤな付き合いに耐えてしか生きられないだけではなくて、職場によっては、合法詐欺に加担してまですがりつくことになる。誰でもが立派だと見上げている会社が、実際にやっているのは合法詐欺だということが、現代社会には実によくある。客をハメる手法の観察が好きな私は、わざわざ出かけて洗脳手法のマニュアル通りのトークを何度も聞いてきたのだ。

 純朴な人たちを騙してハメる仕事が楽しいのは異常者だけだし、異常者でもないのにそんな仕事をしているとメンタルをやられそうだと思う。けれども、そういう仕事をしている人たちが他の仕事で詐欺職と同じ給料を取れる望みはまずないというのが現実で、収入を維持したければ詐欺に加担し続けるしかない。生活のためにクソ虫になるしかないのは、なにも、犯罪者やヤクザだけの話ではない。

 この世には、生活費を抑える能力がない人が山といて、ミジメな立場になっているのに、私の息子はそういう思いを生涯しなくて済むはずだ。そのことを思うと、私は、いつも、とても幸せな気分になれる。

 息子の1人が、小学生だった頃に、よその家の子の待遇と比べて文句を言ってきたことはある。けれども、その「よその子」の受けていた教育は、勤務先の奴隷になるしか選択肢のない将来に向けてのものでしかなかった。誰にも何にも縛られない、自立した、自由な大人にするのを目指す、私の方針とは違う。それに、息子が比べる子たちときたら、中学からは私立に行ってくれるから地元の公立に来ないでくれて助かるくらいの、小学生の時点で既に半分壊れているような子ばかりだったのだ。

 言っちゃ悪いけど、その子らときたら、毎日のように塾に通っているのに、塾には行かずに毎日曜日は特売卵の列に並んでいた私の息子と、同じ成績すら取れないのだ。脳味噌が焼き切れるまで頑張った挙句に大学や就職先でついていけなくなって精神科に通いそうな子らの教育に、私が合わせる理由がどこにあるのか、教えて欲しいくらいのものだ。

 余談だけれど、よその子の待遇が良く見えていたらしい息子は、「無料だから、まあ、いいか」と行かせた塾の体験教室で篭絡されてしまって、塾に行きたいとねだってきた。「ねえ、なんでダメなの?」と迫られながら、「褒めちぎられて捕獲される危険を考えなかったのはマズかったなあ」と思ったものだ。家にいて家事労働をするよりもチヤホヤしてくれるところで勉強する方がラクなのだから、通いたいのは当然だけれど、塾通いには意味がないのだ。教育と称する分野にブラ下がっている寄生サヨクが、寄生の巣の拡大のためにわめく「教育がどうたら」という呪文での洗脳に成功した結果、塾が神社になっただけなのだ。

 学習効果が塾にあるなら、目を血走らせて塾に通っていた子らを尻目に、塾に行ったことのない夫と私が、官立大学に入れたわけがないではないか。

 ところで、私は、いま書いていて、「世の中には塾通いや勉強の方が家事より辛い子もいるかもな」と、ふと考えた。いくら特級の猫なで声で先生にチヤホヤされたにしても、子供が塾に行きたがる方が変わっていたのかもしれない。息子が塾に行きたがったのは、成績を上げたいとかそういう話ではなく、単純に楽しかったからだったのだ。トップ付近から落ちたことがない彼の成績にはそれより上がなかったし、受験で私立に行きたいわけでもなかった。そもそも、学校の成績に競争があることにすら、気がつかないような子だったのだ。

 塾というのは、私が思うに、役にも立たないレジャー施設だ。そんなもののために親のカネと子供の時間を使う意味などないというのが、当時の私の考えだったし、いまも同じだ。けれども、そう考えて、自分の子供を塾に行かせなかった私の家庭は、その役にも立たないレジャー施設に他人の子を通わせるカネを、国家権力に強制徴収されてきた。格差是正とかいう名目に取り憑いて、教育とかいう名目で、他人にタカる寄生虫どもを養うためにだ。

 ありとあらゆる政策を考え出しては寄生の巣を設営する、寄生サヨクは、私の家庭に自由に徴税する権利を持っている。つまりは、奴らは、私の家庭を強盗する権利を持っているのだ。塾に行かせるためになど自分の子の分のカネさえ出さない私が、ましてや他人の子を行かせるカネなど出したくないと思っても、国家権力に憑りつく寄生サヨクらの徴税権の下で奴隷でしかない私の意思には、意味がないのだ。支配者である寄生サヨクに好きに徴税されるしかない奴隷が何を思おうと、ただひたすらに搾取されるしかないのは同じことなのだ。イヤだと思おうがイヤだと叫ぼうが、主人に強制されたらパンツを脱ぐしかない、何を思っても現実に反映されることはない、やられるしかない奴隷の心や意思には意味がないのだ。

 そんな立場は、私だけじゃない。寄生サヨクの支配する日本国にいて、支配者である寄生サヨクでない者なら、みんな同じだ。何を言おうと何を思おうと、その意思はすべて踏みつけられて、無理やり奪われるだけなのだ。日本国にいる誰も彼もが、寄生サヨクに強姦される自由しか持っていないのだ。

 数日前に来たポストに、「あまりに馬鹿らしくて払いたくないので健康保険を滞納していたら、子供のために積み立ててきた学資保険を差し押さえられた」という嘆きがあった。何の同意もしていないのに、強制的に押し付けられて奪われる。奴隷であるとは、そういうことだ。この頃よく話題になっている、同意がないのに服を剥がれて生殖器を突っ込まれる強姦被害と何が違うのか、私にはわからない。

 寄生サヨクの支配下にある私の意思の無力さは、アウシュビッツに集められたユダヤ人たちの「死にたくない」という意思に、意味がなかったのと同じことだ。終戦後にロシア兵に占領された地域の日本女性の「脚を広げられて性器にチンポを突っ込まれたくない」という明確な意思に、意味がなかったのと同じことだ。

 徴税から逃れられない、私も、夫も、私の息子も、徴税したカネで生きている奴らにとっては、人間ではない。顧みる必要がない私たちの意思は、私たちから毟れるカネに好きにタカれる寄生サヨクにとっては、この世に存在しないものでしかない。昔のアメリカ南部の農園で奴隷主に強姦される黒人女の「イヤだ」という意思が、奴隷主の男にとっては存在しないものだったのと同じことで、徴税も強姦も、「他人の意思を踏みにじり奪える権利を持てた者が勝つ」という、まったく同じ話でしかない。

4.塾に行かせないのは虐待だとアウシュビッツに送られるかも

 塾に行きたい子の親が、子供を塾に通わせるカネを出さないのは、サヨクによれば、虐待だろう。同じ年頃の他の子が塾に行っている時間に家事をさせるのも、日曜の特売卵の列に並ばせるのも、サヨクによれば、虐待だろう。

 もう少しだけサヨクの力が増したなら、私たちみたいな親子は、子は児童相談所に、親は強制収容所に、送りこまれることになるのだろう。政府に強権を与えられた寄生サヨクに、子も親も殺しにかかってこられた家庭は、現状でさえいくらでもある。日本の家族の解体で生きる寄生サヨクが使っているカネは、私の家族から奪ったカネだ。ユダヤ人たちを殺す活動費と自分の生活費を、ユダヤ人から奪ったカネで賄っていた、ナチスとまったく同じ話だ。

 寄生サヨクの力が倍々ゲームで膨れ上がるのを横目で見ながら育児をしていた私は、何年か前に息子らが成人というゴールポストに駆け込んでくれて、無事に逃げ切れて、ほっとしている。子供が成人してしまった今では、あいつらが、虐待という名目で私たちをアウシュビッツに送ることは、もうできないのだ。

 政府管轄下のNPOだとかナニカの寄生の巣に棲み、国家権力が吸い取ってくれる他人の生き血で命をつなぐ寄生虫たちは、他人の生き血を吸える利権を得られただけではあきたらず、日本全土をアウシュビッツにしようとしている。ナチスからパクったみたいな看板コピーが、「子どもの福祉」だ。

 子供を育てる家族のカネを国家権力に強盗させては、自分たち反社NPOの寄生虫仲間で山分けをする、「子どもの福祉」と称する仕組みは、心底、腹に据えかねるものだ。「善行だと言うのなら、そのゴミ政策に賛成しない者から強盗せずに、自分のカネでやったらどうだ」。そう言う人がいくら多くても、サヨク寄生虫どもが自分のカネを出す日は永遠に来ないし、来るわけもない。国家権力に強盗させたカネに自分らが寄生するために「子どもの福祉」があるのであって、「子どもの福祉」のために強盗させているわけではないからだ。タカりの看板に使えないなら、「子ども」も「福祉」も、彼らにとっては意味がないのだ。

 合法武力を独占している政府を使い、徴税から逃れる力のない私たち弱い者たちを強盗させる、それがあいつら寄生サヨクの「子どもの福祉」の目的なのだ。あいつらの語る「子どもの福祉」がいかにゴミかは、本物の子供を自分で育てて、子供の友達とも付き合ってもいた、私には、ずっとわかっていた。自分自身も現在ならば「支援が必要だ」と言われそうな子だったし、息子らのいちばん仲の良かった子たちの家庭は両方とも崩壊したけれど、そういう家庭の子が自分の力で強く生きることの、何がいけないというのだろうか。赤の他人の子を利用して政府をパシリに使って、赤の他人から強盗させたカネに吸いつき、「自分の」命をつなぐ、腐った寄生虫に生きていただくために、日本の子供はいるわけじゃない。

 自分のカネを出すどころか、カネを引っ張る口実にした他人の子供に寄生して善人気分で生きる奴らは、他人のカネで行ったソープでイケメン気分で嬢に「気持ちよかっただろう」と言う、身体も心も腐ったジジイと変わらない。サヨクのクズに寄生していただくために、日本の家庭はあるわけじゃない。

 この物語を最後まで読み、それでもなお、塾に行かせてもらえなかった私の子を「かわいそうだ」と思える人は、国家権力に巣食う寄生サヨクの「権力が赤の他人から強盗したカネで子供たちを塾に通わせる」政策に賛同すればいい。塾に行けずに家事をやらされるのは「虐待だ」と思うなら、国家権力に巣食う寄生サヨクの「虐待される子供を守る」政策に賛同すればいい。他人から強盗したカネを食い物にしながら、いけ図々しく善人気分まで味わう奴らに声援を送り、虐待者の私から子を取り上げ親子ともども強制収容所に放り込む奴らの、政策を支持すればいい。

 国家権力を使って赤の他人に寄生して生きるために世論操作が必要なクズ虫どもと違って、私には、他人の自由な思想や意見に干渉しようという気はない。

 けれども、私が間違っていたかどうか、私の子供は保護されるべきだったどうか、その判断は、この物語を最後まで読んでからにしてほしい。

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