我が子の体験格差を親の努力で埋めた物語の、第四部
12.教育のための設定ではない本物の危機の体験
ここまで書いてきたものは、貧乏でもなく商売もしていない家に生まれた子の体験不足を補った、人工的な教育を語った話だ。けれども、いくら本物に似てようがガゼはガゼだし、策略は策略でしかない。大人になった彼らを見ると、十分に役に立ったと思えはするけど、疑似体験でしかなかった話だ。
けれども、ここから先の話は、策略ではなく本物だ。
上の子が小学校に入った頃から、もともと生きるのがやっとみたいな私の体調が、さらに悪化した。放浪旅行の話を見ると健康で元気に見えるだろうけど、違うのだ。旅行に出ても、私は荷物を一つも持たない。夫だけじゃなく息子たちが、私の分まで荷物を持つのだ。歩くだけでも厳しい私に荷物を持たせたら、旅行自体が成り立たないのだ。ひとつの場所に数日いるなら、午後の私は、ずっと昼寝だ。旅行のための荷物を持たずに、午前中しか動かないから、一週間から二週間の旅行中には何とかもっているだけなのだ。午前は動くとは言っても、外出時間の半分は座り込んでいるようなものだ。
体力がなくて眠ってばかりいるのに、肝心な時には先頭に立って指揮するし、作戦はみんな考える。そんな自分を、サイボーグ001みたいかなあと、私はちょっと思っていた。と、書いてから検索してみて、サイボーグ009がリメイクされたという事実と、現代の人たちが知っているのはリメイクの方だという事実を、始めて知った。検索で出たのは私が昔に観ていた画じゃないし、001のキャラの説明も違う気がする。これを読んでいる人たちの001は、私の思う001とは違うかもだけれど、私の思う001は、抱っこされて生きている、眠ってばかりの、脳味噌しかない、しょうもない奴だ。そこだけ見れば似ている私は、ちょっと得意だったのだ。
病院に一歩足を踏み入れれば、その後は、診療科を渡り歩いて毎日通えそうな私は、「身体が弱い」なんてナマ優しいレベルではない。人間ドックを受けると、読めないような小さな印字が、びっしりと、枠をはみ出して並んだ紙が送られてきて、印字のすべての結論が「要受診」なのだ。20年ほど前に初めて人間ドックを受けた時には、結果に動揺しまくって、行くべきらしい専門科に駆けつける勢いだったけれど、「その検査がどういうものか」「どんな治療が可能か」みたいなことを調べてみたら、どれもこれも、どうしようもない話でしかなった。専門科での厳しい検査を鬼のようにしても、結果できるのは推測だけで、確定できるわけじゃないのだ。その上、推測で手術してみても、先はどうなるかわからない話ばかりだったのだ。「そんなわけのわからない話に突入する場所に行くのもなあ」と、一日延ばしに延期したまま、何も起こらずに20年だ。その20年間、まあタダだからと受け続けていた人間ドックでは、危険な数値を上下させながら、ほとんど同じ「要受診」がテンコ盛りになった結果通知が、毎年、律儀に吐き出されていた。
健康で当たり前な人のほとんどが知らないことだけれども、生まれつき弱い身体は治しようがない。それだけじゃない。病気といわれるものには、治療法がないものの方が多いのだ。病院に行けば必ず薬が処方されるから、それを治療だと思ってしまうけど、違うのだ。病院ですることの大半は、治療ではなく、「とりあえず何かしておく」だけのものなのだ。例えば、頭痛で病院に行くと、痛み止め薬を処方されるけれども、その薬は、痛みの原因を「治す」わけではなくて痛みを「感じなくさせる」だけなのだから、治療法ではなくて「とりあえず何かしておく」対症療法だ。頭痛を生み出す病気を治すのではなくて、ごまかしているだけなのだ。「原因を見つけて治す」という意味では、すべての頭痛の1%もない、極めて特殊な、命にかかわる原因があるもの以外は、頭痛は治せるものではない。そして、原因を追究することが、時に死を招くこともある。医療の危険はゼロではないのだ。医療過誤を訴える人はXを見るだけでも山ほどいるし、私が実際に知っている人が怪しい状況で何人も死んではいるのだ。
「病気の何をどうして治すというのか」と詳しく詳しく調べていくと、治療といわれているものの、まあ大半が、そんな話だ。「治す」のではなく、「ごまかす」か、いいとこ「切り取ってみる」話でしかない。野菜の腐った部分を治す手段がないのと、大差ない話だったりするのだ。
キッチンにある野菜はすでに死んでいるから腐るのだけれど、病院に行く人間は生きているので、腐っているのがおかしな話で、治っても不思議じゃない気はする。そして、確かに、薬で治る病気も、それなりの件数、あるにはある。けれども、現在、日本で病気だとされているものの、私が思うに9割は、治せる力が医療にはない。医療のそこまでの無力さは、医学の世界が病気を治す方向には発展しなかったからではないかと、考えている。医療をめぐる政治の力が、治す方向ではない方向に働いたということだ。社会は人間が動かしているので、個々の人間がどう動くか、つまりは政治の力がどう動くかで、結果がすべて変わるのだ。
言っちゃ悪いけどテキトーに人体実験を繰り返しているような病院で、どんなマズいことがあろうとも、健康な人にはたいした影響はないだろう。けれども、私みたいに弱い者だと、そのまま焼き場に直行かもだ。「効かない」と言う人も多い日本の超マイルドな市販薬を飲んで、ぶっ倒れたこともあるのだ。医療にうっかりかかると死にかねないし、実際に、誤診で臓器を失うところだった経験まである。病院に殺されたんじゃないかと疑うだけの十分な理由がある知人も何人かいる。
医療にも医療をとりまく状況にもやたらと詳しい、「医療ジャーナリストですか」みたいな私は、食材の栄養素だの何だのにも「栄養士ですか」みたいに詳しい。詳しくなければ、とっくに死んでいるからだ。
病院に通って何とかなるのは、単純な治療法が確立している病気にかかった、身体そのものは健康な人の話だ。上の子が小学生だった頃の、春だというのに出力を最強にした電気毛布にくるまって震えていた私は、そういう人ではなかった。異常な寒さを理由にしても、人間ドックの結果に連なる「要受診」を理由にしても、病院に通いまくれただろうと思う。赤の他人が払ってくれる健康保険を湯水のように使いまくれるのはいいけれど、その代償を、薬の効果での早期死亡で払う羽目になっただろうとも思う。
病院に行ってもどうにもならないどころか、出された薬をうっかり飲んだら悪化するのまで見えていた。だからといって、他に解決方があるわけでもなかった。最初の出産からずっと坂道をずり落ちていくように悪化していった私の健康は、上の子が小学生になった頃には、どうにもならないところにまで落ち込んでいた。大学病院を振り出しに、どこに行っても「原因不明」と言われる腹痛はあるわ、春でも目盛りを最強にした電気毛布にくるまっているわという状態に、「いよいよヤバい」と、私は思った。家事をしている時間以外は、ほぼ寝たきりになっていたのだ。
自分の症状をまあ合理的に分析してみると、どう考えても、そんな状態になってしまった大きな原因は、血行不良に違いなかった。年じゅう寒いということは、私には、体温を上げる力がないし、身体の端まで暖かい血を巡らせる力もないに決まっているのだ。不調のいちばん中心に思える、はっきりしている原因を、まずは何とかするべきだった。
血行不良だの冷えだのと聞くと、「それって血が回るだけでいいんでしょ」「暖かくすればいいんでしょ」と、すぐになんとかなりそうに見える。高価な粉やドリンクを飲めば治ると大量の広告が気安く連呼もしているし、たいした話じゃなさそうだ。けれども、立派な病名の有無や見かけの軽さと、何とかなるかは、別問題だ。
血行不良だの冷えだのという、たいしたことのない名前しかつかないような不調でも、響きの軽さの通りに簡単に治るわけじゃないなら、ぜんぜん軽微な話ではない。初夏になっても電気毛布を最強にしてくるまっているところまでくると、ほとんど末期症状だ。
そして、よほどの馬鹿でなければ、高価な粉やドリンクに効果がないのはわかることだし、私はもちろん、馬鹿ではなかった。粉やドリンクを飲めば治るのなら、似たような商品が溢れかえっているわけがないのだ。同じ効果を歌った、ありとあらゆる商品が、数限りなく売れていくのは、どれも治らないからなのだ。本当に治るものがひとつでもあれば、それだけ残って他の商品は全滅しているはずなのだ。
どう考えても、まずは血行が悪いのだから、「少なくとも血行を良くしなければマズい」のは、馬鹿じゃなければわかることだった。そして、どんな宣伝文句のものを飲んでも食べても治るわけがないのも、馬鹿じゃないのでわかっていた。血行を良くする手段も、馬鹿じゃないのでわかっていた。
けれども、私には、自分の手を、その方法に届かせる手段がなかった。
世の中には、馬鹿じゃなければわかることを当然わかってはいても、どうしようもないことがいくらでもある。寄生サヨクや白痴識人のように、クソみたいな屁理屈を唱えることで解決するなら、この世には、困る人など一人もいない。あいつらの理屈に意味があるのは、その屁理屈で役人と組んで私たちを強盗する理由にできる、あいつら自身の寄生にだけだ。
血行を良くするためには、運動するしかない。馬鹿じゃないので、それはわかっていた。けれども、家事労働で疲れて果ててしまう私には、運動をする体力が残らないのだ。そして、私の家庭には、家政婦を雇えるだけのカネはなかった。寄生サヨクが棲む政府が強盗していく税金と社保を合わせれば優に家政婦を雇える金額になるのだけれど、夫が家族のために稼いだはずの、そのカネは、夫の妻で夫の子の母親である、私の命をつなぐためのものではなかった。私たち家族に寄生している人たちのものだった。
「家事と育児しかせずに夫と暮らしているようなクズ女は飯を食うだけ無駄だから死ね」という日本政府の方針に、まるで従ったように、私は、国策通りに若死にしてあげられる状況だった。寄生の巣だとしか思っていない国家に従いたくもないし、愛国心などどこにもないのに、殉死させられそうだった。
とにかく血行を良くしなければならない。それはわかっていた。血行を良くするためには運動しなければならない。それもわかっていた。運動するためには運動するだけの体力がなければならない。それも当然だ。死なないための運動に体力を振り当てるためには、料理などの家事を減らさなければ無理だ。どう考えても、それしか結論はなかった。
けれども、では、その、私から減らす家事労働はどうなるのか。もともと私は、4人分の料理と洗濯と茶碗洗いくらいしかやっていないようなもので、死にそうになっていた時点で、既に家の中はゴミ屋敷に近い状態になっていた。それより家事を減らして暮らすのは、不可能なのだ。料理や洗濯や子供の世話という、生きていくために最低限の必要な仕事をなくして、生活するのは無理なのだ。
世の中には、子供を放置して遊び歩いて非難されることになる母親がたくさんいる。そして、私は、絶対にそんなことをしない。けれども、私は、子供を放置して遊び歩いて死なせてしまった母親を非難したことは、ただの一度もない。そういう女性を非難するのは、私のような、自分が子供を育てている、愛情に溢れた母親ではない。母親になった女の労力はタダで当然だと信じ切っている男と、自分の子供を育てたことのない女と、愛情が少ないからこそ育児がラクだった女に違いない。
子供を放置して死なせた母親の話を聞くと、いつも私は、「疲れ果ててしまったんだなあ」と、かわいそうに思うだけだ。
人間が生き続けるためには、毎日何度も食事が必要で、家族が普通に生活するには、少なくとも朝と夜の食事の用意が必要なのだ。家事労働を私から減らすためには、私から減らした分の仕事を誰かに代わりにさせるしかない。そして、その労働を他人から買うには莫大なカネが必要なのだ。
強権政府の強盗力で自分の呼吸にさえも私たちに課金してくる、「企業の役員程度はもらえますよ」とぬけぬけと、自分たちが看板にしている「可哀そうな人たち」をカモって生きる、サヨクの寄生虫たちには「この世に存在しないことになっている」家庭の中の労働は、外注するには多大な支払いが必要なものなのだ。そして、寄生サヨクが食い散らかしたカスしか支給されない、働く者たちの手取りには、そんな金額は入っていないのだ。
存在しない労働を得ようとするとカネがかかるのは、おかしな話ではあるけれど、本当のことだ。
あいつらサヨクの寄生虫どもの食い扶持が強制徴収された後の、家族のために夫が働いて得たはずの手取りには、育児や家事を支払える金額は残っていない。寄生サヨクが経営しているNPOでは、「私がするのと同じ」家事や育児の労働に、「私の夫から奪われた」カネが「給料として」渡されるのに、その同じ金額を、奴らはなぜか、私の家庭には渡さないのだ。そのカネを稼ぐ夫自身の子供を育てている私には、自分ら寄生サヨクがやった時には「育児にかかる」と称しているのと同じ金額を渡さないのだ。
夫にはタダで使える「奴隷」がいて「奴隷にはカネを払う必要がない」というのが、寄生サヨクの考え方だ。強盗団の寄生虫どもが考える、その奴隷とは、私のことだ。
寄生サヨクの見方によると「ありもしない労働」のために、私は、寝たきりみたいになるまで落ちぶれていた。寄生サヨクによれば「ないはずの労働」を、他の誰かに回す算段をしなければ、そのまま早死にしそうだった。
会社を8時に出るのさえ厳しい夫に、家事をさせるわけにはいかなかった。稼いだカネの半分以上が国家権力に強制徴収されて寄生サヨクの餌になる残業代のためではなくて、残業をしなければ開発部門の職場にいられないからだ。夫は、「世界のどこにもまだないもの」を、開発する仕事が好きだった。それに加えて、彼の体力も、会社の仕事だけで限界だった。残業代の半分以上を寄生サヨクが棲む国家権力が奪ってなければ、できる人が少ない、外貨を稼いで日本人を豊かにする仕事で夫が残業しているだけで家政婦が雇えたのに、日本では、日本にとって重要な仕事をするより家に帰って子守をする方が経済的にはマシなのだ。そうやって、日本の未来の技術革新を寄生サヨクが食い潰してきたのだ。
夫をあてにはできないけれども、他人を雇うわけにはいかないのも明らかだった。日本ではない国に住んでいれば、サヨクにタカられないままのカネがそのまま家庭に入って、狭い空間がモノでいっぱいになってしまったゴミ屋敷ではなくて広い家に住んで、家政婦が雇えたのに。そう思っても、思えば転居できるわけじゃなし、どうしようもないことだった。
夫が働いて得たはずのカネは、夫の子供を産んで育てる私の家事や育児の労働にではなく、寄生サヨクに特権を認められた、夫とは何の関係もない、赤の他人の家事や育児に払われていた。夫のカネは、夫とは何の関係もない他人の女と子に払われるべきカネで、寄生サヨクの見方によれば「奴隷」の私は、死ぬまで無料で働くべきだった。それが日本の、国家権力の意思だった。
だからといって、国家権力の望む通りに、大人しく、みすみす殺される気は、私にはなかった。
息子らに家事をしてもらうしかない。それが、唯一無二の結論だった。
13.寄生サヨクとヤングケアラーと日本から消える技術者と外科医
その時までは、私は、我が子には家事をさせないようにと、頑張っていた。親の家でやらされていた家事が、心の底からイヤだったからだ。そもそも、私は、寄生サヨクの奴らと同じ、心の底から働きたくない人なのだ。若かった頃には、働かなければ生きられないなら死ぬ方がお得じゃないかと考えていた。自殺しなかった理由は、単純に、自分1人が生きるのに必要なだけの額を稼ぐだけなら、たいして辛くなかったからだ。
なので、私は、本人の意向を尋ねもせずに勝手にこの世に呼びよせた我が子に家事をやらせるのは、フェアではないと考えていた。本人が「家事をしてもいいから生まれたい」と、労働の提供を了承して生まれたわけでもないのに、家事をさせるのは公平ではないと考えていた。取られることに同意していない者から強盗したカネで生きて恥じない、寄生サヨクの奴らと、私は、違うのだ。
政府に取り憑き、逆らうことを許さない国家権力に強盗させたカネで作った寄生の巣にぬくぬくと暮らし、「子どもを守る」だの「子どもの福祉」だのとわめき散らしていれば赤の他人に寄生してセレブになれる、そんな腐った奴らには、「公平であるべきだ」なんて考えはお笑いだろう。けれども、腐った奴らが支配するこの世の中で、腐った奴らに黙って寄生されてはいても、奴らの腐った根性が脳味噌にまで沁みるわけじゃないのだ。
いま書いていて、「そう言えば、この頃あいつら、ヤングケアラーがどうとか言い出していたな」と、思い出した。あいつら寄生虫どもが、国家権力の合法強盗で私たちからカネを奪っていなければ、私の息子は、そのヤングケアラーとやらにならずに済んだというわけだ。人の息子からカネを奪ってヤングケアラーとやらに貶める奴らが、そのヤングケアラーとやらに何の用事かといえば、どうせまた「ヤングケアラーをケアする」とかで、新しい寄生の巣を設営するつもりに違いない。ありとあらゆる言いがかりをつけられて、いったいどこまで、私たちは、搾取されればいいのだろうか。
とにかく、私は、その頃までは、息子たちに家事をさせまいと頑張っていた。けれども、彼らの母である私が「このままでは死ぬわ」となると、話は別だ。自分のことを他人に「生きてほしい」と思われる存在だとは思っていなかったし、息子たちにとっての自分の価値も、たいしてあるとは思わなかったけれど、「家事をさせられるくらいだったら母親が死んだ方がいい」という選択を、息子たちがするとはあまり思えなかった。「息子の気持ちが私に見えているわけじゃないし、家事をさせられるより私が死ぬ方がいいかもしれない」と、何度も考えてみたけれど、その考えはどうも違う気がした。この時にはもう、私は、そこまで狂ってはいなかったのだ。
余談だけれど、子供時代に刷り込まれた価値観は、それがおかしなものであっても、生涯つきまとってくる。そして、精神病だと言われる人の大半は、本物の精神病ではない。生まれつき自分は頭がおかしいと信じ切っていた、私の場合は、本物ではなかった。そんな私と似たような人が大量にいるはずだと、私は思っているし、その原因を作ったのがサヨクの奴らだとも思っている。そんな話も、いずれ語りたいものだと思う。
子供時代に植えつけられた意識のせいで、私には、他人から愛情を持たれて当然だという感覚がない。そんな私が、「お母さんが死ぬくらいなら家事をする方が子供たちにとってはマシなのではないか」と思えたのは、画期的なことだった。
そういうわけで、私は、「このままでは早死にしそうだ」という状況を告げて、息子らに家事をシフトしていった。その後の彼らの生活は、健康で元気なお母さんがいる家の子とは違うものになってしまったわけだった。けれども、彼らが、その環境を比べて悔やんでいいのは、実の母である私と、他の家の健康で元気なお母さんとを、「取り替えたい」と思う時だけだ。この虚弱な1人しか私はいないので、健康で元気なお母さんが良かったと思うのであれば、その願いは、つまりは私に消えて欲しいということだ。
家事を子供らにシフトしていった私の家庭では、上の子が中学生になる頃には、家事の半分以上を子供らがやるようになっていた。家事を減らして貯めた体力で、私は、買い物だの気功教室だのに出かけた。休日には、できるだけ家族で出歩くようにもしていった。それまでは、買い物はすべて生協の配達で、子供の学校の用事と旅行以外では外を歩いていなかったのだ。久々に並んだ八百屋のレジで、値札の額に3%を足した金額を出して、レジの女性に変な顔をされたくらいだ。1年以上も昔に消費税が5%になっているのを、私はすっかり忘れていたのだ。
子供に家事を分担させて、余裕ができた体力を使って出歩くようになると、私は、どんどん健康になっていった。家事に使っていた体力を外出に使うだけで、回復するとは思わなかった。1年だったか2年だったか経ったところで、春に出力を最強にしてくるまっていた電気毛布がいらなくなった。もう少し経ったところで、冬にも電気毛布がいらなくなった。数年後には、ファンヒーターを出すのが1月になった。片付けられた電気カーペットは、今もしまいこまれたままだ。今年の冬は、暖房器具をいっさい使わずに終わりそうだ。
現在の私は、子供が小さかった頃よりも、ずっと健康だし、体力だってありそうだ。春どころか真冬もたいして寒くないし、冬の電車の中では私がいちばん薄着なくらいだ。5月になっても電気毛布を最強にしてくるまっていた、若かった頃の状態は何だったのだろうと思う。
「女性に年齢は関係ない、永遠に若く美しい」とわめく往生際の悪い人たちと違って、私は、自分の経験が異常なことだとわかっている。同じ人間の30代より60代の方が健康で元気なのは異常なことで、本来あってはいけないことだ。夫と暮らして夫の子供を育てる女は「生きている必要のないゴミカスだから死ね」と言う、日本政府の方針通りに、私は、殺されるところだったのだ。
家事と育児で体力を使い果たしていた私と家族が生きるためのカネを、夫から強盗していた日本政府は、私の夫から強盗したカネを、寄生サヨク様ご推奨の優等女性に配っていた。夫の稼ぎを、私にも、夫の子供にも使わせるべきではないというのが、日本政府の信念だった。共稼ぎもしない、離婚もしない、乱交も虐待もしない私と、そんな私が産んだ子みたいなクズに使わせるのはもったいないと、私や私の子みたいな劣等民らはとっとと死ねと、日本政府は、夫の家族である私たちから、夫の稼ぎを取り上げたのだ。日本政府の見解によれば、夫の稼ぎは、劣等種族の私たち家族に使っていいものではなく、サヨクが認める優等女性と優等女性の子に使われるべきものだったのだ。
日本以外なら世界のどこでも高い給料が出るはずの夫と私がいるのが日本でなければ、広い家に住んで家政婦を雇えただろうと、私は、その頃、何度も思った。けれども、当時は、最先端の開発分野の仕事は、日本にしかないようなものだったのだ。中国どころか韓国が追い上げてくるより前の、日本が世界のトップを独占していた、日本のGDPが2位で当然だった時代の話だ。海外に住めば高給が取れて、日本政府の搾取から逃れられるけれども、夫は2段も3段もグレードの低い、つまらない仕事をするしかなくなってしまうのだ。下の世代の人たちは、日本のGDPが中国より下なのがもう常識で、次にドイツに抜かれても「そうだろうな」しか思わないだろうけれども、現在のその状態は、自然になったものではないのだ。寄生サヨクが占拠している日本政府が、経済の破綻に向けて、総力を挙げて努力してきた結果なのだ。
「おもしろい仕事をしているのだから報酬などいらないだろう」と、日本政府や、政府を仕切る寄生サヨクにあざ笑われてきたのは、なにも開発技術者だけではない。代表選手は、心臓外科医だ。
他人の給料の額を自分がもし決められるなら、心臓外科医と美容外科医のどちらが高給を取るべきか、日本に住む人たちに尋ねてみたいものだと思う。投票結果は見えているけれど、日本の現実はその逆だ。健保に流れる巨額のカネの8割以上が医療ではないナニカをしている寄生虫に食い潰されて、虫の餌代になって終わるので、健保のカネは手術までには回らないのだ。
強制徴収したカネに寄生して生きて、寄生できる地位を自分の子にも与えて、子孫代々政府を通じてタカって生きるつもりの一族と、その逆に、外貨を稼いで日本に住む人たちを豊かにしてきて、未来の子孫も日本の豊かさに貢献できると思える技術者の、どちらに生きていてほしいかも、尋ねてみたいものだと思う。
日本政府を経営している寄生サヨクも、数年後には、日本から美容以外の外科医が消えたと気がつくかもだ。気づいた政府の奴らが何をするかと言えば、「外科医不足を解消するため」と称する、新たな寄生の巣の設営だ。寄生政府は、新たな寄生の巣に流し込むための増税ができなければ、道路や軍隊や警察やありとあらゆるインフラを食い潰して、寄生の巣に棲む虫の餌たちの餌にするのだ。技術者を食いつぶしてきた同じ口で言う、「技術者を増やすため」という看板の寄生の巣は既に作成済みかもだ。
政府に棲む寄生虫たちは、寄生で他人を不幸にしては、自分が作った他人の不幸を新たな食い扶持にして、寄生をいっそう強化する。寄生仕草のその繰り返しを、永遠に続けるつもりなのだ。いったいどこまで、搾取されればいいのだろうか。
現在は、最先端の開発の仕事をするのに日本にいる必要はなくなった。他国がガンガン追い上げて、分野によっては抜かれたからだ。技術者が日本から姿を消して、美容以外の外科医も姿を消して、輸出がないので通貨の価値がなくなって食料も衣料も輸入できない状態になって、権力者の寄生サヨク以外の手術は5年待ちになり、日本人に残されるのは「優しい社会」とわめき続ける寄生サヨクの巣だけになるのだ。
初めに外貨が稼げなくなり、次には手術ができなくなって、最後には食べ物が店から消える、社会主義国のすべてがたどった経過を、日本が再演するのだろう。国民が次々と餓死する中でも、寄生サヨクは、他人の最後の血の一滴をすすり終わるまで増殖し肥え太っていくのだろう。日本の未来に住む人たちは、歴史を学習した者ならどんな馬鹿でも予言ができた、人類が何度も見てきた景色の中を生きるのだろうか。
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