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小料理「はら」の鯛茶漬け。

雨にけぶる路地の奥にひっそりと橙色の明かりが灯っている。知らなければ誰もわざわざ訪ねてはいかないような下町の片隅。玄関に立って傘をすぼめると、足下で信楽焼の狸が歯を見せて笑っている。藍の暖簾には不格好な中にも愛嬌のある文字で「はら」と染め抜かれている。

古いけれども滑りのよい開き戸を開けて店に入ると、小さな一枚板のカウンターがあるだけ。地味でさっぱりした店構えだ。大将は中肉中背、がっしりした骨格に大きな頭で、どことなく玄関の狸を思わせる風体だ。出迎えてくれた女将さんは逆にどこか狐に似ていて、上品に着物を着こなしている。

「いらっしゃい。こんな雨でしょう。もう閉めようかと思っていたんですよ」少し関西風のイントネーションで女将さんはそう言って椅子を引いてくれた。

「うちは家庭料理みたいなもんしかないですけど、まあ、あるもんでよかったら」カウンターの向こうで大将が穏やかに笑った。

「遅くまで仕事をしてお腹ペコペコなんです」

正直きょうはさんざんな日だった。でもこの人たちにいろいろ今の自分のことを説明しても始まらない。残っていた最後の外交力をふりしぼって愛想を返し、いくつかすぐできる料理をとお願いした。

以下、妄想小料理屋ごっこ、もしよろしければおつきあいください。

お通し、オクラのナムル風。

まず運ばれてきたのはお通し。かじると、ちょうどよい火の通し加減でシャキシャキ感が残り、ほどほどの塩とごま油・ニンニクの香り。ナムル風というけれどそこまで味つけは濃くなく、あくまで上品。思わず大将に作り方を聞いてしまった。

「鶏がらスープで煮込んだだけです」大将はいとも簡単に答えてくれた。

鯛茶漬け03

<オクラのナムル風>
オクラ・・・適宜(1パック)
刻みニンニク・・・ひとかけ
粉末鶏がらスープの素・・・ティースプーン1杯程度
塩・・・ひとつまみ
ごま油・・・ひと回し

オクラは塩もみして洗ったあとヘタのところを軽く切って角を取る。ニンニクとともにひたひたの鶏がらスープ、塩、醤油でひと煮したら火を止めて余熱で味をしみ込ませる。冷めたら取り出してごま油をからめ、皿に盛る。

「知ってます? オクラって英語なんですよ」

感心しながら食べ進めていると大将が余計なウンチクを入れ込んできたのは聞かなかったことにする。でもなんか、悪気のなさそうな人だ。

焼き物、長芋のそのまま焼き。

鯛茶漬け05

お通しで一杯めのビールを喉に流し込んでいると、大将がフライパンで長芋を焼き始めた。それも根っこがまだ伸びている皮を剥きもせず、5ミリ厚程度に輪切りにしただけのもの。両面こんがりと焼き上げたら皿に持って黒コショウをガリガリ。

「どうぞ」焼き立てを口に運ぶとホクホクして、これまたちょうどいい塩加減。根っこもついたままの皮は焼かれているうちに全然気にならなくなったことにびっくり。

これ、塩はいつ振ったんですか? 目を丸くして聞くと大将はニンマリした。「フライパンに油を敷くときに、塩もフライパンにかけちゃうんですよ、そんで油と一緒に芋に吸わせる」なるほど、手慣れている。

「あんまりよけいなことを考えすぎないほうがうまくいくこともあるのかもしれませんね」

箸先の長芋を裏に表にと返して焼き色を眺めながら、なぜかそう口走っていた。大将はまな板に向かいながら片方の眉だけをちょっと上げた。もしかしたらウインクしたつもりだったのかもしれない。

煮物、小松菜とエリンギの炊いたん。

「これ、サービスです」そう言って女将さんが小鉢を運んできてくれた。「ほんとうはこれも突き出し、いやお通しなんですけど、今日はこの雨でお客さんも全然やし、たくさん炊いちゃったから」

鯛茶漬け04

聞くとほんとうにお手軽で、ただ小松菜とエリンギをめんつゆベースで煮ただけとのこと。なるほど、素朴な家庭料理という感じ。「煮浸しってこっちでは言うんですかね。関西では、炊いたん、っていうんですよ」女将さんはそう教えてくれた。木製の衛星みたいですね、と笑ったら、女将さんも少し困ったように笑った。

コツのようなものがあるとすれば、小松菜は案外火の通りが早いので、色が変わったらすぐ火を止めて余熱で味をしみ込ませることらしい。

「じっと待ってるうちにおいしくなるんです。焦りは禁物」

鯛のお造り。

待ってました!

さて、いちばん楽しみにしていたものが運ばれてきた。鯛のお造りだ。ずいぶん分厚く切られている。口に運ぶとほどよく熟成が進んでいてねっとり、旨味も増している。うんまいなー。

さては大将、魚に関してはかなりの目利きとみた。

「いやいやいや。これはそこのイオンで398円の鯛」

ええー。なんかガッカリするからそういうネタバラシはやめてー。

なんでも背、腹の柵二本セットで398円という破格だったらしい。そりゃ買うよね、って話である。鯛のいいところは「鮮度が全て」ではないという点。締めて48時間ぐらいが熟成が進んでいちばんうまい、という人もいる。もちろん釣りたてのコリッコリの身を噛みしめるのもまたえも言われぬ快楽ではある。

「今お出ししたのが背の身でね。腹の方は漬けにしてあるんですけど、締めに鯛茶漬けどうですか?」大将がきらりと目を光らせた。

最高じゃないですか?

締め、鯛茶漬け。

ばばーん、と大将が効果音を口で言いながらカウンターに置いてくれた。愉快な人らしい。締め、と言いつつサイズは丼。これ大将漬け丼ですやん、とつられてこちらも関西弁になる。

鯛茶漬け09

鯛茶漬けの漬け地
醤油・酒・みりん・・・各大さじ1

酒とみりんはあらかじめレンチンして「煮切り」に。冷めたら醤油を合わせ、切った鯛の身を入れて寝かせる。最低でも30分は寝かせたいところ。

鯛茶漬け10

ごはんに乗っける前に粗く摺った炒りごまをまぶす。

漬け地はかけすぎるとしょっぱくなるのでひとさじ程度に。大葉(青じそ)を刻んで乗っけ、熱いお出汁(だしの素をといたお湯)をてっぺんからかける。

わははは。これ絶対うまいやつ。熱々のお出汁に気をつけながらぞぞぞーっとすすると、目眩するほどの快楽。お出汁のなかでほぐれて踊る米つぶと、ねっとり濃厚でありながら甘みすら感じさせる鯛の身。そこに大葉の香りよい産毛が舌先にからみつく。炒りごまも欠かせないアクセント。

これは丼サイズで正解。いくらでも胃に入ってゆく。雨に冷えた夜だけど、身体の芯までほっこりあったまるなあー。イヤなことがあった日も、こうしてゆっくりおいしいお茶漬けで締めることができれば、もうそれでいいのかもしれない。

「ごちそうさまでした」

会計を済ませて外に出ると、いつの間にか雨は止んでいた。少し路地を進んで最初の角で振り返ると、大将が暖簾を下ろし、店じまいの支度を始めていた。

こちらに気づくと大将は暗闇の中で右手の親指をグッと立て「いいね!」のポーズをしてくれた。いやそこはお辞儀じゃないんかーいと思いつつも、ざっくばらんでマイペースなその態度、好きな人は居心地いいんだろうなあと思った。

もしあなたが町のどこかで見つけたら、暖簾をくぐってみてください。タヌキ顔の主人とキツネ顔の奥さんが適当な料理を出し、ほどよく放っておいてくれます。

どこでいつもの調子に戻そうかと悩んだけど、戻しどころがわからなくて最後までこの調子でいっちゃった。次回からは元どおりやりますので平にご容赦を。

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