優しさの適量が知りたい

人間誰しも生きていればストレスを感じることはあるだろう。
かくいう私もストレス耐性は高いが全く感じない訳ではない。考えていても仕方のないことはお酒を飲んで忘れるに限る。



お酒ばかり飲んでるな此奴、と思われる前に今回の話題を提示する。
「自分で選んだ道でしょ?」と他人に言われることへの不快感をつらつら語っていこうと思う。
不平不満ばかりだな此奴、と思われる前に本題へ入る。



私は高校も大学も就職も全て自分の意思で選択した。こっちの方が良いんじゃない?なんて私を操縦しようとする親から逃げるようにひたすら努力を重ねた。
自分の選択に後悔は無いし、後悔した所で過去を覆すことなど不可能だ。これからも私は私の道を突き進むつもりでいる。



しかし、突き進む中でもしんどい瞬間が多々あった。学生時代、問題集を解いても解いても成績が上がらず、この停滞を乗り越えることができれば爆発的に伸びると教師に言われていても、しんどいものはしんどかった。こんなに努力してるのに、なんて悔しくて惨めでやりきれない思いを抱えていた。その時思わずしんどいと漏らしてしまった私に教師から返ってきた言葉は「でも自分で選んだ道でしょ?」だ。



良く考えればそりゃそうだ案件である。愚痴ってる暇があるなら勉強しろと思われても仕方がない。
しかし、当時の私はこう思ってしまったのだ。「そんなもん分かってるんだよ!!!」と。
そんなもん分かってる。自分の選択に後悔なんてしたくないからこそ、そんなもん痛いほど分かってる。分かってるけど、しんどいものはしんどい。苦しくて仕方がなかった。その苦しさを自分の内に留める余裕がなかった。
行き場のない感情に戸惑う私は、口を閉ざして問題集へ取り組むことしかできなかった。



そんな経験を持つ私はこう考える。
「自分で選んだ道でしょ」という言葉は自分自身に向ける言葉であり、他人から向けられるものではないと。自分で選んだのだから踏ん張るぞ!と、己を奮い立たせるための言葉であると。
他人がそれを用いることは、「自分で選んだ道なんだから自分で頑張りなさい」と突き放すものではないか、と。



思うことは自由だ。私だってしんどいぴえんしている世の中の人間に「でも自分で選んでるんだよなあ」と思うことは多々ある。それをわざわざ口にしないだけで。
思った言葉を相手へ投げかけること、それも自由ではある。しかし、相手が存在する以上その自由には責任が伴うのだ。不条理だとしても、他人に自分の思いが100%伝わることなんて有り得ないことなのだから。自分本位の思考を投げつけることは暴力に等しいことを、私は今までの経験で理解した。



しんどい気持ちを吐露したかっただけの人間に突き放すような言葉を投げかける人間こそ、他人の気持ちが1ミリも分かっていないと思ってしまう。
ISTPらしくないだろうか。そんなことはないと思う。相手が何を求めているのかは、感覚で何となく分かっている。それを判断の指標にしないだけで。
相手の愚痴には「今は共感が必要?それとも解決策が必要?」と投げかけてしまうだけで、前者であれば(かつ仲の良い相手であれば)全力でFeフル回転させる愛情くらい持ち合わせている。



私の愛情は置いておいて、共感力の高い優勢機能がFeの人ほど「え?!そんなこと言えるの?!」みたいなことを平然と口にすることが多いように思う。おそらくだが、共感力が高すぎる故に自分と相手の境界線が曖昧になっているのではないだろうか。私が我慢できるんだからあなたも我慢できるでしょう?みたいなむず痒さを感じてしまう。



宙ぶらりんな不安をただ受け止めてほしいだけ、そう思う人間は少なくない。
バファリンだって優しさが配合されているのだから、マジレスにも優しさを配合してあげたいよね。なんて思う今日この頃。

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