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働くこと、好きなこと、そして、生きていくということ

ずっとずっと、このテーマについて考えていた。
大学を卒業して結論を先延ばしにして、大学院に進学した。
大学院は勉強することが仕事みたいなストイックさがあって、同年齢の友達よりお金のない生活は少し辛かったけどそれなりに充実していた。
ものすごく熱心に研究に向き合ったかと言われれば、そうでもないけれど、
途中でやめるのももったいないし、流れにのるようにして学生を続け、博士を取得した。
正確に言えば「ものすごく熱心に向き合っていた」時もあったけど、それが長続きしないのが、自分の欠陥だと自覚している。

日本国内では博士を取得した人の王道の就職先は大学の教員だ。
私の専攻分野は他の分野と比べれば、大学への就職は無理な話ではないのだけれど、関東圏を離れたくないとか、本当は全然違う分野の仕事をしてみたかったとかお得意の回避的な思考でそれほど熱心に就職活動もしなかったので大学には就職できなかった。
結局、大学の時点で取得していたとある資格を活用して都内のそれなりに安定した会社に入って、ずっと生きてきた。

他の仕事をしてみたらどうだろう?今のままでいいのかな?大学の教員になった方が良かったのかな?
そんな思いがよぎることはあったけれど、安定した収入とか有給休暇で出かける旅行とかでごまかしながら、何も変えずに生きてきた。

それが最近。
いよいよ、無理が来たのか自然な流れかはわからないけど、仕事が辛くなってきた。
理由は単純で、仕事が大変になったからだ。何それ。
自分で希望したことだけれど、職位が上がった。そしたら当たり前だけど責任が大きくなった。
そして、責任を全うするためには、週末を楽しみにそれなりに働くだけでなく、ちゃんとした目標がないと難しくなった。
仕事で関わる人はたくさんいて、それぞれがいろんな考えや希望や価値感を持ってる。
途中でいろんなことを言ってくる人もいて、断ることも必要だ。
それぞれを気にしていたら振り回され過ぎて、何も決められない。
そんな時に必要になってくるのは、きっと仕事の上位の目標みたいなものだろう。
自分がこの仕事を通して、世の中をどうしていきたいのか?みたいな。
それを持たずに仕事をしている人は、自分の上司の顔色を窺ったり、なるべく面倒なことを避けて目の前の問題がとにかく片付くだけのような方法をとる。
そういう上司を自分は今まで批判してきた。
でも、実際上司になってみたら本当に面倒くさいことが多すぎて、批判してきた上司の気持ちがわかるようになってしまった。
このままでは、ろくでもない上司になりそう。

みんなのためにならない。迷惑をかけてしまう。
そう書くとなんか高尚だけど、実際は「あの人つかえない、できない」
って思われることが恥ずかしいし、嫌だ。
迷惑ならずっと前からたぶんかけていたし、私の個人的な見解だけど迷惑をかけたくないってわざわざ言う人ってそれ自体が迷惑だ。
その言葉の裏には、迷惑だってわかっているから許してねっていう甘えだったり、自分でちゃんとわかっているんだからねっていうプライドがある。
だから、迷惑をかけたくないとかわざわざ言いながら、変わらないクオリティで仕事をするのはダメだ。
で、それでどうしようと考えているのが今だ。

そんな時、友達のライブに行ってきた。
友達は曲を作って歌う。それが仕事だ。
生活するのに足りない分は別の仕事で補っている。
頻回に会うわけではないし、みんなで集まるときに顔合わせるような距離感だけれど、その友達がとても好きだし、尊敬もしている。
好きなことを貫くにはたくさんの葛藤があっただろうことはもちろん想像はついている。
でも、好きなことを貫く魅力は否定できないし、憧れる。
心から楽しげに歌う声に身を委ねるのは、最高に気持ちよかった。

好きなことを仕事にすること。
資本主義の社会では、多くの人から支持を得ると経済的にも恵まれる。
多くの人に支持されるためには、みんなに知ってもらわないといけないし、
大量生産したり、単価を高くする必要がある。
一部の人しか知らない素晴らしいものはきっとたくさんあるけれど、
そのままでは経済的な安定は得られない。
好きなことを貫くのか、貫く気概がないのなら、自分のできることの中でどうやって好きなことを探していくか。
そして、自分のできる仕事に意味を見出し、その意味に従ってちゃんと決断をしていくしかない。
それがどうしても見つからずに、辛いばかりなら何をして生活するのかを考え直す。
選び、決断するのはいつも自分であり、それが生きることなのだ。

え?今改めてそんなことをわざわざ書いて公表するなんて、我ながら呑気な人生だったんだねと思わなくもない。
でも、向き合うべきものにちゃんて向き合おう。

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