大林宣彦監督 逝去 映画の根底にある「優しさ」の秘密
映画監督の大林宣彦さんが、昨日、肺がんでお亡くなりになりました。82歳でした。
ふるさとの広島県尾道市で撮影した「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」は「尾道三部作」と呼ばれる傑作です。
いずれも私が中学生の頃のもので、とても心に残っている。いえ、心に刻まれていると言っていい作品です。
ちょっと思い出しただけでも目頭が熱くなります。
どれも自然と涙が出てきた映画でしたが、一体、何が素晴らしいのだろうと改めて考えてみました。
肉体と心が入れ替わってしまった男女を描いた「転校生」。(『君の名は。』はこの映画をリスペクトして作られたそうです)
タイムトラベラーの「時をかける少女」
突然、道化師のような女の子(実は16歳の頃の母親)が現れる「さびしんぼう」
など、設定は現実にありえないことばかりなのですが、その特殊な設定の中、おこる出来事に、さほど特別なことはありません。
基本、淡い恋愛を描いた青春ドラマです。
なのに、どうしてこうも胸を打つのか?
たどりついた答えは2つありました。
1つは、当たり前に思える日常が、実はかけがえのない日々であり、かけがえのない人たちだということを、ちょっと違う角度、違う視点で見せることによって、ほんのり感じさせる。
そのサジ加減が絶妙なのだと思いました。
もう1つは、全編にかもしだされる「優しさ」。
暴力的なシーンはなく、かといって甘ったるい感じもない。映画全体にほどよい優しさを感じ、見終わったあとに、なんともいえない、あたたかな心になるんです。
そう感じられる理由のヒントが、「尾道三部作」の3作目「さびしんぼう」の中に描かれています。
『さびしんぼう』という言葉は、大林監督の造語だそうです。
そしてそれは「人を愛することは淋しいことだ」という感性が育んだ言葉なのだと語っています。(キネマ旬報、1985年4月下旬号)
この「淋しさ」を、「孤独」という漢字二字にしてしまうと、もう別の意味になってしまうような、和言葉としての柔らかさ、繊細さを感じます。「切なさ」に近いニュアンスかもしれません。
監督は、「ぼくの映画は全部"さびしんぼう"という題をつけてもいい」と言っていたといいます。
この「さびしさ」と「愛情」の裏表が大林監督の映画の根底に流れているから、なんともいえない優しい情感を私たちに与えてくれるのだと感じました。
ちなみに、
「優」という字について、太宰治は、フランス文学者の河盛好蔵へ送った手紙にこう書いています。
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私は優というふ字を考へます。
これは優(すぐ)れるといふ字で、
優良可なんていふし、
優勝なんていふけど、
でももう1つ讀み方があるでせう?
優(やさ)しいとも讀みます。
さうしてこの字をよく見ると、
人偏(にんべん)に、憂ふと書いてゐます。
人を憂(うれ)へる。
ひとの寂しさ侘しさ、つらさに敏感な事、
これが優しさであり、
また人間として一番優(すぐ)れてゐる事ぢゃないかしら。
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また、「人と経営研究所」の所長であり、ベストセラー作家でもある大久保寛司氏は
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「優秀」とは「優しさに秀でている」と書きます。
そして、優しさとは、「人を憂う」と書きます。
優秀の優は、人を憂える。人に対して優しいこと。
すなわち、優しいことに秀でていることが優秀な人でありということです。
(『あり方で生きる』エッセンシャル出版)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
と書いています。
また、ある小学校の先生が、校長先生から「優しい」という字についてこう教えてもらったそうです。
「“優しい”という字は、イ(にんべん)に〝憂い〟と書くのだが、
本当は〝憂い〟に〝にんべん〟をつけるのだよ。
つまり人が寄り添うことが
“優しい”ということなんだ」
優しい感情には、憂い(さびしさ)と、寄り添い(愛情)が常に一緒にあるのかもしれません。
「人を愛することは淋しいこと」。それを「さびしんぼう」と名付け、すべての映画の中にその感情をそっと吹き込んだ大林監督。
そして、監督の自伝的色彩が強いといわれる映画「さびしんぼう」の全編には監督自身が大好きで、少年時代に何度も練習したというショパンの『別れの曲』が流れています。
大林監督の逝去を悼み、今日聴く『別れの曲』は特別な調べに聞こえるに違いありません。。。
https://www.youtube.com/watch?v=mUX6NmklBCU
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