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【あの画家も、しんどかった!】マティス、ロートレック、ルノワールはどう乗り越えた!?

人生は、しんどくて、当たり前だ。子どもがいてもいなくても、お金持ちでも貧乏でも変わらない。辛くても、全然、おかしいことじゃない。

でも、無名の私が言ったところで、何の説得力もない。じゃあ、もし、今や作品に数億円の値がつく有名な画家たちも、「生きるの、しんどいな」と悩んでいたとしたら、どうだろうか。

しかも、絵とか芸術といった崇高な悩みではない。それは、私たちと同じような、月末に引き落とし不能になりそうな銀行口座などの「お金」や、不機嫌な職場ならぬ不機嫌な家庭になっている「夫婦関係」だとしたら。今まで「教科書の人」だった彼らが、より身近に感じるんじゃないだろうか。

画家たちは、このような私たちと似た悩みを抱えていた時もあれば、そんな悩みを笑い飛ばすかのような思い切りのよい決断を下し、人生の舵を切る時もある。それは、病気の子どもを医者へ連れていけないほどの貧乏や、妻と子を放って制作に打ち込んだ末の家庭崩壊だったりする。

このような、芸術のために困難も厭わない選択は、「さすがに私は、この生き方はできないな」と感心してしまう。でも、だからこそ、数々の作品が生み出されたのだ。こう思うと、「じゃあ、自分も少しだけ冒険してみようかな」と、勇気がもらえる。

この記事では、私が3人の子どもを育てる人生で「しんどいな」と感じたことを、テーマ別に綴っている。テーマに関連した画家のエピソードも紹介しており、悩みを飛び越えた後の画家を紹介している。


①つい「良い娘・妻・母」を演じてしまう×他人の人生を生きないマティス

「良い母」でいようとする癖は、「良い娘」時代から既に始まっていたりする。

大学三年生の頃にスタートした就職活動で、私は自己分析がとにかく苦手だった。何度やっても、希望の職種や業界が全く見えてこなかったのだ。
一方で、同級生は「会社の規模は問わない。絶対に鉄鋼業界に入る」「法律の仕事がしたい」など次々と決断していく。私にはその姿が、きらきらと輝いて見えた。

この、やりたいことが見えない理由は、物心ついた頃から「親の喜びそうな道」を無意識に選んできたことが大いに影響しているように思う。
服のブランドから一緒に遊ぶ友達まで、私の全ての判断基準は「親に嫌な顔をされないか」だったので、自分軸というものがなかった。だから「自分」のやりたいことなんて、全く分からなかった。

誤解のないように言っておくと、両親の育て方に大きな問題があったわけではない。私の両親が抱いた「理想の娘」の像は、どの親も持つだろうそれと大差はなかった。長女の私もまた、多少のズレはあったけれど、それに沿ってだいたいうまく演じてきたと思う。だから、当時の私は、「良い娘」が板についており、親の望む道は、彼らに聞かずとも自然と察知して選べるようになっていた。

しかし、これは同時に、自分の進みたい道を選ぶことが、すっかり苦手になってしまっていたことを意味していた。そんな、自己分析ができない私にとっての救世主が、人材会社から公表される就職ランキングだった。
「とりあえず、ランキング上位の会社に入れば、親に文句は言われないだろう」と考え、ランキングに掲載された会社を片っ端から受けていった。そのため、ほぼ毎日、エントリーシートを書いているか、面接を受けていた。

そんな志望度の低い学生を、企業が見破らないはずがない。就職活動をして半年が経ち、同級生がほぼ内定をもらっている中で、私は一社もなく、じりじりと焦っていた。ところが、そんなある日突然に、某財閥系メガバンクの総合職で、内定の連絡が来た(何故かは、今でもよく分からない)。

そして、丸の内にある、内定先の銀行の本部で、最終面接の意思確認を終えた時のことだ。本部のビルを出て、両親に報告のメールを送ると、すぐに父から返信がきた。「おめでとう!ありがとう!」と。

その文面が、浮かれた絵文字とともに目に飛び込んできた時、私の中にむくむくと疑問が湧いてきた。「ありがとう、ってなんだ? 父のために就職したわけじゃないのに、礼を言われるのって、おかしくないか?」と、ビルの入り口付近で足を止めて、考え込んでしまった。

それは、まるで、「自分たちの思い通りに進んでくれて、ありがとう」という意味であるかのように思えたからだ。だとすれば、本当にこのままで良いのだろうか。さすがに「良い娘」歴が長い私も、じわじわと不安になってきた。

ふと、「今なら、まだ、引き返せるかもしれない」と頭をよぎった。今までの学費を出してもらう立場とは違い、就職先は自分で選ぶことができる。
これは「良い娘」として親の喜ぶ道を選び続ける人生を変える、絶好の機会に思えた。

それに、今まで数々の習い事や、高校受験の成功や、大学の学部選択など、親の願うことはだいたいやってきた(中には、どう頑張っても自分に向いていないものもあったにも関わらず)。「そろそろ、親の望む人生ではなく、自分の選んだ人生を生きても、バチは当たらないのかもしれない」そんな声が脳裏をよぎった。

でも、今さら自分のやりたいことなんて、ちっとも思い浮かばなかった。何より、電話やメールを頻繁に確認して、いつ入るか分からない面接のために予定を立てられない日々には、ほとほと嫌気がさしていた。就活を終えた同級生たちが、飲み会や旅行の計画を立てているのも、羨ましかった。

そのため、一刻も早く、この日々に別れを告げたくて、私は「良い娘」を演じ続けることへの疑念を振り払った。そのまま思考を停止させて、この内定先を最優先すべく、まだ選考途中で内定の可能性もあった他の会社へ、辞退の連絡を始めたのだった。

このような、つい「良い娘・妻・母」を演じてしまう。そんな悩みを越えて、「良い息子」の道を選ばず、自分の人生を生きた、ある画家がいた。それが、アンリ・マティスだ。

マティス《ダンス》



マティス《金魚》

・他人の人生を生きないマティス
マティスの父は種子商人で、息子には法律家になって欲しいと思っていた。その願いを受けて、マティスはパリで法学を学び、卒業後は地元に戻り、法律事務所で働いていた。

そして、二一歳の時、盲腸炎で入院することになった。入院中にたまたまグーペの『絵画論』を読んで油絵に興味を持ち、母親から退屈しのぎにと画材を渡され、みるみるうちに絵画にのめり込んでいった。

退院後も絵画への興味は尽きず、ついに二十三歳で画家になる決意をするに至った。そして、父の猛反対を押し切って、パリの美術学校を受験した。結果は不合格だったが、二度目で入学を果たした。

結婚して子どもに恵まれるも、三十代までは極貧だった。苦しい家計は、帽子屋を営む妻によって支えられていた。マティスは父の希望する法律家として「良い息子」の道を選ばなかった、と言える。
参考文献:現代画家全集「MATISSE」

私の場合、両親から示された道は、自分の心から進みたい道と全く違う方向を向いていることが多々あった。しかし、他人の期待に添うことで「ありがとう!」と言ってもらい承認欲求を満たす、という誘惑に、どうしても抗えなかった。

別に、親を恨んでいるわけではない。むしろ逆だ。彼らに幸せになって欲しいし、喜んで欲しいからこそ、「良い娘」になりたいと、応えるようについついそちらを選んでしまっていた。

マティスの生涯は、他人が望む人生で成功するより、自分の人生で失敗したほうがよっぽどマシだと教えてくれるかのようだ。その決断こそが、「良い息子」として親の言う通りに弁護士になる代わりに、二十世紀最大の色彩画家を生んだのだった。

②無理して、育児を頑張ってしまう×ありのままの自分でいたロートレック

育児中、特に子どもが小さいうちは、「もっと人に頼ったら?」とよくアドバイスをもらう。その通りなのだけど、口で言うほど簡単じゃない。その先には、しんどい作業が待っているからだ。

人に頼るということは、
①できない自分を認めて、
②何を他人にやってもらうのか考えて、頼む内容を選び
③その内容に相応しい相手を選ばなければならない
という段階を踏むことになる(②と③は前後することもある)。

そもそも、①の「できない自分を認める」ことは、かなり難しい。実際には、ここに最も時間と労力がかかる。なぜなら、子どもが小さいということは、母親歴だって短いということだ。自分は何ができていないのか、すぐに分かるはずもないし、列挙する暇も無い。何が原因なのかは知らないけど、とにかく辛いし、忙しい。それが大多数の、本音なんじゃないだろうか。

2人目の産後、私は夫の異動に伴うワンオペ育児で、はぼろぼろだった。周りからも辛そうに見えたらしく、先輩ママや区の職員や保健師から「もっと人を頼りなさい」と、よくアドバイスをもらった。実際にシッターサービスや家事代行の会社を、案内してくれる人も多かった。ただ、その時は、人を頼るなんて自分には縁がないこと、と思って聞き流していた。

これには、二つの理由があった。一つ目は、お金だった。当時の私は、お金を払って他人の力を借りるのは、金持ちだけの特権だと思っていた。そのため、ママ友がシッターを使っていると聞くと「ふーん。良いね、そちらは裕福で」と、どこか別世界に住む人のように感じていた。もちろん育休前まではフルタイム勤務ではあったが、上の子の保育園代やしばらく育休に入ることを考えると、決して余裕のある暮らしではなかった。

二つ目は、母親としてのプライドだった。仕事をしていない自分は、育児をしていないと生きる価値がないと考えていた。これは、育児で音を上げることは、存在価値がなくなってしまうことを意味した。だから、生きる価値がなくなることが怖くて、「もう育児、無理です!」と正直に言うことだけは、どんなに辛くても、できなくなってしまった。それはまるで、子どもたちと三人で要塞に閉じこもるかのような日々だった。だが、心身ともに、限界はとっくに超えていた。最後の砦は、壊されることになる。

長男2歳、長女が生後3ヶ月を迎えた、ある日のことだった。私は長女を抱いて、長男を乗せたベビーカーを押しながら、足早に歩いていた。急いでいたため、危険を承知でいそいそと車道を横切っていたところ、腰に銃で打たれたかのような激痛が走った。その痛みは立っていられないほど強烈で、その場にしゃがみこんでしまった。痛みは全く引く気配がなく、歩くことは愚か、立ち上がることすら出来ない。交通量の多い通りなので、いつ車に轢かれてもおかしくなかった。「あ。私、死ぬわ」と、感じた。不思議と静かな気持ちだった。

すると、たまたま近くで工事をしていた現場の人たちが異常に気付き、機転を利かせて、動けない私とベビーカーの周囲を、工事現場で使っていたコーンで囲ってくれた。彼らは交通整理をして、車が避けるよう手配してくれた、そのお陰で、何とか一命を取り留めた。

そのまま病院へ行き、シッターさんに来てもらう日々が続いた。食事は夫が担当し、起こられるかと思いきや、「むしろ、自分の食べたいものを作ったり買ったりできてラッキー」と、意外にも喜んでくれた。「なあんだ」と、ほっと胸をなでおろした。育児も家事もできなくても、生きる価値なんて、全くなくならなかったのだ。

このように、無理して育児を頑張って、「何もしなくても愛される自分」を見失う。そんな悩みを超越して、もっと大胆に、ありのままの自分を受け入れてくれる場所へ逃避していた、ある画家がいた。

それが、トゥールーズ・ロートレックだ。

ロートレック《ル・ディヴァン・ジャポネ》


ロートレック《ムーラン通りのサロン》

ありのままの自分でいたロートレック

ロートレックは十歳の頃、二度の事故によって両足を骨折し、下半身の成長が止まった。父親は失望し、一人息子なのに全く顧みなられなくなった。ロートレックは身長一五三センチで、当時のフランス人男性の平均身長一六五センチに比べると、かなり低い。肉体や家柄に対する負い目から、絵を描くことに唯一の慰みを見出しモンマルトルの娼館へ頻繁に出入りするようになった。

娼館で働く娼婦たちは寝食を共にして、共同生活を送っていた。ついに、ロートレックは娼館にアトリエを構えるまでになり、「どこよりもここに居る時が私は一番くつろげる」と語った。そこでは劣等感から解放され、誰かにも気兼ねせずに、本来の自分に戻ることができたのだ。

ロートレックは他の男性客年甲斐、娼婦を商品でなく、人間として扱った。ラブレターの代筆をしたり、ブランデーを奢ったり、相談に乗ったりした。娼婦たちからも友人として扱われ、客を待つ間のトランプや、性病検査の順番待ちなど、客が決して見ることのない日常を見せてもらっていた。参考文献:「現代画家全集 LAUTREC」

ロートレックでさえ、「貴族らしい生活をしないと生きている価値がない」という父親の価値観に苦しんだ時期もあった、というエピソードは、「母親らしい生活をしないと生きている価値がない」という、特に育休中に陥りがちな思考の罠と似ている。

私も、かつてはそう思っていた。でも、今なら絶対に間違っていると言い切れる。なぜなら、母親の価値は、育児と家事をすることだけじゃない。生きているだけで、十分すぎるほどの価値があるからだ。誰もがかつては赤ちゃんで、ただ泣くだけで、両親に幸せを与えてきた。生きているだけで、愛される存在だった。

これは、母親が身にしみて経験していると思う。自分のもとに産まれてきてくれたという理由だけで、何も出来なくても、愛することができる存在がいるからだ。そして、「何も出来なくても、愛される存在」であることは、今も、変わらない。赤ちゃんの頃だけでなく、生きている限り、母親になっても、ずっと続いていく。

ロートレックの場合、娼館での日々の果てに重度のアルコール中毒となり、若くして転がり落ちるように体調を悪化させた。そして、自身をさらけ出し、最期に看取ってもらう人物として選んだのは、最愛の母親だった。母親はロートレックの健康と人生をいつも心配していて、医者を送ったり、一時期は実家へ呼び戻して世話をしたりしていた。なぜなら、母親にとっては、どんな貴族らしくなくても、息子であることに変わりはなかったからだ。これは、家名を汚すことばかり気をかけていた父親とは、正反対だった。

その愛情は、おそらくロートレックに伝わっていたのだろう。いつもはモデルを残酷なまでに的確に描いていたが、母親に関してのみ、やわらいで、おとなしめに描いている。そして、迫りくる死期を前に、こんな言葉を残していた。

「お母さん、今もう僕は、お母さんのものだ。僕が死ななきゃいけないことも、分かってる」

そうして、母親の実家のマロルメ城にて、かつて産まれた日のように、母親に抱かれながら、静かに息を引き取った。三七歳の生涯だった。
参考図書:現代画家全集「LAUTREC」

③子どもが思い通りに動かない×機械を嫌ったルノワール

子どもが思うように動いてくれないことは、恐らく永遠の課題だ。それにやっと気づいたのは、二人目の出産以降ではあるけれど。

長男が3歳で長女が1歳、ある土曜日の昼下がりのことだ。その日の午前、私は長男を連れて、ある幼児教室の体験レッスンへ訪れた。そこはママ友から勧められた教室で、ネットの口コミも良かった。受付を済ませ、先生から「このメソッドを行えば、賢い子になる」と簡単な説明を受け、わくわくして長男の手を引いて、抱っこ紐で寝ている長女とともに教室へ足を踏み入れた。

しかし、開始後ものの五分で、長男は席から立ち上がり、後ろで見守る私の方へ来て、帰りたいと訴えてきた。なんとかなだめて座らせるも、その後の素行も散々だ。加えて長女が目を覚ましてぎゃあぎゃあ泣きわめき、教室の一角だけが修羅羅の場と化していた。

一方で、他の生徒はみんな大人しく座って先生の話を聞いて、黙々とプリントをこなしている。そんな彼らの親からの、同情と哀れみを含む視線が痛かった。それでもなんとかレッスンの後半まで居座ったのだが、長男は痺れを切らした先生にちくちくと叱られ続けるようになった。その様子は見ているこちらも辛く、地獄のような1時間が過ぎた。やっとの思いでレッスンを終え、入会はやんわりと、教室側からお断りされた。

そのまま帰る気になれず、長男の希望で公園に行くことにした。気分を変えるために現実離れした場所に行きたくて、港区セレブ御用達の、六本木ミッドタウン裏にある桧町公園へ向かった。五月晴れが気持ちよく、公園は近隣に住んでいそうなファミリーで賑わっている。広々とした芝生ではピクニックをする人も多く、高そうなワインやお洒落なバスケットがシートの上に置かれていた。まるで自分もセレブになれたかのような現実逃避が一瞬はできたものの、お行儀よくサンドイッチを頬張るセレブの子らを見て、午前中のレッスンを思い出してしまった。

そして、我が子の将来への不安と、育て方を間違えたのではないか、という自責の念が、ぐるぐると堂々巡りを始めた。すぐにスマホを取り出し、「3歳 やばい」「育児 取り戻す」など調べるも、一向に解決策はヒットしない。

ふと辺りを見渡すと、近くで遊ばせていたはずの長男が見当たらない。焦って周りを見渡すと、「きゃああああ!」と嬉しそうな第1子の声が、どこからともなく聴こえてきた。慌てて声の方向へ向かうも、時は既に遅かった。

そこは公園の一角にある、地面から水が吹き出す広場だった。水遊びに目がない第1子はずぶ濡れになって、楽しそうにびしゃびしゃと音を立てながら、水と水の合間を走り回っていた。もちろん、服は着たままだ。完全に場違いだった。

その公園では、どの子もきちんと、親の言うとおりに、遊具やボールで遊ぶか、ご飯を食べていた。背後にある高級感漂う六本木ミッドタウンなんて、とても入れた様じゃない。私はといえば、着替えどころか、タオルすら持ってきていない。周りの親からの目は、教室のそれを思い出させた。

叱ろうと声を出そうとした途端に、突き抜けるような笑いがこみ上げてきた。「あー。もう、良いよ。何もかも。別に、死ぬわけじゃないし」そんな、諦めを超えた境地に差し掛かっていた。スマホを乱暴にカバンにしまって、長男の方へ歩きながら、ふと、思いついた。もしかしたら、機械やノウハウに囲まれて暮らすうちに、子どもも思い通りに動かせると、私は勘違いしていたのかもしれない、と。

このような、子どもが思い通りに動かない。そんな悩みを一蹴しそうな、都市の現代化と機会化を嫌った、ある画家がいた。それが、オーギュスト・ルノワールだ。


ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》
ルノワール《シャルパンティエ夫人と子どもたち》

・機械化を嫌ったルノワール
ルノワールは、フランスのリモージュで、子沢山の家に生まれた。この街は陶業が有名だったが、ルノワールの一家は陶器とは関係なく、貧しい仕立屋だった。

そして、ルノワールが四歳の時、一家は生活のため、パリの下町に引っ越した。陶器の絵付けの仕事が稼げると知っていた両親の勧めによって、ルノワールは十三歳から陶器工場で絵付け職人として働き始めた。

四年間の修行の末に、やっとの思いで一人前になった。すると、その腕前は評判になり、「ムッシュ・ルーベンス」と称され、陶器にマリー・アントワネットの顔を描く係を任されるまでになった。それなりに稼ぎもあり、絵付け職人としての明るい将来を信じていた。

しかし、産業革命が始まり、工場は手仕事から量産に向かい、機械化されていった。そして、陶磁器に絵付けをする技術も開発されてしまう。当時の人々は、職人よりも機械に描かれた絵を好むようになった。また、経営悪化により工場は倒産手前にまで追い込まれ、ルノワールも職を失ってしまった。

これもあって、ルノワールは生涯、機械を嫌い続けた。失職後に授業料が安い美術教室へ通い、苦労の末に画家になったのちも、人物画をはじめ、子どもの肖像や、風景や、自然の生命力を称える花の絵などを描いていった。参考文献:『現代画家全集 RENOIR』

ルノワールの、「量産されたものによって、手で描かれた、こだわりの作品が駆逐された」ことで、機械を嫌うようになったというエピソードは、
「子どもが命令を聞かなくて、いらいらする」という、育児中に感じがちな悩みに、気付きを与えてくれる。

メソッドやマニュアル通りに動くことについては、子どもよりも機械の方がうまい。なぜなら、まだ人生のマニュアルを持たない子どもは、機械と真逆の存在だからだ。だから、思いがけない行動を自然災害のように引き起こして、親をしょっちゅう振り回す。

そんな時、思い通りに動かそうとするから、しんどくなる。たとえば、雨が降った時に、雨を止ませようとする人は、いないはずだ。おそらく、傘を買ったり、雨宿りしたりして、なんとかやり過ごすんじゃないだろうか。

おそらく、子どもがちっとも言うことを聞かないのも、同じようなものだ。
だから、周りに白い目で見られても、場にふさわしくなくても、全てにおいて言うことを聞かせなくても良い、と思う(ただし、親はかなり疲れるので、その後は美味しいものを食べたり、自分を癒やしたりしてあげることも忘れずに加えたい)。

ルノワールの名言に、次のようなものがある。
「画家のパレットなぞ何の意味もない。すべては眼で決まる」

パレットの上でどの色を施せばいいかとか試行錯誤することは、頭の中で子どもをどう動かせば良いか悩むことと似ている。いつかは大人になる子どもたち。自然なままの彼らを、ただ見てあげる。このことが、かつては子どもだった大人にできる、最大の子育てなのかもしれない。

以下の記事では似た悩みを抱えていた頃の画家のエピソードを紹介している。興味がある人はこちらもどうぞ。


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