読書日記「ザ・メンタルモデル」
去年の暮れに天外さんの自然経営を買って読んでいて、関連でザ・メンタルモデルと実存的変容があって、ザ・メンタルモデルは買ってあったのだけど、コ〇ナ禍というのもあり内面に向き合うのが辛いというのもあり、伸ばし伸ばしにしていた。
でも、先に前野隆司さんの「無意識がわかれば人生が変わる」を読んだので、やっと読む気になった。
でも、やっぱり読んでみると辛くて(笑)
自分がどのタイプかというのを自覚しないで読んでいた時は、
気楽というかそういうこともありそうだというくらいの認識だったのが、
自分は「欠損・欠陥モデル」だと自覚した途端に現実的になった。
それと同時に、今まで納得がいかなかった解釈も、
そういうことなら納得するところまでいった感じがする。
例えば、私って転職も何度もしているし、
飽きっぽいと思われていたけど、
自分としては飽きたから転職したくなるわけでは無かった。
それは、
「自分には欠けているところがあるんだから上手くできてはいけない」って
思い込みがあって、
周囲の期待が増してくると要は逃げるように仕事を辞めたり、
辞められるようにミスったりして見せていたわけだ。
能力があることを認められたら困る。
上手くできても褒めてもらえるどころか、
その後に「やっぱりだめね」とか「何をやっても無駄」って言われる。
そう思い込んできたから。
その観点でみていくと、今までのトラウマを上手く説明できる。
自分がした行動なのに、どうしてそうしたのかわからないところもあったけど、これで説明がつく。
褒められるのも好きではないし、自信もあって器用だしなんでもできると思っている自分と、デキない奴だなっていう自分がいた。
子どもの頃、たしかに器用でなんでもすぐにできる子だったんだと思う。
早くから自立しているように見えたし、
弟を連れて電車に乗り床屋へ行ったり、おばあちゃん家にいったり、一人で妹を迎えにいったり……。
お手伝いもよくしていた。
でも、何か夢中になってやって、
それを大人に見せたときに「そんな無駄なことして」とか
「何してるの(怒)」とか
「そんなことしてるんだったら勉強しなさい」とか
そんな風に言われてしまい、褒めてもらえた記憶が無い。
保育園の時に描いたの電車の絵や、小2の冬の宿題の習字や、小4の時、写生会でお寺を描いた絵、小学校高学年での自由研究など、
入賞したりして校外で展示されたりした。
もちろん、褒めてくれる人もいただろうけど、
お母さんに「勉強はできないくせに」とかって言われた。
ピアノを辞めさせられた時も
「幼稚園の先生になるわけじゃないからピアノなんてやらなくていい」とか言われてたもんね。
そういう風に言われてしまうと、やる気を失くして、
それ以上は頑張ろうとせず、
止めてしまったり、静かに目立たないようにしていたんだろうな。
あと、「自分はここにいても大丈夫か?」っていう不安。
あったよね。
保育園の頃から仲間外れにされていたし、
卒中、「あっちいって」とか「こないで」って友達に言われてた。
先生に本当のことを話しても、信じてもらえないこともあった。
本には、「適合期で痛みに触れないように適合し能力を上げていく、そこそこ悪くない人生。」っていうのがあるんだけど、
なんか単独では存在していなくて、
次の直面期といつもセットだったように思う。
ずっと、適合期と直面期を一緒に過ごして、
なんだかわからないけど上手くいかない時代を過ごしてしまった。
やっと、自己統合期や体現期に入ってきたような気がする。
大人になってからは、
何をしている時が楽しいのかなんて全然わからなくなっている。
時々、ベビーシッターの仕事をするのだけど、
子どもや赤ちゃんは正直な反応をしてくれるので、
子ども相手の仕事は天職なんだなって思う。
まさに欠損・欠陥モデルの人たちが目指したい世界
「ありのままで安心して存在していられる世界」だものね。
「そのままでいいよ」って、
できることが増えれば「できるんだ。すごいね」って
一緒に喜べる。
2020年6月29日の日記より
後程、本のリンク入れます♪
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?