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常なき世で絶対の今を生きるために

松下幸之助 一日一話
11月 8日 ふりこの如く

時計のふりこは、右にふれ左にふれる。そして休みなく時がきざまれる。それが原則であり、時計が生きている証拠であると言ってよい。

世の中も、また人生もかくの如し。右にゆれ左にゆれる。ゆれてこそ、世の中は生きているのである。躍動しているのである。

しかし、ここで大事なことは、右にゆれ左にゆれるといっても、そのゆれ方が中庸を得なければならぬということである。右にゆれ左にゆれるその振幅が適切適性であってこそ、そこから繁栄が生み出されてくる。小さくふれてもいけないし、大きくふれてもいけない。中庸を得た適切なふれ方、ゆれ方が大事なのである。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

松下翁の仰る「ふりこの如く」生きるためには、大別して「無常」「支点」「中庸」の3つへの着眼が必要ではないでしょうか。

先ず、「無常」とは読んで字の如く「常では無い」、つまりは今は常に変化しているということであり「流転」とも換言できます。振り子というものは、動かずに止まっていては振り子としての体をなさないのと同様に、人も行動しなければ成長することはなく、常に行動し続けることで進化・発展していくことになるのだと言えます。

禅を世界の人々に広めた日本人として知られる鈴木大拙は著書「時間と永遠」において次のように述べています。

「・・・瞬間が永遠で、生と死そのものが涅槃で、この世がそのままで楽土であるということでなくてはならぬ。移りゆく時間、そのほかに永遠はない。永遠は絶対の今である。」
(鈴木大拙)

涅槃とは、一切の煩悩から解脱した状態のことであり、私心の入る余地がない状態とも言えます。人間は私心のない「生物的生命」として生まれてきたとするならば、人が生きるということは「生物的生命」にある種の私心に似た人格的要素を加えることとなります。人間は死を迎えた時、「生物的生命」を「人格的生命」へと流転しているならばその生命は永遠となり、他方で「生物的生命」のままならば永遠とはなりません。つまりは、人格的要素を持つ今という瞬間こそが永遠に繋がる手段であり、今というこの瞬間におけるあなた自身の姿や過ごし方が永遠を決めるのだとも言えます。

仮に、今あなたの振り子が止まっているならば、あなたは「生物的生命」のまま生きている状態であり永遠とはならないでしょう。仮に、今あなたの振り子が躍動しているならば、それは「人格的生命」への流転を意味し、その生命は永遠に繋がることになるでしょう。


次に、ふりこが中庸を得た適切なふれ方、ゆれ方をするためには、先ず「支点」を定める必要があります。「支点」がぶれてしまっては、ふりこの振幅をコントロールすることなど不可能です。

この場合、ふりこの先にある重りとは自分自身であり、「現在の姿」のことであるとするならば、「支点」とは、「尊敬する人」や「目標となる人」であり、自分の「あるべき姿」と置き換えられます。「現在の姿」を「あるべき姿」に変えるためには「変革のシナリオ」が必要になります。「変革のシナリオ」とは、変革のためにはどのように具体的な行動をすべきかという筋道になります。


最後に、四書の一つであり「天人一理」の儒教哲学を説いた書である「中庸」から、具体的な「変革のシナリオ」となり得る言葉を以下に列挙してみましょう。

「知(智)、仁、勇の三者は、天下の達徳なり」(中庸 二十章)

知(智)、仁、勇の三つは、徳のなかでもとりわけ重要な徳である。という意味です。

「庸徳(ようとく)をこれ行い、庸言(ようげん)をこれ謹む」(中庸 十三章)

平凡な徳の実行を心掛け、ふだんの発言を慎重にする。という意味です。

「博(ひろ)くこれを学び、審(つまびら)かにこれを問い、慎みてこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行う」(中庸 二十章)

広く先人の知恵に学び、理解できないところは先達にたずね、自分で繰り返し思索を重ねたうえで、是非善悪の弁別を加える。そのうえで、初めて実行に移すのである。という意味です。

「言は行を顧み、行は言を顧みる」(中庸 十三章)

何か発言するときには、行動が伴っているかどうかを考える。何か行動を起こすときには、自分の発言を思い出す。という意味です。

「上(かみ)に居(お)りて驕らず、下(しも)と為りて倍(そむ)かず」(中庸 二十七章)

組織の上に座っているときは、けっして偉ぶったり、驕ったまねをしてはならない。逆に、部下として仕える場合は、与えられた責任をきちんと果たし、けっして期待を裏切るようなことをしてはならない。という意味です。

「上位に在りては下(した)を凌(しの)がず、下位に在りては上(うえ)を援(ひ)かず、己を正しくして人に求めざれば、即ち怨(うら)みなし」(中庸 十四章)

上の地位についたときは、下の者を踏みつけにしない。下の地位にあるときは、上の者に取り入ろうとしない。みずからの姿勢を正して人を当てにしなければ、人を怨むこともなくなる。という意味です。

「君子は易(い)に居(お)りて以(も)って命(めい)を俟(ま)つ。小人は険(けん)を行ないて以って幸(こう)を徼(もと)む」(中庸 十四章)

君子は、淡々と自分の職責を果たしたうえで、結果は天命にゆだねる。これに対して小人は、危険なことに手を出して、幸運を期待する。という意味です。

「人一たびしてこれを能(よ)くすれば、己はこれを百たびす。人十たびしてこれを能(よ)くすれば、己はこれを千たびす」(中庸 二十章)

優れた人物が一回でできたことでも、百回も繰り返せば、われら凡人でもできるようになる。能力のある人物が十回でできたことでも、千回も続ければ、できるようになる。という意味です。


人はふりこの如く「あるべき姿」を定め、中庸を得た「変革のシナリオ」を実行することで、「生物的生命」を「人格的生命」へと流転させることになる。それを換言するならば、常なき世で「絶対の今」を生きるということなのだと私は考えます。


※記事:MBAデザイナーnakayanさんのアメブロ 2017年11月8日付 を読みやすいように補足・修正を加え再編集したものです。

中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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