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純粋に学ぶことが楽しい 60代で入学した大学での学びがこの先の夢につながる

誰にでも、「これからどうしよう?」と迷うことがあるのではないでしょうか。そんなとき、「他の人はどうしているのかな?」と思いませんか?【L100】自分たちラボでは、「身近にいる普通の働く女性たち」のキャリアや人生についてのインタビューからヒントを探してみることにしました。

今回のお話は、60代で大学に入学し、「今はとにかく学ぶことが楽しい」と語られるえつこさん(仮名)のお話です。 

えつこさん(60代後半)
経歴: 20代で結婚し専業主婦として3人の子どもを育てる。40代で離婚し、必要に迫られて就職。営業事務・役員秘書として働き60歳で退職。その後、病気で行きそびれた大学に60代で入学して学び続けている。

#ライフデザイン #インタビュー #働く女性 #専業主婦 #PTA #離婚 #スキルアップ #上司の言葉 #学び

今はとにかく学ぶことが楽しい。専業主婦時代のPTA活動は、主婦だって立派な社会人であることを証明してみせた。離婚後の就職では、自分がスキルアップすることで周りが信頼してくれて、それが自分の喜びにつながっていくという好循環を体験してきた。退職後の今、病で行きそびれていた大学に入学し、自身の学びを深め続けている。自分で決めて進んできた人生だけど、子育てには後悔の思いが常にあると語られたえつこさん。ここから先に進まれるえつこさんの道とは?

―――今回、ライフヒストリーや人生曲線を書いてみていかがでしたか?
つくづく自分らしいなあという思いにつきました。人生曲線の軸の0~100%の数字は自分に対する満足度を表しています。いつも100%以上を目指して中庸がなくて、出し切ることに喜びがある。常に110か120、落ちるときは0。

えつこさんが書いた人生曲線

入院のたびの挫折

10代:大学受験をあきらめることに

―――まずは10代で人生曲線が落ちていますね。
小学生のときから、入退院を繰り返してきて、大学受験もできませんでした。谷になっているのは病気だったところです。
両親は教育熱心ではなかったと思いますが、忙しい中でも、月に1,2回の外食は欠かさず、幼少期から家族で、映画や登山などに出かけることも多かったです。父親は、自分の子どもというより、一人の人間という扱いをしてくれて、「私がどう考え、どうしたいのか」を聞いてくれました。また、母は地域活動に熱心だったこともあり、小さい頃から地域での関わり方を実感することができました。
外国人の友人は、外国の方や障害を持っている方とも垣根なく平等に付き合いができる私を見て他の人と違うと言うのですが、それは、「私という個人と相手という個人、どちらも個人として尊重する」「私個人と社会と向き合う」という「個人の尊重」に重きを置いて育ててくれた両親のおかげだと思います。

専業主婦だって社会人

20~30代:PTA活動でスキルアップの必要性を体験

―――学ぶことやスキルアップは常に意識していらしたんですか?
20代で結婚し、専業主婦として3人の子どもを育てました。30代では1000人の子どもがいる小学校のPTA活動で会長として、お祭りを企画し実施しました。地域が子どもを育てているという実感を持ってもらいたいという思いでした。小学校の近くの企業、病院、警察・消防署、お店、ありとあらゆる団体に声をかけて回り、「子どもたちが喜ぶなら」と賛同を得て作り上げることができました。「今、子どもたちは支えられる側だが、町が一つになって皆を楽しませてくれたことが、きっと、大人になった時に支える側になるきっかけになる」と、教頭先生が広報誌に書いてくださったことはとても嬉しかったです。この成功体験は大きくて、努力することやスキルアップがいつも必要だと思うようになりました。

家庭の主婦が「社会に出たい」と言うのを聞くと、それは違うと思います。家庭の主婦だって社会人。誰でも行動することで、社会を変えることはできる。仕事を持っているだけが社会人ではない。子育てしているからこその視点もあるので、それを大切にすることが重要と、主婦のときに思っていました。

40代で離婚し、必要に迫られて就職

40~50代:会社の中でのスキルアップ

―――40代で人生曲線が谷になっていますね。
一番大きかったのは離婚でした。主人は威圧感の強い人で、時には子ども達にも緊張感を強いることがありました。違和感がありながらも、理想的な家庭を築きたいという思いでやってきて17年が過ぎた時、思春期を迎えた子ども達に精神的に体調の変化が出るようになりました。フリーランスの主人の仕事が少なくなり、代わりに私が働くことは良かったのですが、子ども達へも大学に行かずに働くことを強いるようになりました。このままでいいのかと考えて、子ども達にどうしたいか、どういう暮らしを望んでいるのかを尋ねました。連れ出すことがその時の私の責任だと感じていた私の思いと同じだったので、子どもたちと家を出ました。そこから離婚までに2年かかりましたが、この選択しかなかったと思っています。

離婚が成立すれば、さまざまな子ども手当等がもらえるようになるのですが、それまでは何の保障も出ないので、生活に追われる焦りは常にありました。離婚に同意しない主人への怒り、生活が成り立っていない不安。子どもは率先してアルバイトを見つけてきてくれて、この難局を全員で立ち向かおうとしてくれていました。3人の子どもを大学へ行かせる、その中で友人を作り、将来を考えて欲しいという気持ちが第一で、その他は、重要ではありませんでした。
節約の日々でしたが、一か月に一回だけは外食に行きました。一人1000円位の予算でしたが、今月はどの店にしようと決めて出かけることが喜びでした。娘2人は、推薦で大学の2部へ進み、成績で授業料は免除されて、息子は昼の大学を卒業しました。3人とも昼の大学へ行かせることが出来なかったことには、私の不甲斐なさと反省は残ります。現在、3人は独立し、それぞれ豊かな人生を歩んでいます。

―――家を出て、就職はすぐできたのですか?
短期の保険会社勤務で知り合った方から銀行を紹介され面接を受けたところ、営業部の庶務の仕事で採用されました。
45歳でそこに勤めるようになって経済的にも精神的にも安定しました。大きな会社の事務をしたこともなく、PCもできない私を見て、当初の上司が人事部に電話して「なぜPCもできない人材を営業によこすんだ」と怒っていたんです。本当に申し訳ないと小さくなっていたら、その上司が、「だから研修を受けさせろ」と言ってくれて、PC研修を受けさせてもらいました。そこで食費を削ってPCを購入し、自宅でもWord、Excel、タイピングを特訓し、上達していきました。
この上司は厳しくて評判な人だったのですが、その方が異動するときに、「私はこれからも仕事を続けていきたいのでアドバイスをいただけますか」と、図々しくもメールでアドバイスを求めたんです。そうしたら、「あなたは、仕事のセンスはあるから、足りないところを補いながら、上に行くという気持ちを持て。普通の事務で終わるな。」という内容のメールを下さいました。そのメールは今も大切に持っています。仕事を認められたのが嬉しく、ちゃんとプロ意識をもってやらないといけない、と思えました。そこからは、何をやっても楽しかったです。

―――仕事内容は営業だったのですか?
入ったのが45歳だったので正社員にはなれず、派遣社員として採用され、やることは事務でしたが、徐々に営業部員の仕事も頼まれて、専門的な仕事もやりました。皆が認めてくれて、与えられた仕事をこなしていき、それで皆がもっと喜んでくれるという循環が心地よかったですね。その後、会社の組織改革があり、秘書になることになり、英語、秘書検定受験に挑戦しTOEIC600点、秘書検定準一級をとりました。

体調を崩して退職、学びの道へ

60代:大学生としてのスタート

―――会社を辞めようと思ったのは?
60歳を前にして病気で1ヵ月入院。ストレスも要因の一つだったと思います。
当時55歳が定年で、特に女性は嘱託で残ることなく辞めていました。秘書は役員に人事権があったため別枠で、私だけが55歳以降も残ることになって。辞めていく人を見ているのも辛かったし、「あなたはいいわね、後ろについている人がいるから」と言われたりして、そういう自分の立ち位置がストレスになっていました。ちょうど60歳になった時に、これ以上居座る感じでいたくないな、と思って辞めました。今思えば居座ればよかったかなと半分後悔もあるのですが。

―――その後人生曲線がアップしたのは?
1年くらい療養した後、仕事をしたくなって、ある省庁の事務職の仕事をしたら、その仕事が面白くて楽しくなったんです。行った先でうまくやれるかは自分次第なので、常に仕事のスキルアップを考えました。仕事は楽しいものです。うまくいかず、認められない時は、その原因を考え書き出し、対処法を考え実行します。するとミスも少なくなり認められ、楽しくなる。この循環が私の仕事の方法です。

―――大学に行こうと思ったのは?
2年前、50歳以上対象のシニア専門大学ができたのを知り、受験して入学。全員ゼミに入り、学年末には論文発表と、学部生同様の学生生活を送れ、これが勉強なのかと勉強するのが面白くなったんです。平日はほぼ毎日大学、図書館へ行っていました。教育による街の活性化に関心があって、それについて論文を書きました。研究科に進んで一人で研究するにはもっと基本的な学力・教養を深めなくてはと思い、放送大学に入学しました。オンラインと通学の組み合わせで、働きながら学ぶのに合っていたので。
子ども達は驚いていました。「今更大学に行ってどうするの?」「卒業して何するつもり?」「就職するわけでもないのに」と言われました。大学は勉強から研究を見つける場所で、目的ではないですね。勉強って何かのためにやるものなの?私は勉強したくて行くだけなのに。ただそれだけ。これからもずっと、勉強は続けていくんだろうなと思います。今は「5G」になり、データサイエンスの時代になるので、私はそれを身につけたい。何をするつもりというのではなくて。
 私が20代のときの大学教育と今の大学教育は全然違うと思うんです。今、最新の学問を学べていることが幸せで、学んだことが自分の要素になっていくのが最大の楽しみ。就職するわけではないので、自分の本当に好きなことをやっていればいいんです。「高齢者の生きがいが満たされる街づくり」を今後の活動の視点にしたいと思っています。

―――お仕事もしながらなんですね?
一人暮らしには仕事は必要です。毎日、人と会い言葉を交わすことが歳を取るごとに大切に感じます。通勤時間に教科書を読み、土日に授業を取っています。

70代で大学院、90代で自立しているのが目標

これからの自分

―――この先やりたいことは?
今の職場は、皆優しいし、仕事も楽しいので辞めたくはないです。70歳まで働けるので、放送大学を4年で卒業するまで働けます。卒業したら大学院を目指して、次のステップへ、と考えているだけで毎日楽しい。
篠田桃紅さんのように90代で自立されている方になりたいな、というのが、これからの目標。健康で自分の生き方を最後まで持っていたいと思います。

できないということを壁にしない

女性たちへのメッセージ

―――今、迷っている女性たちに何かアドバイスやメッセージがありますか?
自分は周りの人に良くしてもらったと思っています。なぜ良くしてもらえたのかと考えると、PCや英語などのスキルアップを自分でやったからだと思います。秘書検定もとったし、TOEICもやりました。周りの女性たちにはそういうスキルアップをする人がいなかった。できないということを壁にしている方が多かったと思います。
できなければやればいいと思うし、スキルアップすると周りが気持ちよく受け入れてくれて、仕事の幅が広がります。壁は、誰にでもどこにでもあるけれど、壁は自分で作っているもので、それを取り払うのは自分だと思っています。

―――何かを決めるときは、ご自分で決めるタイプですか?
人生を振り返ると、キーポイントの時も、誰にも相談しないで自分で決めてやってきました。自分が迷っていることを他の人に伝えてもわからないだろうし、聞いてもらうのも迷惑をかけるようで。人に頼らないというのではなくて、自分で決めてきたなとつくづく思いました。

―――今日、インタビューに参加してみていかがでしたか?
自分の考えをこんなに話したのは、離婚のときにお世話になった弁護士さん以来、2回目です。自分の考えはあまり人に話すものではないと思っていましたが、節目のときに生の人に生の声で話して聞いてもらい、理解してもらうのはとても貴重ですね。今回で整理できたことは大きい。皆さまにもお勧めです。
(*文中の写真はイメージです)

インタビュアーコメント

インタビューを終えて、思わず発した一言は、「すごい人だ」。
「とにかく学ぶことが楽しい」「スキルアップを常に考えてきた」と語るえつこさんのお話は、とても刺激的で、前向きな気持ちになりました。現在も、これからの時代を生きるシニア世代の社会人として、「学ぶことと社会のつながり」を考え、大学院を目指す姿勢に迷いはないと感じました。大学院では、どんなことを考え研究されていくのか、70代のえつこさんともお話ししてみたいです。

【L100】自分たちラボ からのお知らせ

ライフデザイン研究会【L100】自分たちラボでは、働く女性に対するインタビューを行っています。詳細は『働く女性の人生カタログ』~プロローグ~をご覧ください。

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