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世界のねじを巻きに来た・・・・・・・ねじまき鳥クロニクル

綿谷ノボルと岡田クミコの血縁のつながりと、
岡田トオルとクミコ、そしてあらゆる時代の水のつながり

原作を読んだとき(2,3回は読んでる)には、加納姉妹の姉の加納マルタが水で有名なマルタ島で修行をし、”水”に関する超能力的な力を持っているという小説の中の事実のみ考えていた。
物語が展開するキーパーソンが何人かいる。その一人加納マルタは、
赤い服に赤いビニールの帽子をかぶっていながら、
水の超能力者である。
今回舞台で実際の加納マルタを観たことで、水(青)血縁(赤)の対比が見て取れた。

クロニクル(年代記)でありながら、年代順でないというのがわたしは面白いと思うが、年代記というのはおそらく年代順に、血縁順に古→新となるのだろう(岡田クミコと実兄である綿谷ノボルの血縁関係)。

この作品は、世田谷の路地裏からノモンハンの時代まであらゆる時代が非年代順に描写されるが、共通するのはだと私は思った。

岡田トオルや間宮中尉が枯れた井戸(なし)に放り込まれるのは、
ある意味この二人がのようにさまざまな年代を渡り歩くのではないかと見終わった後ふと思ったのだ。
私の考えすぎかもしれないけど!

そして岡田トオルは赤坂ナツメグの父と同じ位置に頬に青いあざを持つ。
水の関係がつながってる…??

あと、
夫婦である岡田トオルと岡田クミコが初めて二人で出かけた場所が族館。

井戸の底に入るまで
入り口!


綿谷ノボル役・首藤康之

現実について


あらゆる種類の苦痛が世界には存在する。
それが、現実

加納クレタと綿谷ノボルのパ・ド・ドウ。
愛と憎しみは紙一重だと体感した。

加納姉妹の妹・加納クレタは、体中にあったあらゆる痛みから解放されるために、死のうと思って交通事故を起こしたが、死ぬことができなかった。不思議なことに痛みからは解放されたものの、350万円という借金を背負うことになった(現実)。借金返済のために肉体労働に走るが、綿谷ノボルによってひどい目にあった。

肉体を伴う男女の関係は愛によって結ばれるものであってほしいが、
クレタは、綿谷ノボルの憎しみやその他のゆがんだ感情で底知れない苦痛を負わせられた。

そんな悲しいパ・ド・ドウなのに、音楽とセリフと息の合ったパ・ド・ドウに乗って悲痛な叫びが芸術的に表現されていた。わたしは個人的に首藤康之がバリバリ踊るのを観たかったが、バリバリに踊っていなくとも、綿谷ノボルという悪役を体全体から滲み出していた。

舞台の仕掛け

マルタとトオルが品川のコーヒーハウスで最初に会うシーンでは、会話とともに、
トオルが不思議な世界に引き込まれるのを暗示するようなダンスが繰り広げられた。
トオルとクミコの会話でも、机が引き延ばされたり、
トオルが自問しているシーンでは、二人のトオル役がまるで心の形を模したように、トオルの考えをセリフに合わせて視覚化していた。
間宮中尉の回想シーンも、完全なる回想となるのかと思いきや、
トオルをその場に置き、
ほとんどダンサーや俳優のみで場面の転換が行われているように見えた。

人によってさまざまなシーンが切り替わるところ、良かった。

行動をすること・時間をかけること

わたしはよく村上春樹のエッセイや読者の質問やお悩みにこたえる本などで、「身銭を切って得るもの」や、「まずは行動してみてはいかがでしょうか?」などのフレーズを読む。
また、彼自身も小説家としてデビューしてからずっと、ランニングをしている。小説を書く上で”井戸の底”の一番深いところで得体のしれない悪と戦うために、体を鍛えるのだという。

そのような言葉に私も影響を受け、
行動してみることで、
それはつまり時間をかけることで
初めて身に沁みてわかることがある
と信じている。

物語という形式を使って(時間をかけて)、
岡田トオルが井戸の底にもぐったり、バッドを地面に叩きつけたりするシーンは、効率化やスピード化が求められる現代の中で忘れられていることを呼び覚ますものだった。

これらのシーンは、体感を伴うものであった。現実の世界では体感や心の震えや痛みや快感を覚えることができる。死んでしまってからは身がないので何も経験できない。

井戸の底

 舞台「ねじ巻き鳥クロニクル」を観ていて、改めて言葉の表面の裏側の
言葉では表せない世界(地球の表面下)について、
わたしは思いを巡らせる。

原作では、当然言葉でしか表現していないが、
その言葉のリズム感-音楽のような言葉-によって、地球の表面下(井戸の底)へぐるぐると、まるで洗濯機が回るようにいざなわれるような感覚になるのである。

それはちょうど5月に観たKIDD PIVOTの「REVISOR」に似たテーマかもしれない。
言葉の裏にある言葉では表せない本質というもの?

でも、なぜ舞台化が2023年(初演は2020年ごろらしいが)なのだろう?
原作が出版されたのは、1994年ごろなのに??だいぶ時間がたってる。


あくまでもいちファンとしての個人的な推測にすぎませんが、
春樹さんは、ずっと海外で生活をされており、
海外の出版社に直接、出版の交渉などをされていたらしい(『遠い太鼓』)。

いま日本のいろんな地域でアート活動が盛んになってきているが、
言葉で表現しえないわかりづらいものを受け入れるという海外輸入の動きが、普及している。

そんな時代と春樹さんの作品が、いまやっと呼応したのではないだろうか?

いままで井戸の底で世界中の読者が共有していた世界が、
やっと表面に出てきた。

あと、時間がたったことで翻訳が進み、世界中で春樹さんの作品が読まれるようになったことも舞台化の理由の一つかもしれない。

日本語で上演されたことがわたしとしてはうれしい!
音楽のようなリズム感を持つ、新しいかたちの日本語をもとに、
ダンスという世界共通言語とともに作品になっていることが。






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