240107所感
「ハンチバック」市川沙央
西東京に移住して、白杖を持つ人を多く見かけるようになった。
おそらく東東京よりは住みやすいのだろうという至極簡素な想像と共に、やはり視覚がないということは生活において不便があり、生活圏をある程度制限されるものだという、これまた非常に当たり前のことを改めて認識するようになった。
視覚、聴覚などの五感がうまく働かないことが生活にもたらす影響は、非常に想像しやすい。
一方で、箸を持つ、早歩きをする、口を窄める、といった、24時間機能しているわけではないし、なんなら代替手段あるやろ、と思っている動作が、実は致命的に生活の質を落としていることがある。
「紙の本を読む」ことがそういった類の動作であると、初めて気づかされた。
紙を捲り、摘む。本そのものを保持する。勝手に浮かびそうなページを押さえる。
これらの動作を、僕らは何気なく行なっているし、なんならそれこそが本を読むことなんじゃないかと思っている節があるのではないか。
でも実はそうではない。
読書を構成する要素をギリギリまで削っていくと、そこに残るのは、文字を読むという行為。文字を通して、作家が推敲した思考を汲み取るという行為、だと思う。
電子書籍やオーディオブックに嫌悪感を抱く人たちの中には、読書の本質よりも、その他の要素、つまり紙を摘み捲る、という行為に重きを置いている人も多いのではないだろうか。
もちろん、それが悪い訳ではない。ただ、本質に辿り着くためのハードルが高すぎて、読書そのものを諦めてしまう人が、決して少なくないということなのだ。
作者の市川さんはインタビューで「作品はあくまでオートフィクションで、重なるせいぜい30%」とおっしゃっていた。
しかし、この30%に込められた現実世界への皮肉や落胆、怒りは、紛れもなく市川さん自身の思想を反映したもの、市川さんだから描けたものではないかと感じられた。
あまりにも生々しいが故に、読んだお父様と冷戦状態に陥ったというのも十分納得できる。
技術は日毎に進歩し、以前は早々に命を落とすしかなかった先天性疾患や障害があっても、日々を生きることができるようになった。
サポートの役割も「生命を維持する」から「生活を充実させる」方向に変わってきている。
しかしそのサポートは、依然としてサポートを必要としない側からの提案であり、サポートを求める人の痒いところに手が届いていないのかもしれない。
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