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帰国しよう

 『タヒチで君は幸せそうじゃなかった』、と夫は言う。
 『ハネムーンで人気のタヒチなのに、君は幸せではなかった』、と。
 ハネムーンは所詮1週間そこらの夢幻。言葉もわからないまま、子供を育てながら10年以上も続くハネムーンなんて、そんなの悪夢だ。
 夫は続ける『だから日本に帰ろう、と思った。』
 『いや、もう何年も前から、君の幸せのために、日本に帰ろうと言っても、君は了承しなかった。』

 わたしは、わたしだけがタヒチに馴染めないなら、わたしが頑張ればいいと思っていた。一番は子供のため。わたしは運転免許をとり、タヒチアンダンスを習い、島で一番大きいダンス大会に出て、フランス語を学んで、海で毎日泳いだ。しかしそれをしてもなお、どうしようもなく孤独だった。胸がいつも痛い。心臓がギュッと掴まれ絞られているような、得体のしれない恐怖。

 『ケンカになると、いつも同じことの繰り返し。過去を蒸し返され、責められる。最低と何度も言われた。一度、手を挙げられたこともある。土下座して謝ってもなお、責め続けられた。お願いだから、離婚してくれ、と言ったこともある』

 私たちの結婚式はタヒチだった。10ヶ月の娘を連れて、初めてのタヒチ。義理の親戚があれやこれやと準備してくれた。わたしは娘の世話で手一杯。言葉のわからない親戚に囲まれ、感謝しつつもヘトヘトだった。
 結婚式は、義理の親戚200人、わたしの親族は母と叔母さんの2人きり。娘におっぱいを飲ませて、いざ自分も何か食べようと宴席に戻ると、食べ物はもう何もなかった。腹一杯になった夫は、酔っ払ってニコニコしていた。
 その後義理の家族たちと行った離島で、娘を寝かしつけて戻ると、再び夕ご飯は何も残されていなかった。暗い庭で、硬くなったフランスパンをかじる。野犬がそっと近寄ってきた。腹一杯の夫は、義理家族と楽しげに話していた。

 震災後タヒチに住み始めてから、親戚や友人が集まるホームパーティーに、手料理を持って行った。食べやすいように小さめに切ったお好み焼き。誰も手をつけなかった。わたしの子供だけがつまんで、「ママ美味しいよ」と言った。

 その頃、義理の両親はフランスに住んでいて、永遠に終わらない遺産問題解決のため、一年に5回ほど我が家に滞在した。滞在は数週間から時に数ヶ月。その間、毎日わたしが家事をし、食事を作る。さぁ、食べましょうと席につくや、おもむろに『わたしお腹すいてないわ』と一口も口にしない義母。義父はわたしが作ったパスタを『見たことがないから』と言って、手をつけなかった。

 ねえ、あなたはそんなとき、何をしていた?

 そう、何もしていなかった。いつも優しくて、誰の前でも良いひとのあなたは、孤独に苛まれる妻には冷たくあたり、義理の母の態度にノイローゼのようになったわたしに、『お前がおかしい』と言い、ドアをバタンと閉めた。

 その夜、わたしは自殺未遂をした。復讐したいんじゃない。困らせたいんじゃない。死にたいのでもない。ただ、ラクになりたい。子供に申し訳ないな、と思った。首が締まり、痛い。悔しい。こんな風に死ぬために生まれたんじゃない。たぶん、暴れた。運よくヒモがドアから外れて、首が楽になった。冷たい、ざらざらした浴室のタイル。騒ぎを聞きつけて、猫がそっと入ってきた。ツルツルの背中を何度もわたしにこすりつけ、わたしは猫をなでながら、ただただ泣いた。

 翌朝、馴染みの先生にメッセージを送る。「助けてください。死にたくない」
 下された診断はうつ病だった。投薬治療。ずっと眠り続ける。その後、回復してきたわたしに夫はこう言った。『あのとき、君はまるでゾンビみたいだったね』と。
 このとき、わたしの何かが壊れた。

 離婚しても生きていくには、仕事をしないといけない。でもタヒチで外国人のわたしができる仕事は限られている。旅行会社は忙しく薄給だ。わたしは何ができる?料理ができる。和食ケータリングはどうだ?わたしはタヒチで起業し、思いの外仕事は順風満帆だった。
 
 2021年、夫の転職が決まった。東京の会社。わたしのタヒチでの仕事は大きな契約が始まったばかりだった。それは離島のホテルへの卸。他にもペットのこと。家のこと。子供の学校のこと。コロナで直行便が止まっている。引っ越しの荷物はスーツケースだけ。覚悟を決め、全てを片付け、ペットを友人に託し、2021年冬、わたし達は帰ってきた。この懐かしい日本に。

 帰国後1年した頃、夫は泣きながらこう言った。『日本に戻って、みんな幸せになると思った。良い未来しか考えていなかった。でも、相変わらず君は幸せそうではなかった。俺が原因だ。俺が君を不幸にしている。絶望した俺は、家を出た。』


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