薬
午後、引出しの整理をしていると、五百円玉くらいの大きさの包み紙が出てきた。
それは将棋の駒みたいな形に折り畳まれており、明かりに透かして見ると中には粉薬が入っているようだった。
いまどきはたいていビニールか紙に密封されているものだが、私は子供のころに苦い思いをさせられたことを思い出して、つい、顔をしかめてしまった。
ここ最近病院にもかかっていないし、ずっと昔にもらって一包だけ飲み忘れてしまったのか。それにしても、こんなところに薬が入っているのは変だ。私は自分でも嫌になるほど几帳面な質で、処方箋も市販の薬もどちらもすぐに救急箱に入れて指示通りに服用する。だから、こんなところに薬なんかあるはずがないのだ。
私は薬をそのままにして、食事をするために部屋を出た。帰ってくると風呂に入って歯を磨いて、薬をそのままにしてパジャマに着替えた。
その夜は、よく眠れなかった。布団に入った途端に、ひゅっと悪い風が胸の中に入ってきたのを感じた。うとうとすると、そいつがひゅっと出て行こうとして、くるしい咳になった。
こんなときはしばらく体を起こして、眠い頭でぼんやり暗い部屋を見つめているしかない。
私はベッドから降りると、机の電気スタンドをつけた。粉薬はまだそこにあった。白いライトに照らされて、紙のなかに粉が入っているのがわかる。釣られるように、咳が出た。ひとしきり咳をしてから、私は包み紙を開いた。
かさこそと懐かしい音がした。口を開けて一滴の水も含むことなく、私は薬をさあっと喉に流し込んでしまった。それは想像していたのとはまったく違う味がした。ほんのり甘くて、粉っぽさどころかほとんどなんの感触もなく、一瞬喉を温かくして体の中に落ちて行った。
私は電気を消すと、ふたたび布団に潜り込だ。咳はひとつも出ない。というより、咳というものがどんなものかも思い出せぬまま、眠気がおしよせてきた。
それから私はずっと眠っている。眠りながら、眠っていることを知っている。それは私が夢を見ていて、それが夢だと気づいているからだ。
最初、私はいつも通り目を覚ましたと思った。カーテンの向こうの世界は朝の光でほの白い。小鳥のなく声がする。体を起こそうとした瞬間、耳元で、ジジジジジと嫌な金属音がした。それは見たこともないぎらぎらとしたデザインのネジ巻時計だった。
どうやら夢の中で目を覚ましてしまったらしい。
私は物珍しいものでも見るように、自分の部屋の中を見渡した。とりあえず、変わった様子はない。洗面所で顔を洗い服を着替えて、朝食をとろうとキッチンに行くと、流しの前に全身シルバー色をした機械の身体が立っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
これは夢だと知っている私は、平然と席に着いた。
機械は、あたためたパイナップルにホイップクリームをのせた皿を置いた。それはものすごく甘くてすっぱかったが、どうしても食べるのをやめられなくなるような味だった。あっという間に一皿食い尽くし、機械に「おかわりをちょうだい」と頼んだが、機械は「もうない」とすげなく言って皿を洗い出した。
そこで私は日課の運動でもするかと立ちあがったが、夢の中で運動をしても仕方がないと思った。
「運動なんてするもんか」
そう呟きながら仕事部屋に行くと、そこには巨大なピアノがあるばかりで仕事机も椅子も肘掛椅子も消えている。
「ピアノ?」
ピアノなんか習ったことも触ったこともなかっだか、どうせこの奇天烈な夢の中なら簡単に弾けるのだろうとせせら笑いながら、黒い蓋を持ち上げてみた。なかには鍵盤はひとつもなくて、何かの数字が書きこまれた紙がみっちりつまっていた。
「ちっちっ」
無性に腹が立ったが、とりあえずその紙束を取り出した。何が書いてあるのかまったくわからない。焼いてしまおうと外に出ると、そこに若い男が立っている。青いジャージの襟をばかみたいに立てているが、体は大変いかつい。
「ああ、どうもわざわざ持ってきてくれたんですか」そう男は言った。
「なに?」
「それですよ。授業で使うつもりでいてピアノのなかに置いておいたわけで」
「ああ、これ」
男は紙束を受け取ると、
「本当は、授業なんかやりたくもないんだかな」と、こちらの目をじっと見つめて言う。胸が高鳴る音がしたが、それは鐘の音だった。昔何度も聴いた、学校のチャイムだ。
「授業をやりますか」
ふりかえると、私達は学校にいた。ピアノにはきちんと鍵盤がついている。私はそれが、白い紙にばらばらに置かれた死にかけた文字に見えた。てきとうに弾けば文字は死ぬが、美しく弾いても私の意に染まない文章が出来上がると思ってうんざりしたが、そこへずらずらと生徒が入ってきてしまった。
「先生、はじめましょう」
いかにもかしこそうな顔をした生徒たちが歌い始めたので、あわててピアノの前に座ると、予想通りすらすらと駒を指す棋士のような手つきで私はピアノを弾いている。
何もない野原。のっぱら。迷い込む。
風が連結しない。かわいて切れ切れ。ぱら。
とっかかりのない野原、のっぱらに迷い込む。
その歌詞に、私は覚えがあった。昨夜、最後にパソコンに連打した言葉だ。
「やめなさい、なにを歌っているの」
「先生、何を怒っているんですか?これは有名な詩ですよ」
「そんなはずないでしょ。いいから、早く野ばらを歌いなさい」
生徒たちは野ばらを五十回歌わされ、疲れて帰って行った。
「君はまた、ひどい授業をやったらしいね」
教室を出て長い廊下をどちらに行くか悩んでいると、さっきの男が歩いて来た。
「職員室に行くつもりかい?」
「あまり行きたくないけどね。あなたは何を教えてるの」
「科学だよ、さっきの紙束見たでしょ」
「まるでわからなかった」
「君は、あの薬を飲んだね」
「どうして?」
「さっき、ピアノを見て真っ青になっていたから、音楽教師じゃないなと思ったんだよ。僕もそうなんだ、科学教師ということになっているけど、ほんとうは砲丸投げの選手なんだ」
「とすると、あなたも夢にいるの」
「僕は榎木というんだ」
彼は私の質問に答えぬかわりに、そう名乗った。私は名乗らないことにした。
「これから、外に出て少し投げようと思うんだ。君もどう?」
「砲丸を?そんな重たいもの投げられない。ラジオ体操だってできないのに」
「僕だって投げられないよ、ここは夢だから現実とは違う」
「じゃあ、何を投げるの」
「それを試しに外に出ようと思うんだ。まあ、歩くだけでもいいじゃん」
私と榎木は学校から出て、歩き出した。そこは私の良く知っている町のようだったが、じっと見ているとすぐに建物がわなないたり、いきなり窓が開いていくつも顔が飛び出たり、向うから歩いてきた人がいきなり転んだり、背後から誰かが走って来るのにふりかえっても誰もいなかったりした。
「落ち着かないな」
「うん」
「走ろう。ともかく走って景色より早く走ってどこかに行こう」
榎木は私の手を握ったが、あまりに力強く、私の手は完全に脱力してしまった。不思議と痛くはなくて、私は使い物にならなくなった右手に爽快感を感じながら榎木と走った。
「何もないのっぱら」
「ああ、君が作ったやつだね」
「作ったという言葉はあまり好きじゃないけど。作るという漢字は私には相いれないし。そもそも私は漢字が苦手で大抵パソコンに答えさせているし、私の書いているものに答えがないのだから。ここにいるとせいせいするけども」
「何もないのっぱらか。僕もここがいい」
「砲丸でも投げれば」
「いや、砲丸はもういいよ。伸び悩んでいたし、いつまでも努力なんかしていられないから」
「これからどうする?」
「二人で仲良くやろう」
榎木がにじり寄ってきた。彼のいかつい肩から、あまくてすっぱいホイップ添えパイナップルの匂いがして、私はくらくらした。目を閉じたとき、かさこそという音がした。あの粉薬か。私は目を開けて、榎から飛びすさった。
「やっぱり」
私が身をかわしたので、榎木は不格好に草の上に手をつく羽目になった。
「何がだよ?」
「あんた、ここでもそれを持ってたの」
「悪いか」
「それを飲ませて、自分の夢にあたしを連れて行って、好きにしようってわけ」
「何言ってるんだよ。自分だって、好きになろうとしていたくせにな。甘いものにつられて」
榎の手が伸びてきた。
私は壊れたはずの右手で思いきり榎木を突き飛ばした。榎はバラバラになって崖から落ちていった。
「ここは私の世界なんだから」
足元には、雨に濡れた紙束が落ちている。
「科学?」
ちがう。紙束にはすっかり滲んだ文字がずらりと並んでいるものの、ひと目で自分の書いた言葉だとわかった。
「ああ」
私は紙束を苦心して剥がして、粉々にして何もないのっぱらに向かって放り投げたのだが、風がひとつも吹かないので、そいつらは無残に野原に舞い戻っただけだった。
どうしようもない。私は思い切り寝転んだ。だが、夢の中なのに野っぱらはチクチクして少しも心地よくないので、すぐさま立ち上がるしかなかった。
目を閉じて風を感じようとしたが、風はなく、雨のひと粒でもいいから降ってくれと念じたが、湿気すらなかった。何も起こらなかった。念じすぎて、腹がぐるぐると鳴っただけだ。
私は巨大な口を開けて、息を大きく吸い込んだ。
「何もないのっぱら、ぱら。何もないということはない、だって何もない世界には何もないすらない、世界ですらない」
それは、ものすごくでかい声だった。ものすごく、ものすごくうるさかった。
それで私は激しく咳き込みながら、ようやく目を覚ました。
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