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ズボフの『監視資本主義』から    デジタル依存症と聖域の必要性

監視資本主義という、これまでとは違う資本主義が台頭しつつあることに警鐘をならすズボフの『監視資本主義』について、3回目の投稿です。初回はグーグルが大量の個人情報を集めていることへの懸念を、2回目はわたしたちが行動修正という心理学手法で操作されている可能性を主に取り上げました。今回は本書を通してはじめて気づいた問題についてとりあげていこうと思います。それは、デジタルのなかで教育されてきた若い世代の問題です。


デジタル依存症の若者たち

 メディア利用に関する国際的な実験に、5大陸10ヶ国から参加した1000人の学生のなげきが取り上げられていますが、彼らは、インターネットにアクセスできない環境で生活してみて、いかに自分がそれらに依存しているかに気づいたとして次のような問題に直面したようです。

「友人と会うことは難しいか、不可能になり、オンラインの地図やインターネットを使わずに目的地まで行くのは大変で、単に自宅で夜を過ごすことさえ困難になった」。

『監視資本主義』

 これを読んで、そうか今の若い世代の人たちは、紙の地図を広げたこともなければ、時刻表の本を使って旅行することもないんだなと思ったのですね。事前に連絡することなく、友達の家にでかけていって、「遊びましょ」と声をかけてさそうこともない。どこかに行くときは、スマホのマップを開いて、目的地を入れれば、あとはその指示に従うだけのようなことを、人生のほぼ最初からしている世代がこれから増えてくるのだと思うと、何か空恐ろしいものを感じたのです。
 地図や時刻表の本を見ることで、つながりを自分で発見し、自分なりのルートを開拓していくといったことを少なくともわたしはしてきたのですが、そういうことをしたことがない人たちが社会の大半となっていくわけです。その彼らについて次のように著者は指摘しています。

巣で暮らす思春期と成人形成期の若者は、行動工学が細心の注意を払って作った最初の人間だ。彼らはまた、コンピュータが媒介する行動修正の、巨大で複雑な構造に組み込まれた最初の人間であり、ビッグ・アザーに監督され、行動余剰を補足するための規模と範囲と行動の経済に従うよう方向づけられ、かつてないほどの知識と力の集中から生じる監視資本主義によって資金提供された最初の人間である。

『監視資本主義』

 行動修正については前回取り上げたので、そちらをご覧いただければと思いますが、ビッグ・アザーというのは、人間の行動を監視し、計算し、修正し、変化させるための知覚力と計算力を備えた装置で、見える形としては、絵文字かもしれませんし、次のようなことがすべてビッグ・アザーの表れとされています。

恐怖ではなく、他者からの圧力、抗しがたい情報共有への誘惑、センサーが織り込まれたあなたのシャツ、あなたの質問に答える優しい声、あなたの声を聞こうとするテレビ、あなたを知る家、あなたのささやきを歓迎するベッド、そして、あなたのことを読む本の中にある。

『監視資本主義』

 こうなると、それぞれの周囲はすべてビッグ・アザーだともいえます。このビッグ・アザーに囲まれた若い世代が、デジタル依存体質にどれほどなっているかという点を裏付ける数字もでていて、平均的な大人は1日に30回携帯電話をチェックしているそうですが、平均的なミレニアム世代は、毎日157回以上もチェックしているそうで、ジェネレーションZでは、このペースを超えているとあります。
 1日に30回チェックするとしても、寝ている時間などを除いて30分に1回程度、スマホをチェックしていることになりますが、157回となると、起きている間、5分おきくらいにチェックしていることになり、強迫的なスマホ依存症のような状態にあることを感じます。

ギャンブル依存症と同じようなデジタル依存症

 スマホ依存症の若い世代は、そうなるように育てられていることも、本書では取り上げられています。ナターシャ・ダウ・シュール『デザインされたギャンブル依存症』を紹介しつつ、スロットマシンのあらゆる特徴、すなわち、その数学的構造、ビジュアルグラフィック、音響、座席とスクリーンは、ギャンブラーがデバイスで費やす時間を増やし、破産するまでプレーすることを促進するように設計されているのと同じように、フェイスブックなどのソーシャルメディアは、特に若いユーザーの視線をとらえ、時間と関心を最大限に消費させるように設計されているそうです。そのために次のような社会的圧力を組み込んだ設計がされています。

フェイスブックとソーシャルメディア全般は、人間、特に若者の、群れに属したいという欲求を誘発し増幅するように設計されている。

『監視資本主義』

フェイスブックの業務は、共感、帰属、受容を求める人間の傾向を利用するように設計されており、そのシステムは、わたしたちの行動を社会的圧力という報酬と罰で調整し、わたしたちの心を一つにまとめて、他者の商業目的をかなえる手段にしている。

『監視資本主義』

 そうなるよう仕組まれて依存症になっているフェイスブックユーザーは、何をしている時でも、朝起きてから寝るまで、取りつかれたようにフェイスブックのフィードをチェックしているそうです。この強迫的な行動によって社会的安心を得ようとするわけですが、さらなる不安と検索につながっていくだけの悪循環が待っているわけです。

デジタルが踏み込めない聖域の必要性

 ソーシャルメディアのユーザーは、他者の利益のために利用されているだけでなく、その思考や人間性をそのメディアによって方向づけられてもいて、それを「拡張された委縮効果」と呼ぶそうです。

この名称が意味するのは、現在の人々、特に若者は、自分のオンラインネットワークのメンバーだけでなく、インターネットを介した大衆の目を意識して、実世界での自分の行動を検閲し、編集しているということだ。研究者らはこう結論づける。―ソーシャルメディアへの参加は「自分のオフラインの活動の情報がオンラインで伝達される可能性がある、という認識と深く絡み合っており、『想像上の聴衆』という不快な考えが、『現実の』行動を変えている」。

『監視資本主義』

 ソーシャルメディアによって方向づけられた自分がつくりだされ、行動もそれによって方向づけられているわけで、自分が見失われている状態にあるわけですが、そのことを意識できている人はほとんどいないのかもしれません。そのような状況であるにもかかわらず、このようなデジタル監視資本主義社会の操作の網をかいくぐるためには、聖域を確保する必要があることを著者は指摘しています。

自他のバランスをとるという成長過程における重要な課題をこなすには、「分離された」時間と空間からなる聖域の存在が欠かせない。聖域があればこそ、人は内なる意識を熟成させ、再帰性を保ち、自力で内省できるようになるのだ。真の心理学的真実は、「隠すものが何もないのであれば、あなたは無に等しい」である。

『監視資本主義』

 自分とは何かというのは、とても難しい問題で、ここで語ることはできませんし、自力で内省できるような自分ではないかもしれないと気づくことも難しいかもしれません。それでも、自分の行動を振り返ってみて、デジタル依存症であるかもしれないことに気づくことはできるかもしれないし、その気づきは、一つのきっかけとはなるはずです。そこから少しずつ依存症から抜けだすための模索が始まるのだと思います。
 振り返って考えると、かつての私はテレビ依存症のような状態にあったのだと思います。テレビのつけっぱなしはよくないとか、1日何時間までにしたほうがいいといった話しも耳にしていたけれども、ドラマとかにはまっていた時期はやめられなかったですね。それがほかにやるべきことができたころから減りだし、そこからさらに焦点を絞った時間の使い方ができるようになることで、テレビから離れていく道筋ができていきました。ですから、依存症は治らないものではなく、一つの方法として、スマホやパソコンを見る以上に価値のある何かを見出されることをお勧めします。
 テレビ依存症から抜けた私は、パソコンで代用できる部分もあったのでテレビを捨て、10年近くテレビなし生活を続けていますが、デジタル依存症から抜けでても、今の社会の流れのなかでパソコンやスマホを生活から完全に排除することは現実的ではないと思います。であれば、デジタル監視社会は、個人個人の内面にまで深く踏み込んできて操作しようとすることを理解して、それをさせないような使い方や設定をそれなりにしていく能力が必要となり、まずは自分自身がその能力を獲得していかなければならないと感じるようになりました。
 そのような気づきをもたらしてくれた『監視資本主義』は大部で、内容的にも難しいところのある著作ではありますが、是非お薦めしたい一冊です。

追記:これを書き終わったところで、深田萌絵さんがTikTokやチャットGPTの脳に与える影響についてYouTubeで語られているのを見たので、ご関心がある方は以下から是非ご覧ください。特にお子様がおられる方は、見て対策をたてたほうがいいと思いました。


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