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短編小説「あのころ」

あのころ


 夏休みが明けてすぐ、通学路を歩くトッコの足取りは重かった。
 黒く日焼けした同級の少年たちが、棒を振りかざして追いかけっこをしながらトッコの横をすり抜けて行く。トッコには目も留めない。トッコは深い溜息をついた。まだ朝早いっていうのにお日様は高い。麦藁帽子とおでこの隙間に汗が溜まる。
 イヤダナ。今日から勉強がはじまる。
 学校が近付くにつれてトッコの歩みは遅くなる。学校の先生と警察官と、会社の社長が世界で一番えらいと思っているトッコの母親は、歩いて二十分の通学路なのに、一時間前にトッコを追い出す。なかなか家を出ようとしないトッコに頼むようにして、遅刻しないように、先生に叱られないように家から追い出す。玄関でトッコを見送る母親は、いつだって心配でたまらない顔だ。トッコが道端の気の早いとんぼを追っかけて遅れやしないか、それで先生に叱られやしないか、人様に迷惑をかけやしないか。世間様に顔向けできなくなるような、そんなことだけは絶対にしないでおくれ。と、母親はトッコをしつけるにも嘆願の形でする。
 トッコの父親はトッコが小学校に上がる前に、頭のどこかに大きなできものができて死んだ。トッコは父親の顔をよく覚えていない。ただ何となく、父に抱えられたときに天井がすぐ近くにあったのだけ覚えている。大人になるとこの家がこういうふうに見えるのだ。そう思ったのを覚えている。葬儀が終わって親戚一同が帰った後に、母親にそう言ったら母は泣いた。早くに父を亡くした娘の不憫に泣いたのか、父の思い出を天井が近くに見えたとしか語れぬ娘のぬるい頭に泣いたのか、幼かったトッコにはどちらともつかない。
 父親が死んですぐに、母親は叔父のつてを頼って布を扱う商店に勤め出したが、いままで勤めの経験などなく、父の稼ぎに頼りきって暮らしてきたのだ。母の稼ぎはもちろん少なかった。トッコの家は見る見るうちに、それこそ日向の雪の塊のようにずんずんくずれて、トッコが二年生に上がる頃には近所でもいちばんの貧乏になった。母は繕いをしながらたまにトッコに漏らす。
 弟も妹もおらんでかえってよかった。
 トッコにはこの言葉の意味が分からない。

 トッコは四年生になった春から、急に学校の成績が落ちた。それまで決してよくはないが悪くもなかったトッコの評判は、トッコの貧乏と成績の急落で極端に悪い方に振れた。トッコは学校を嫌うようになった。夏休み前に先生からもらった通知表は、得意だった国語までさんざんだ。先生は怖い顔をしてトッコに言った。どうした冬子、近頃弛んでるぞ。どうだ、一度おかあさんとも相談しようじゃないか。
 それを聞いて、トッコは職員室の床に頭を擦りつけるようにして先生に侘びた。
 ごめんなさい先生。朝晩がんばって勉強しますから、どうか先生、家になんて来ないでちょうだい。
 担任の三十路を過ぎた男性教員は困った顔をしてトッコを見たが、それ以上は言わなかった。トッコの家が貧しいのは学校中の誰もが知っている。教員はトッコのぼろ家を想像する。それが理由と考える。
 結果、家庭訪問は凌いだものの、その夜にトッコの通知表は、母を激しく泣かせた。

 チャイムが鳴って、トッコの憂鬱な時間が始まる。
 トッコは授業中、ほとんど黒板を見なくなった。眠るわけでもなくただ唇を噛み締めて、張りつめた両腕の間からじっと床を見詰めるトッコに先生は閉口した。日に当てた紙粘土みたいに固くなったトッコの脇で、同級生たちは元気よく手を挙げる。答えを間違えた者がいれば笑い声が起こる。ひょうきん者の男子児童が、黒板に書かれた「猿」という字を見て猿の真似をして皆を笑わせた。トッコはきつく唇を噛み締める。
 先生が黒板に白いチョークで「お寺」と書いた。
「どうだ、冬子。この字は何と読む」
 突然そう言われて、トッコは打たれたように飛び上がった。先生が笑いながらトッコを見ている。教室中の音が消えたみたいに感じた。さっきまで笑っていた同級生達が、横の席にいるものは耳で、前の席にいるものは後ろ頭で、トッコを見ている。トッコは黒板に目を凝らした。黒板には白い文字が二つ並んでいる。
 だめだ。見えない。
 トッコは目を落とし、半分べそをかきながらわかりませんと言った。途端に先生の顔が鬼のようになった。
「何を言っている寺岡冬子。お前の名のてらだ」
 その言葉を聞いて、トッコの全身は、濡れた皮に包まれたように締め付けられた。目の前が真っ暗になって先生の顔が見えなくなった。黒板も見えない。隣に座るさっき猿の真似をして皆を笑わせた男子児童がトッコを指差して笑い出した。トッコは立ち上がったまま、真っ暗の視線を床に向けて体を固めた。一人が笑い出すと笑い声は広がって教室を包み込んだ。トッコは早く事が収まるのをただ待つ。笑い声の中、俯いたまま瞳だけを先生に向けると、先生は苦虫を噛み潰したような顔をして、トッコと一緒に皆の笑い声を聞いていた。

 トッコは好んで寄り道をする。嫌なことがあった日、辛いことがあった日、トッコは川沿いの土手の上を、ランドセルの肩紐をしっかと握り締めて歩く。今日は先生にこってり叱られたおかげで、お日様はもう高くなく、トッコと母親が二人とも好きな林檎みたいに赤い。歩くトッコの頬も林檎みたいに染める。
 トッコは土手を靴底で滑り降りて、そのまま草むらに横たわって赤い空と川越しの赤い町を見る。夕方の町はきれいだとトッコは思う。遠くの緑を見ると目が良くなると、体育のときに先生が言った。だからトッコはゴシゴシと両目を擦り、霞んで見える遠くの木を見詰める。木々は夕焼けに赤く染まって、繁る葉は赤い。
 うちが貧乏だってことくらい、トッコにも良く分かる。見えませんなんて言ったら、先生はきっと眼鏡を買えというだろう。そんなこと、口が裂けてもおかあさんには言えない。
 トッコはもう一度目を擦った。
 涙は出なかったが、目の奥がむしょうにむずむずとした。



※涌井の創作小説です。

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