61. 3人のおばさま

 父から母の入院を聞き、親戚のおばさま方が3人、家に来た。
二人は母の妹HおばさんとKおばさん。もう一人は義姉のSおばさん。

Sおばさんの息子と、Kおばさんの長男と次女は、東京の大学に通うため、我が家に下宿していた。

母の故郷は福島。
本家の横には蚕の織物工場があった。
私が物心ついた時には、工場は閉めていたので赤い屋根の建物だけ残っていた。
私は小学低学年までは、夏休みの間中、福島で過ごした。

Sおばさんはどちらかと言えば厳しい人。
いつも顔色を伺いながら行動していたことを思い出す。
Sおばさんが作るおはぎは評判がよく、度々作ってくれたが、私は甘いものが苦手。
ご飯にあんこというのが信じられず、一個を食べ終わるのにずいぶん時間がかかった。

近くの畑で、もいだばかりのトマトやきゅうり、とうもろこしが大好きだった。
とうもろこしには目がなくて、いつも真っ先に食べていたから、
「まさえちゃんが好きなとうもろこし、茹でたよ。」
と、Sおばさんはそう言って、おやつがわりに出してくれた。

夜には家の裏の小さな川に、毎日ホタルを見に行った。
数え切れないほどのたくさんのホタル。
小学一年生の夏休みの宿題で、蛍の絵を描いた。
絵が苦手な私は、真っ暗闇の黒に黄色の丸をたくさん描いた。
画用紙に描かれた絵は、黒と黄色しか使っていない。
幼稚園の子でもそんな絵は描かない。
絵心がないのは今でも同じ。

裏山を少し上がると、同じ苗字だけど、親戚ではないSおばさんの家がある。
途中に馬を飼っている家があって、遠くから馬に挨拶をする。
犬やネコより大きいので、近くには寄れない。
遠くから馬に向かって手を振る。
SおばさんちのNお姉ちゃんと仲良しで、家によく遊びに行った。

母の妹、Hおばさんの娘、いとこのMちゃんは同じ歳で、彼女もよく福島の本家に来ていた。
大抵は私が先に福島に行っているので、彼女がくるのを待ち侘びた。
二人でよく、近くの海に行った。
水着に着替え、水筒を下げ、浮き輪を抱えて、子供の足で30分ほど、道草も食うのでもっとかかる。
そもそもまっすぐ歩いて行かない。
道端に咲いている花を見たり、しゃがんで蟻の大群を観察してたり、ダンゴムシを拾ったり、蝶が飛んでれば追いかける…。
興味をそそるものが、田舎にはたくさんある。

大人になってから歩いたら、どうやったら30分もかかるのかと思うほど近かった。

海の近くに一本杉があるのでそれを目指す。
途中、豚小屋があり、ここでも豚さんに声をかける。
その先に駄菓子屋さんがあって、必ずアイスを買って、“あたり” かどうかを確認してから、やっと海に到着する。

母はこの福島で、高校の家庭科の教師をしていたと聞いた。
和裁の先生。
お習字も教えていたらしい。
その頃の教え子であるKおばさまは、今でもお付き合いがある。
90歳を過ぎ、なかなか会えなくなってしまったけど、私を心配して時々電話をくださる。
母の話をしてくれるのは、今ではこのKおばさまだけ。

母が生まれ育った福島の本家、そして工場も、2011年の東日本大震災の津波で流された。
海も、放射能の影響で長い間近寄ることもできなかった。

でも、私たちが目指した一本杉は、頑張ってた。
母の一番下の妹、Sおばさん(イニシャルばかりでわかりづらいけど^^;)の娘のAちゃんが、この地域に入れるようになった頃、Sおばさんを連れて裏山にある先祖代々のお墓にお参りに行った。
その時、
「まさえちゃん、一本杉、あったよ!!」
と写真を送ってくれた。

津波で何もなくなってからのお墓参りは、道もないので、昔の住所をナビに入れて行かないと辿りつかない。
もう馬がいた家もないが、Nお姉ちゃんの家は残っている。

津波が来た時、玄関まで水が来て、海の中に家があるような感じだったそうだ。
だから、水が引くまで外には出られない。
どんなにか怖くて不安な日々だったろう。

本家と工場跡地には、今はコンクリート工場が建っている。

…3人のおばさんが家に来た話の続き。

3人のおばさま方はよく喋る。
家の中が急に賑やかになった。
父は、少し迷惑そうだったけど、ご飯を作ってもらったり、娘の面倒を見てくれたりで文句は言えない。
二人で目を合わせ、苦笑い。

この3人の中で私はKおばさんに一番懐いていたと思う。
一番母に似ていて、声もそっくり。
今まで悩んだり不安だったことを、このおばさんに話した。

3人のおばさんたちのおかげ、私の不安だった心はかなり落ち着き、学校のお弁当も作ってもらい、穏やかに過ごしていた。

…続く……🐽


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