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同和問題に熱心な学校で私をいじめていたのは被差別部落出身の子ども達でした〜作文コンクールでの出来事〜

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このシリーズを読み進める前に

を見ていただけますと幸いです。
私がこの記事を書く理由などを細かく記してあります。

※部落差別問題を軽視または差別の助長を促す意図はありません※
ただし文中の中で「差別的」だと感じる表現が出てくるかもしれませんので閲覧は自己責任でお願い致します。

毎年開催されていた作文コンクール

私が参加したのは中学1年の時でした。
国語の授業でテーマ自由の作文を書き、先生がコンクールに相応しいものを選んで直接該当生徒に知らせるという形でした。
これは差別でも何でもないと私自身は認識していたのですが、私の通っていた学校は「同和教育推進校」で、人権問題に力を入れているというのが特色でした。
なので選ばれる作品は部落に関すること、人種に関することなどを書いた作品が多かったです。
でも何故かそこに私が選ばれたのです。
先生から「一定期間展示会場に飾られること」とその期間が終わった後に表彰式があり、そこで1人ずつ作文を発表することを告げられました。
私の性格上発表なんて絶対に無理だと辞退を申し出たのですが「とことん話し合う」という校風の元で毎日話し合いの場が持たれ、OKしました。
「OKした」と言っても私は何も納得していません。
ただ「OK」と言わなければ毎日毎日「話し合い」として放課後残されるのが嫌なだけで。
でも他に候補がいなかったんだと思います。
先生は何度も「ありがとう」と言っていた記憶があります。


私の作文のテーマ

私が作文のテーマに選んだのは「阪神淡路大震災」のことでした。
自分自身直接の被害者ではなかったにせよそれなりに近い地域に住んでいたので細かな被害はありました。
そして震災から少し経った頃、住む場所をなくした方々が暮らす仮設住宅がななし家の近くに次々建ち始めました。
私はそこへボランティアとしてお手伝いに行っていたのでその時の経験を記しました。
特に仲良くなったのは家屋の倒壊によって父親を亡くし、母親1人で3人の子どもを育てている家族でした。
私は主に子ども達のお世話係だったのですがいつもは明るい3兄弟の母親がこっそり泣いていたのを知っていました。
他にも「ボランティアなんていらない」と完全拒否する方々や施設内で自殺を図った人達がいたことも。
大人は子どもに暗い部分は見せないように必死だった部分だと思いますが、中学生になると幾ら隠されたって分かってしまうものもありました。
その経験を作文に書き、残さなくてはと……中学生ながらに感じていました。
私はテーマ決めのために与えられた時間の合間に仮設住宅の責任者の方に「ここのことを書きたい」とお願いに行きました。
特に仲良くなった家族にも直接交渉し、OKをもらった部分だけで作文を組み立てました。
私が中学生だった頃から随分時間が経っていますが、今日このテーマでこのnote内に記していることは当時許可をもらえたことのみです。
そういうお約束だったし、今は連絡が取れなくなった人もどこかで元気に生きていると信じているからです。
こういった他にはない視点がコンクールに選ばれたポイントだったのかもしれません。
発表自体は気が乗らなくても「やる」と決めたからにはやりきる強い気持ちで挑みました。

「カミングアウト大会」再び

そういう心持で私は当日を迎えます。
誰だか分からない人(審査員とか他の学校の先生とかだったと思います)の前で自分では比較的落ち着いて作文を発表できたとホッとしました。
発表したのはA小から2人、B小から私の計3人でした。
A小の1人は部落出身で今までいかに辛く苦しい環境で生きてきたのかを語り、もう1人は人種差別(彼女は韓国籍の父と日本人母の元に生まれた子どもです)の話をしました。
そして私は阪神淡路大震災のこと。
発表を終えた私達のところに黒いスーツの大柄な男性が近付いて来ました。
A小の2人は知り合いのようで挨拶をしており、私も会釈をしました。
先生も何か会話をしていたような気がします。
スーツの男性はA小の2人を「よくやった」「辛かったな」「君達の味方はたくさんいる」などとべた褒めし、袋詰めのお菓子を渡しました。
2人は涙を流して喜んでいました。
そのやりとりの間、私は空気でした。
別にお菓子がほしかった訳じゃありません。
でもテーマは違っても同じ場所で作文を発表した3人です。
A小2人からすれば私のテーマは軽いと受け取られたのかもしれません。
でも明らかに差をつけ、私はいないものとして扱われ………私にしては珍しくあれだけやる気に満ち溢れていたのに「引き受けなければ良かった」という感想が一番に浮かびました。

↓カミングアウト大会についてはこちら↓

帰り道、A小の2人はもらったお菓子を食べていました。
私はその後ろを黙って歩きました。
スーツの男性は部落地域などの関係者だったのかもしれません。
引率の先生も特に私に声を掛けたりもしなかったです。

認められるだけが目的じゃないけれど

存在を無視されるって大人でも子どもでも同じように傷付くはずです。
私は人数合わせで呼ばれた3人目だったんだなって後々気付きましたが、大人の言動が子どもにとってどれだけの影響力を持つのかを考えて欲しかったです。
せめてA小3人で発表会に挑むなどの配慮はできなかったのでしょうか。
あの時の大人達が1人も疑問を持たなかったことに今でも「何故?」という感情が湧いてくる時があります。
私の経験は部落出身、部落居住者、人種差別にさらされた人達に比べれば軽いものだったのかもしれません。
でも「阪神淡路大震災」は語り継がれるべき出来事だったと今でも思っていますし、おそらくその考えが変わることはないでしょう。
作文コンクールという評価を下さなくてはならない場だったことは理解します。
ただ「その人にとって印象的だった出来事」を他人が否定する権利はないと思います。
少なくとも私は「この場に私は相応しくなかった・いらなかった」と捉えました。
それも大人の振る舞いによって、です。
あの時の大人達に会えるのなら「何故あんな残酷なことをしたのか?」と尋ねてみたいです。





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