エイプリルフールの炎上もクィアベイティングもすべて間違っている

2023/4/26 加筆修正しました
エイプリルフールに起きた複数の炎上について私なりの見解を書こうと思います。炎上の内容については既に様々な情報が出回っているので詳細は省きます。

私が今回の件で気になったのはグラデーションという考え方を完全に無視しているという事です。クィアベイティングの問題点としてよくあげられるのが

・性自認や性的指向を一方的に決めつける
・カミングアウトを強要する事に繋がる

等です。
私は、そもそもほとんどの人は異性愛者・バイセクシュアル・同性愛者等の様々な要素を兼ね備えていると思っています。
無性愛者等も含めて人には多種多様なグラデーションがあるはずです。

こういったグラデーションという考え方自体は、LGBTQに関する活動をしている方や当事者の方にとっては当たり前の事として認識されていると思います。

しかし、誰かに対しクィアベイティングを指摘する時だけは、なぜかこの考え方が抜け落ちてしまっているように感じます。

特に、グラデーションがありどちらかに偏っているという事は、反対側にも僅かながら別の要素が必ずある、という事を意識できていないのではないかと思います。

およそ50:50の割合で男女両方に性的指向が向けられていればバイセクシュアルと自覚できますし、どちらかに偏っていれば割合の大きい方の性的指向を自認し、場合によってはカミングアウトをするわけですが、例えば性的指向の90%が異性に向けられていたとしたら、その人の残りの10%は同性愛者や無性愛者等の他の性的指向であるという事です。

当然「100%異性にしか興味がない」または「100%同性にしか興味がない」という人もいます。当たり前ですが、その人達を否定する理由も権利もありません。

ただ、仮に異性にしか興味がないと言っている人が同性の友人との関係性を「カップル」や「夫婦」と表現していた場合、その人が本当にLGBTQの人達の真似をした発言をしているのか、僅か1%の同性愛者としての自分が心から望んでそうした表現方法を選んでいるのかは、他人は疎か本人にさえ判断が難しい問題だと思います。

そして、その1%は紛れもなくその人の一部であり他人が勝手に軽視して良いものではありません。


私自身の話をします。

身体的性は男性、性自認も男性、性的指向は基本的には女性に向いている異性愛者です。ただ性的指向に関しては20%程度は男性にも向いていて同性愛者でもあります。

バイセクシュアルというほどではなく普段は女性に惹かれますが、「男同士なんて無理」と言っている人達を見ていると「自分はそんなことはないな」とハッキリと自覚でき、過去にもそれを裏付けるような経験がいくつか思い当たります。

ここからは例え話です。
実際にあった出来事ではなく、件の事例に自分の性的指向を当てはめた作り話ですが、グラデーションの考え方を強調するため某女性とは少し状況を変えています。

仲の良い男性と一緒に歩いていると偶然、教会を見つけます。そこでその男性から写真を撮ろうと言われ、カップルの様にハグをしながら写真を撮ります。

その写真がとても気に入ったのと、その日がエイプリルフールだった事もありSNSに「挙式を挙げました。 #エイプリルフール 」という文章とともに写真を投稿する事に。

翌日、SNSを確認すると投稿がバズりフォロワーが激増していました。

その日、彼の家にいると写真を撮った時と同じようにハグをされます。そして、彼は私にキスをしようとしてきました。

この段階で、私は彼を制止してこう伝えます。
「俺は同性愛は20%だけで残りの80%は異性愛者だからここまでしかできない。」
すると、彼は私に対してこの様な事を言ってきます。
「なんだよ、ゲイでもバイセクシュアルでもないのかよ、同性愛者のフリをしてたんだな。じゃあ、あの投稿がバズったのもクィアベイティングじゃん」

当然彼もがっかりしただろうし、裏切られた気持ちもあったのでしょうが、こんな事を言われたら、きっと私はとても悲しい気持ちになると思います。

本当に同性婚をしたいとは思っていなかったとしても、一生の付き合いでいたいと思っている友人とカップルの様に振る舞えた事が嬉しかったのも、そのカップルの様に見える写真を沢山の人に見てもらいたいと思った感情も、彼にハグをされて嬉しかった事もすべて事実です。

そして最も重要な点は、そういった感情は20%の同性愛者である自分がいるからこそ生まれる感情であり、自分の性的指向を偽った事など一度も無いという事です。

そしてここからは某女性達の事例についてです。

まず、当然彼女達を含め誰かの性自認や性的指向を他人が勝手に決めつけることはできません。

彼女達は未婚ですが、異性と籍を入れた同性愛者がメディアで取り上げられた事例がいくつもある以上、たとえ既婚者だったとしても異性愛者と断定する事はできません。

その上で、あえて彼女達が異性愛者だと仮定した上での勝手な推測に過ぎませんが、彼女達の事例に関しても上記の例え話と同じ事が言えます。

友人とのウエディングドレス姿の写真をSNSで公開したりペアリングを購入し、仲の良さをアピールするために同性愛的な表現方法をすることに、抵抗感を感じないどころか、積極的にそうしたいと思うのも、彼女達の中に同性愛者としての自分が存在するからだと考えられます。

それが彼女達にとってグラデーションの中の何%かは本人にすら厳密に判定することは難しいでしょう。
しかし、「女同士なんて無理」という人もざらにいる中で、こういった表現を積極的に行う以上0%ということは考えにくいと思います。

そして、それが20%以上だろうと、10%程度だろうと、5%未満だろうと、紛れもなく彼女達の中にも同性愛者としての自分が存在していて、それは他人が軽視してはいけないものです。

ウェディングドレス姿の2ショット写真を沢山の人に見てもらいたいという気持ちも、ペアリングを購入して喜ぶ気持ちも、たとえ嘘でも「交際した」「式を上げた」と報告して喜ぶ気持ちも他人のアイデンティティを使用して得られる感情ではありません。むしろ嘘だからこそたった5%未満だったとしても自分自身の性的指向に根ざした感情として純粋に喜んだり、素直に自分のアイデンティティを発露できたと考えるほうが自然だと思います。

しかし、実際に苦しんでいる当事者からするとこの考え方は納得しづらいものだと思います。
なぜなら、嘘をつく側は同性パートナーと「挙式を上げたい」「交際したい」とは思っていないにも関わらず、実際にそれを望んでいる人達のアイデンティティを嘘をつくための題材として扱っているからです。

勘違いされがちですが、この問題はLGBTQ全体が対象というわけではありません。あくまでも交際や挙式を望んでいる人達が対象であり、嘘をついたのが同性愛者であろうと同じように扱うべき問題です。
そして差別かどうかを判断するためには、さらに厳密にそれが不当な行為かを慎重に検討する必要があります。そうでなければどんな行為にも差別と言えてしまいます。

そもそも嘘にも人を気遣うための嘘等いろいろあるので他人に嘘をつく事自体は不当な行為には当たりません。そして、他人のアイデンティティを使用した嘘や真似もそれ自体が不当というわけではありません。
例えば、「私は会社員です」と嘘をついたり真似をしたとしてもそれ自体が直ちに会社員全体を不当に扱ったことにはなりません。差別と判断するにはその内容に侮辱的な表現や、差別意識に基づく抑圧を伴う事象が含まれている必要があります。対象となっている属性を持つ人達ではなく、嘘や真似の中で表現されている事象に焦点を当てて考えないと何も不当な扱いをしていないにも関わらず差別行為と判定されてしまいます。

エイプリルフールの件に関しては、まず、同性婚ができないことに目が向きがちですが、これらの件はあくまでも同性カップルの挙式や交際宣言についての嘘なので同性婚の制度とは関係がありません。
そして、同性同士の挙式や交際宣言には様々な困難がありますが、挙式や交際宣言を行う際に関わる人達からの奇異な目や差別的な言動等の抑圧を伴う事象は、挙式や交際宣言に至るまでに事前に受けるものであり、交際宣言や挙式の最中に抑圧や差別を受けているわけではありません。式の中でそのような経験を実際にしている方もいるかもしれませんが、少なくともエイプリルフールの件ではあくまでも同性カップルの幸せな瞬間を切り取った嘘でしかなく、嘘の中で描かれている事象の中には侮辱や差別的な表現は含まれていません。例えば
「ペアリングを買いに行ったら奇異な目で見られた」
「二人の名前を記入した婚姻届の写真を投稿した」
等の表現が含まれていれば、不当な扱いとして差別と考えることができると思います。
また、100:0の異性愛者を自称する人が意図的に自身のカミングアウトを含む嘘をついた場合でも、相手に差別意識がなく自分も躊躇なくカミングアウトできる場合もあるため、その嘘自体を抑圧を伴う事象と考えることはできません。エイプリルフールのケースに当てはめるとしたら「どう思われるか不安だったので今まで言えなかったけど実は交際しています」という表現をした場合にはそのカミングアウトには抑圧があるとして不当と判断することができます。

エイプリルフールの件を差別と考える人にとってはこの考え方はこじつけのように感じるかもしれません。
しかし、差別を判断するためにはどの表現が不当な行為に当たるのかを厳密に考えなければ、「自分は嫌な思いをしているから世間は自分に配慮するべきだ」という理論があらゆる場面で適用できてしまうことになります。

例えば、「私は障害者です」や「私は不妊症です」という嘘をただそれ自体を理由に差別だとは私は判断しません。それを聞いた人がどれほど傷ついたとしても、あくまでも、そこに付随して侮辱的な表現やその属性にまつわる差別的な事象が含まれていたり、その意図が客観的に読み取れない限り「人権侵害と社会的に断罪することはできないが、ある特定の人達にとっては失礼なこと」という範疇に留めるべきだと考えています。

グラデーションという考え方や不当行為に該当するかを軽視するとこのような十人十色な状況に対応できずに差別行為をしていない人を差別主義者として扱い、本来被差別者ではない人を被差別者として扱うことに繋がります。


そして、クィアベイティングという考え方はこれらをすべて否定します。

グラデーションの少ない割合の性的指向だけでなく、時にはバイセクシュアルや同性愛者や様々な性的指向、性自認を持つ人達を巻き込み、すべての人を100:0の異性愛者と決め付け、LGBTQを不当に扱っていると断定してしまう危険で差別的な概念です。

その概念を基に非難された彼女達は、むしろ差別を受けた側だと言えます。
あの投稿に不快感を感じる人がいるのは理解はできます。しかし、彼女達が差別的な事をしたという事実はありません。

彼女達は自分自身の性的指向の範疇で単に「実際には式を挙げていない」「実際には交際していない」という嘘をついただけです。

あくまでも、同性愛者同士が挙式や交際を模した表現をした場合と同列に扱うべきです。

それでも不快に感じるならそれは仕方がないと思いますが、彼女達に対し何らかの配慮を求めたり、彼女達の行為を差別として糾弾するのは度を超えた行いです。

LGBTQ当事者の人達の中には、この件にどうしても納得できない人もいると思います。

彼女達のしたことは差別ではないものの、現状に苦しんでいる人達の視点から見た場合には失礼なことをしていると判断できるとは思っています。ただし、失礼とは言い換えればマナー違反ということであり法治国家において他人に何かを強要できるのは法律や条例のみです。マナー違反の範疇においてはどんな人にどの程度配慮するかは自分で自由に決める権利があります。すべての人に配慮しながら生きていくことはできません。その結果として他人からの評価を下げることになっても自己責任です。

そして、ほとんどの人にはグラデーションが存在し、LGBTQとそれ以外の人を厳密に分けることはできません。

納得しづらいでしょうが、前述した例え話や彼女達の投稿のように異性愛者にも同性愛者として振る舞う権利は確かにあります。

社会の制度や構造上、明らかに理不尽な思いを強いられ、同性婚が許されない等様々な現実に直面している人たちからすれば、そういった苦しみを知らずに生きている異性愛者が、同性婚を模した表現をしているところを見たら不快に思う人が一定数いるのは当然の事だと思います。

そして、日常的に異性愛者の振りをせざるを得ない状況の中で生活しているLGBTQの方に、こんな事を言っても皮肉や嫌味としか受け取れないとは思いますが、あえて言うならLGBTQの方にも異性愛者として振る舞う権利は当然ながらあります。前提として同じ権利を持っているにも関わらず、片方は自由に振る舞えてもう片方は不自由な思いをするという現状は間違いなく差別があるからです。

片側の人達だけが権利の行使を強要されるという間違った現実があるからこそ、逆の側にいる人達も同じ権利を持っているという事に、盲目的になってしまうのかもしれません。


主にエイプリルフールの炎上について書きましたが、フィクション作品におけるクィアベイティングについても触れておきます。

まず、作者は法律に定められた範囲であらゆる性自認、性的指向のグラデーションを持ったキャラクターを登場させる権利があり、作中でキャラクターの性自認や性的指向を明らかにする義務はなく、キャラクター同士の関係性も自由に表現する事ができます。

そして、クィアベイティングという言葉はクィアと付いてはいますが実際には誰しもが平等に持つ「騙されることにより不当な扱いを受けない」という権利です。
異性愛者だとしても、映画の予告映像等で異性愛の物語だと思わされていたのに本編では同性愛の物語だったとしたら誰でも不満に感じると思います。

ただ、実際に異性愛者が騙されるケースはあまりなく、マイノリティであるLGBTQは関連作品の数が少なく需要過多なこともあり常にマーケティング戦略の対象となってきたという主張やLGBTQへの理解があることを作者がアピールするために良かれと思って騙すようなシーンを入れてしまうことがあるという主張があります。そのような行為には確かに倫理的に問題があります。

しかし、本来自由に表現できていたはずの、あらゆるグラデーションを持つキャラクターやその関係性を描いた物語を、騙しているように見える事を理由に、全くそのような意図の無いものも一律に禁止するのは、「殺人方法を広めるためにミステリー作品を創作するのは倫理的に良くないので、創作する際には作者の意図に関わらず殺人シーンの描写を一律に禁止する」と言っているのに等しく、罪のない作品を大量に巻き込む不当な表現規制です。

そして、騙す意図のないものに対してクィアベイティングを主張した場合、新たな差別が発生することにも繋がります。

例えば前述の私の性的指向を含む作り話において、仮に私の性的指向を一切明かさないまま終わった場合、この物語はクィアベイティングとして非難される事になります。

それはつまり、「特定のグラデーションを持った人を創作物に登場させる際は、作中で必ず性的指向を明かさなければいけない」という極めて理不尽な状況が生まれるという事です。勘違いしてはいけないのは、これは物語の中で差別的に描かれているという話ではなく、現実に存在している「創作活動上のルール」となってしまっているという点です。これは明らかな差別です。

これらを踏まえると、クィアベイティングを主張する事の危険性が理解できるかと思います。

差別を指摘する場合は、作者にLGBTQを誘引する意図があったと断定できるものだけにするべきです。

当然、断定する事ができないものの中に差別的な意図を持って作られたものがないと言い切ることはできません。。

しかし、作者の意図の有無を断定することはほとんどの場合不可能であり冤罪だった場合にはクィアベイティングを指摘する行為自体が差別になります。

あくまでも、映画の予告映像等で本編中では全く関係のないシーンを繋ぎ合わせてLGBTQを誘引するようなシーンを作っていた場合等、明らかに騙そうとする意図を持って表現していると客観的に判断できるものに限り差別行為を指摘するべきです。

そしてここまでの話でわかるように、これは性的指向やLGBTQとは関係なく単に「人を騙し不当に扱ってはいけない」というだけのことであり、「クィアベイティング」という言葉自体にはなんの効力もありません。
「他人を騙し不当に扱うようなことをしてはいけない」とだけ主張すれば事足りたことを「クィアベイティング」という言葉を作り出し間違った考え方を加えた上で世の中に広めたことで、本来差別とは言われなかった人達まで巻き込み「これはクィアベイティングに該当するのか?」という不毛な論争を招き、新たな差別とエイプリルフールの件のような大量の冤罪を生み、LGBTQへの甚大な風評被害をもたらす結果となったのが「クィアベイティング」という概念です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?