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アイデンティティ過剰

僕は韓国のハーフだが、そこにアイデンティティを感じたことはない。

アイデンティティの基準

SNSのプロフィール欄に書くか。これが全てだ。
職業を書いているなら、働いている自分にアイデンティティを見出している。
国籍を書いているなら、国にアイデンティティがあるため愛国者だ。


アイデンティティは自意識を過剰にさせ、人の価値を単一的にする。

Xでは本当によく見かけるのだが、コロナワクチンに反対することがアイデンティティになっている人がいる。プロフィールに《反ワク》の類の言葉を書いてるからすぐ分かる。ヴィーガンやLGBTもそうだ。

あと、自分が無職やモテないこともプロフィール欄に書いている人を見かける。
中卒であること、無職であること、フリーターであること、バージンであることにアイデンティティを見出している。

アイデンティティというのは鏡だ。自分が気にしているから相手も気にしていると思ってしまうし、相手と自分の、そのアイデンティティの部分だけを見てしまう。
分かりにくい説明で申し訳ないが、先程の例で言うと《中卒》。自分が中卒である事を気にしているので、周りの人の学歴が気になるのだ。気になるだけならいいが、対象の評価が学歴基準になる。
「みんな高卒だな…」
「今の時代は大学出るのが普通なんだな」
「あの人も高卒か」

自分がバージンだと、他の人の性事情が気になる。
対象を見た時、《どういう人か》の審査基準が《セックスをしたことがあるか無いか》で見る。変態だ。
しかし本当にXでは多いのだ。
「周りは経験していってるのに、私だけ」
「あの人も夜、彼氏さんとしてるのかなぁ…と想像してしまう」

《ワクチン接種or非接触》
《ヴィーガンor肉食》
《ノンケorLGBT》
《無職orフリーターor正社員》
《中卒or高卒orMARCH卒》

悩みの種はアイデンティティから生まれる
 
僕は韓国の血が入っていると言ったが、そこにアイデンティティを感じたことはない。
人から言われたり、ヘイトを煽るニュースなどを見かけると、ちょっと、なんというか…人狼ゲームで人狼をやっている気分になる。
しかし普段は気にならない。
Xのプロフィールに書こうとも思わない。そういうニュースを見た時といったタイミングで思い出すくらいだ。
「あ、そういえばそうだ」
と思うだけだ。
在日韓国人の芸能人などを見ても、別に仲間だとは思わない。
しかし、この属性を毛嫌いする人がいる、というのも分かっている。なので世間の評価で立ち居振る舞いを変えることはする。在日ハーフの印象が鎖国時のキリスト教のようになっていたら「俺、韓国のハーフなんだよね」とは言わない。アイデンティティにはならないが、自意識過剰にはなるかもしれない。

障害者でもある。しかし仕事や勉強をする時以外で負い目を感じることはない。アイデンティティにしていないからだ。

障害者かどうかもXに書いている人はザラ。《HSP》という、障害ではないものをアイデンティティにしている人もいる始末だ。
そういう人が他人を見る時には《繊細か鈍感か》《障害者か健常者か》という視野が狭いうえに、過度に拡大されたカテゴライズになってしまう。
「鈍感さんはやっぱり人の気持ち分からないよね…」
「健常者だから人の気持ちが分からないんだ」

他の人はそんなこと気にしていないのに。そんな価値基準で人を見ていないのに。

アイデンティティは認識にズレを生じさせる。主語が大きくなる。その結果、人々の分断を呼ぶ。


自分が何者であるかなんて考えるのは、自分を歪ませる第一歩だ。

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