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目的論への疑問

アドラーが唱えた目的論は、人は何かの目的があって、今の状況を作り出しているのだ、とする考え方です。 例えば、「親の離婚がトラウマになって恋愛ができない」とするのが原因。 一方、目的論では「(失敗を恐れるなどして)恋愛をしたくないという目的のために、自らその感情を作り出している」と考えます。

question circle

つまり

トラウマは行動しない言い訳だ

というようなことが言いたいらしい。

新しい考え方だな、と思ったが、なんかちょっと引っかかるところがあったので、Noteに整理しようと思う。

目的論ではないが、《親が離婚した子供たちが全員恋愛に対して消極的になるとは限らない》《虐待を受けたからと言って、その子も自分の子供に虐待をするとは限らない》という言い分を聞く。

恋愛が出来ない理由
虐待をしてしまう理由
を正当化している⋯ということらしい。

本当にやりたかったらその程度の事で辞めない。トラウマはあるにしても。
ってことらしい。

確かにそれはわかる。
だが、虐待とひと言で言っても様々だ。人格否定と根性焼きではトラウマの程度も違うだろう。

人間は《利益》と《不利益》で行動を考えていると思う。
簡単に言うと計算だ。

仕事を辞める人、辞めない人⋯これの違いを利益と不利益の算数で説明する。
まあ《利益=いいこと=+》《不利益=嫌なこと=-》だ。

仕事はお金を貰える。これは《利益》だ。だがお金を貰うには、労働が必要だ。この労働というものに《不利益》の個人的が生まれる。

同じ労働でも、経験ややりがいが違う。
経験とは、扱いの差や業務量の差だ。
やはり能力の差があると、怒られる人、褒められる人が出てくる。《不利益》に差が出てくる。出世などをすると給料も変わるため、《利益》にも差が出る。

仕事を辞めるか続けるかの違いは、さっきも書いたが算数だ。
《利益》-《不利益》

給料が同じだとしても、仕事ができる人とできない人とでは、怒られるなどして、《不利益》の量が違う。つまり《利益》の量は同じでも、《不利益》の量が違う、ということが生まれる。

 《利益》から《不利益》を引いて、《利益》が上回る人と、《不利益》が上回る人で分かれるということだ。

この場合「(不利益が多くて)キツイから辞める」

というのは目的論でいう言い訳や甘え、無理やりな正当化なのだろうか。
「辞めたい目的をテキトウな理由をつけて言い訳している」
みたいな⋯。

人によって不利益の度合いは違う。
自分にとって興味のない業種、合わない人の多さ、(自分基準で)釣り合っていないと感じる給料、要領の悪さ⋯
仕事において我慢する場面は多々あると思う。

しかし、我慢の量が多い人というのもたしかに存在する。

 対して、愚痴を言うけど辞めない人は《不利益》もあるけど、引き算した結果《利益》が残ったから働き続けているのだ。
高給(利益)-ウザイ上司(不利益)=でも給料高いからいっか。
プラマイプラだ。 

しかし《利益》が下がるか、《不利益》が上がるかすると、辞めたくなってくるだろう。


でも、何を《利益》《不利益》とするかは、人によって違うので、目的がどうのとか、原因がどうのとか考えるのは意味が無いと思う。 

はたから見ればキツそう(不利益)に見える業務も、本人からすると利益に感じていたりする。
目的論はその逆バージョンではないか?
「周りから見ればなんて事ない経験(そこまでの不利益じゃない)だから、《利益》を求めないのは、求めないことで別の《利益》があるからではないのか?」みたいな。

学習性無気力感という概念もある。

回避困難なストレス環境に長期間置かれると、その環境から逃れる努力すら行わなくなる、という現象。


長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。他の訳語に学習性絶望感、獲得された無力感、学習性無気力、がある。

なぜ罰されるのか分からない刺激が与えられる環境によって、「何をやっても無駄だ」という認知をした場合、過去の経験から学習する。それはうつ病に類似した症状を呈する。
1967年にマーティン・セリグマンらのオペラント条件づけによる動物実験での観察に基づいて提唱された。

心理学者のマーティン・セリグマンが、1960年代から10年間近くの研究をもとに発表した。
抵抗や回避の困難なストレスと抑圧の下に置かれた犬は、その状況から「何をしても意味がない」ということを学習し、逃れようとする努力すら行わなくなるというものである。

学習性無力感は、1967年にセリグマンとマイヤーが犬に対して条件付けを用いて行った研究によって提唱された。

実験の内容は以下である。

犬を以下の3つの群に分け、オペラント条件づけに従って、電撃回避学習を課した。

頭部を動かすと電撃を停止できる群。
第一統制群:パートナーが受ける電撃を同様に受ける。
第二統制群:電撃を受けない。
第一統制群の、自分では電撃を停止できない犬は、回避行動をとらず、電撃を受け続けた。こうした実験によって非随伴的な刺激が与えられる環境によって、何をやっても無駄だ、統制不能だという認知を形成した場合に、学習に基づく無力感が生じるとし、学習性無力感が提唱されたのである。

続いて、サカナ、ネズミ、ネコ、サル、ヒトでも、適応的な反応を起こさなくすることが、実験にて観察され、その学習性無力感の症状が、うつ病の症状に類似しているとされた。

セリグマンは、1975年には、人間も加えた研究を加えて、うつ病の無力感モデルの理論的な基礎を形成し、1980年代にはその治療や予防に関しても、学習性無力感とうつ病とで比較し、それら二項間における内容はほぼ同様である。

長期に渡り、人が監禁されたり、暴力を振るわれたり、自分の尊厳や価値がふみにじられる(いじめやパワハラ)場面に置かれた場合、次のような徴候が現れるという。

被害者は、ストレスが加えられる状況から、積極的に抜け出そうとする努力をしなくなる。
実際のところ、すこしばかりの努力をすれば、その状況から抜け出すのに成功する可能性があったとしても、努力すれば成功するかもしれないという事すら考えられなくなる。長年受けた仕打ちによる反動で、どんな可能性さえも「無駄な努力」と感じ、自発的行動を全くしなくなる。
ストレスが加えられる状況、又ストレッサーに対して何も出来ない、何も功を奏しない、苦痛、ストレス、ストレッサーから逃れられないという状況の中で、情緒的に混乱をきたす。

人の行動は、良かれ悪しかれ何らかの学習の成果として現れてくるものである、という学習理論を土台とした理論である。拉致監禁の被害者や長期の家庭内虐待の被害者、学校での学歴信仰やいじめ、会社などでのモラルハラスメントや、いわゆるブラック企業に雇用され低賃金で過酷な労働を強いられ続けながらも自ら進んで退職しない者が一定数居ることなど、行動の心理的根拠を説明する理論として、注目されている。

参考:Wikipedia

 今回の《目的論》《原因論》に落とし込むとすると、

目的はあるけど、原因にヤベエ部分が多すぎて、行動ができない。

ってことらしい。

人の行動は、良かれ悪しかれ何らかの学習の成果として現れてくるものである。

こっちの理論の方が、腑に落ちた。

目的(利益)があったとしても、原因(不利益)の積み重ねがあったとしたら、行動はしたくなくなると思う。
それは行動したくないという目的があるのではなく、行動しても無駄だと思ってしまう原因(経験)から来るのではないか。言い訳ではなく学習からくる行動理由だと思う。


僕は境界知能寄りの知的障害だ。

だから働きたくない。

目的論でいえば《働きたくない》から知的能力を言い訳にしている、ということになる。

ここでまた算数の式を出そう。
 賃金(利益)-死ぬほど怒られる、成功体験なし(不利益)=境界知能(原因)だから無理じゃね?(不利益)
→辞めたい(目的)

みたいな事になっている。

さっきも書いたが、たしかに仕事は我慢の連続だ。
しかし能力が低いと、他の人と比べて、明らかに我慢の量が多くなる。不利益(-)が多くなるということだ。

たしかに境界知能全員が無職になるわけでもないし、いじめられた人間が全員引きこもりになるわけでもない。

だがそれは《利益》と《不利益》の量がそれぞれ人によって違うからではないか?

または《原因》の自覚が無いからではないか?
境界知能が原因だとして、例えば失敗をしていても気づいていないとか、失敗経験を忘れているとか⋯。
頑張れば何とかなると思っている⋯。
そもそも境界知能だと気づいていない⋯。等

それまで自分の努力不足だと思っていた人間が、努力ではどうにも出来ない先天的な能力の問題だと突きつけられた瞬間に、頑張る気が失せる。

これは「頑張りたくないという目的を、境界知能という原因のせいにして正当化している」と言えるのか。

過去のどうにもならない失敗経験を覚えている場合にそんな診断をされれば、原因論に傾いてしまうと思う。

そしてそれを理由にやる気が無くなったとしても、「やりたくないという目的」を正当化しているとは、ちょっと言えないのではないか? 
努力ではどうにもできないという学習性無気力感に陥っているのだから。

 何度も書くが、境界知能全員が無職になるわけではない。そうなると1700万人が無職だ。
ならば、働かない境界知能は甘えなのだろうか。

 さっきも書いたかもしれないが、一般的には《利益》が多い選択肢でも、本人にとっては《不利益》の方が大きくなる事が多々ある。
境界知能の場合、努力しても出世はしにくい。同じミスをするからだ。これは努力ではどうにもできない。
自覚がなく、努力でどうにか出来ると思っている当事者もいるだろうが、地頭はどうにもならない。
そして怒られることも《不利益》だ。人間はお金のためだけに働いている訳ではない。社会貢献をする欲も満たすために働いている。
境界知能はその欲がとても満たしにくい。

僕がそうだったのだが、働いている時よりも、働いていない時の方が、自尊心が高かった。
自尊心が低くなるのはやはり《不利益》だ。
一般的な人間とは《利益》《不利益》になる状況が違うのだ。

そもそも境界知能にも幅がある。IQ70〜85だ。
能力値が違うのだ。となると《不利益》の量も前後する。
IQ70の《不利益》と、IQ85の《不利益》には差が出てくるだろう。
1日3回ミスする奴と、1日10回ミスする奴では、やはりキツさに差が出る。

また同じことを書くが、たしかに我慢という《不利益》は誰の人生でもある。

しかし

我慢の量がめちゃくちゃ多い人生があるのだ。

たとえその選択肢に《利益》があろうとも、圧倒的な《不利益》にオーバーキルされる。

目的のために原因を探すのではなく、原因があるから目的が変わるのではないか?

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