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欲望のしくみ

ルネ・ジラールという文芸研究家は「人は皆、誰かの欲望を模倣する」と説いた。
自分が何かを欲しがるのは、自分以外の人間がそれを望んでいるから自分も欲しくなるという原理。
ランキング上位の商品が、もっと人気になる(バンドワゴン効果)現象などがそうだ。

欲望はシステムから生まれる

“目標はシステムの産物である。自分たちが持つ欲望のシステムの外にあるものを欲しがることはできない。


(僕の解釈が間違ってるかも)分かる。しかし《欲望がシステムの産物》というのは、なかなか新しい視点だと思った。

SNSのいいねやフォロワーを気にするのはSNSというシステムがあるからだろう。
というか承認されているものに価値を感じるということ自体が人間の根底にある模倣習性なのだが。善し悪しの価値観さえ流されている。
「コロナワクチンは毒だ」という論調は少数派であるためカルト扱いされている(実際のところは不明だが僕の解釈では少数派でありエコーチェンバーの産物。少なくとも現実で主張している人は見たことがない)が、これで現実世界、身の回りの人間の大半が「コロナワクチンは毒だから打っちゃダメ」と言っていたら「コロナワクチンって毒なんだな」と思い、逆にコロナワクチンを打っている人をカルト扱いするだろう。
まさにSNSでのいいねに左右されている人だ。善し悪しの価値観は、認証システムに左右されているのだ。
自分が「良さげ」と思っていても、あまりいいねが付いていないと「これって良くないものなんじゃ…?」という価値観が頭をよぎる。

ゲームのランクを気にするのだって、ゲームを作った側が、ランクという競争を煽るシステムを作っているからだろう。

絵を描こうとするのは、紙とペンという物体があるからだ。

寿司を食べたくなるのは魚を生で食べるという文化システムがあるから。

バドミントンをしたくなるのは、バドミントンという競技システムがあるからだ。
ラケットやシャトル。そして体育館があるからだ。

お金が欲しくなるのは、この社会が資本主義社会だからだ。

酒が飲みたくなるのは、酒という存在があるからだ。

宇宙に行きたくなるのは、宇宙という存在があるからだ。そして宇宙を知っているから。
宇宙を知らない状態だと、宇宙に行きたいという欲望も生まれない(システムの外)。

スケープゴート理論

スケープゴートのメカニズム:共同体が混乱の中で団結を取り戻すために、一人または一群の「他者」を犠牲にする過程。この「スケープゴート」は共同体の緊張や対立の原因とされ、排除や犠牲にされることで共同体内の調和が回復されるとされます。

このスケープゴートメカニズムが気になった。

しかしなんだか分かる気がする。

働いている側の人が、無職の人間を非難するような構図だろうか。
マスクをつけている人間が、つけていない人間を非難したり。
無宗教、無神論者がスピリチュアルや宗教信者を毛嫌いしたり。
オタクじゃない人間が、オタクを非難している場面はよく見たり…。
人間は共通の敵を作ると団結できるらしい。

政治にも使われる。
ナチス・ドイツはユダヤ人や障害者を財政の敵だとした。
民衆もそれを支持した。
ナチス・ドイツは火のない所に煙を無理やり立てた感があったが、ルネ理論だと《共同体の緊張や対立の原因として排除される》と書いている。
これは…《無理やり民衆が少数派に問題を擦り付けている》のか《本当に目に見える事実として対立を生み出しているトラブルメーカー的存在》なのか。疑問としては、その嫌悪感は元からあったものなのか、それとも人から植え付けられるものなのかだ。


マナーというのは、内容を知った瞬間から自分の中にマナー内容の価値観がインストールされる。
例えば「アリは踏んじゃダメ」と言われた瞬間から、足元を見て歩くようになるだろう。そしてアリを踏む度に罪悪感を抱くだろう。それまでは何の罪悪感も抱いていなかったのに。

これをルネのスケープゴート理論に当てはめてみる。
眼鏡を外したり、アニメ好きを隠したりするのは「オタクはキモい」という価値観をインストールしているから。
皆が定義するキモい存在になると、自分が生贄スケープゴートになってしまう
なのでオタクを構築する要素になりかねないものを、自分の中から排除しようとする。
個人の自己排除が、集団に広がるのだ。
これは負の欲望模倣と言っても過言ではないかもしれない。
「対象はみんなが良いと評して欲しがるから、自分も欲しいし、その対象は良いものだろう」
の逆バージョン。
「対象の属性はみんなが嫌がったり悪いとしているから、自分も嫌いだし、その属性を持っていることは悪いこと」

しかしそれは、元からあった価値観ではない。
凶悪殺人を犯した犯人の趣味がオタク的なものだったと否定的な結び付けをされたり、「暗い」「身内ネタ」と評されることが多かったので、刷り込まれただけだ。
スピリチュアルや宗教も同じ。オ○ム真理教の事件から一気に宗教に対する否定的価値観の刷り込みが多くなった。

自分の価値観と他者の価値観がごっちゃになっている。
「鬼滅は最高!」
「オタクはキモい」
今自分が何か価値観を持っているとして、どこまでが自分の価値観で、どこまでが他者の価値観かなんて分からないだろう。

単体で価値なんて分からないんだと思う。人の評価が無いと。
ピカソの絵だって説明がないとただの落書きだし、教科書に載っていて、日常で触れる機会がないと、ピカソに才能があっても興味は湧かない。
逆にただのメガネでも、美術館に置いて、かつ人の説明さえあればそれっぽく見える。
素人が書いた小説でも《○○賞》という肩書きがあれば売れる。
人間は《他者の意見》という付加価値で評価している。

僕の体験談だと《ゲド戦記》がある。
ジブリでいちばん好きなのはゲド戦記なのだが、酷評されていることを知ってからは、指摘されているところが気になって面白く感じなくなった。
面白く感じなくなったのは、他者の刷り込みからだろう。それとも成長して視点が変わったからだろうか。

疑問

これって《人の顔》とかでも起こるのだろうか。
例えば、現代日本において、扇風機おばさんを美人だと認識する人はいないと思う。
しかし世にも奇妙な物語的な展開で、周りの人がみんな扇風機おばさんを「タイプだ」「美しい」「好き!」と言い始めたと。そうなると自分も扇風機おばさんを好きになるのだろうか。
僕は好きになれる自信がない。常識やマナー、美徳などの刷り込みは違和感なく効くが、美醜の刷り込みは効かないと思う。
味覚の刷り込みは間違いなく効かない。みんなが美味いとして食べている物も、自分には受け付けなかったりするから。
タコやイカ、トコロテンやうずらの卵はみな美味い美味いと食べているが、自分には受け付けない。他者がなんと評そうと、マズいものはマズいのだ。

だから美醜の刷り込みも効かなそうだ。
周りの人間が扇風機おばさんを崇めているなか、僕は有村架純や新垣結衣を崇めていると思う。

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