封殺されていい意見など無い

ジョン・スチュアート・ミルという功利主義者が説いた理論を僕の主観を交えて書いていく。


ミルとは

イギリスの哲学者。政治哲学者、経済思想家でもあり、政治哲学においては自由主義・リバタリアニズムのみならず社会民主主義の思潮にも多大な影響を与えた。晩年は自ら社会主義者を名乗っている。

Wikipedia

ミルの思想

社会の秩序を乱さない範囲内なら、何をやっても自由だとミルは説く。他者に対しての危害を加えなければ何をしてもオールオッケー。

民主主義ができてから、政府からの抑圧から、個人間の抑圧になったとのことだが、たしかにそう。ネット私刑なんて言葉があるくらいだ。倫理違反をした者の個人情報や住所を暴くという法律違反がまかり通っている。これがミルの言う《個人間の抑圧》かどうか、解釈が間違っていなければいいが、多分こういうことだろう。多数派が容認すれば、法律違反でもまかり通る。リーガルハイの古美門研介がとる戦術みたいな感じ。大衆を味方につけて判決を覆す。

意見はどこまで許容されるべきか

独裁国家ではないので、意見は自由に飛び交う。言論統制などない。
デマも出回る。正しい意見も出回る。

完全に正しい意見

当然ながら阻害される理由はない。社会の発展が阻害されるから。

部分的に正しいが相反する意見

この場合でもミルは、これらの意見が抑圧される必要は無いと説く。相互でよりいっそうその意見の根拠を高めるためだ。間違いが分からないなら、正解も分からないということだから。悪役がいないと、正義の味方も機能しないのと同じ。対立意見を抑圧するということは、自分の正義を確立することも止めるということなので、この行為も《完全に正しい意見を封殺する》という行為と同じくらい、社会の発展を阻害するもの。

完全に間違っている意見

これも抑圧することに合理性は無いとミルは説く。
完全に間違った意見は、存在するだけで、正しい意見の調整に役立つから。正しさというのは、常に他の何かと比べて分かるものだから。


調整する余地

絶対に正しいという自信があるからこそ、反対意見も受け入れられる。
「賛成できる部分もあるけど、極端になるのは反対だ!」という意見も現れる。
極端かそうでないかの定義が曖昧で答えられなら、自分の過信がある。傲慢。

判断が信頼できるのは、間違いを改める姿勢を常に保持している場合であるとミルは説く。
確かにSNSでよく見る主張の大きいフェミニストや環境保護団体、反ワクチン勢力は、考えを改める姿勢が見えない。

悪口を言う人がいたとして、周囲からの評価が下がるのは、悪口の対象ではなく、悪口を言っている側だったりする。自分の意見が正しいと思えるなら、自分以外の意見を取り入れる姿勢を見せなければならないのと同じ。意見というのはぶつけ合うことで、正しい方の説得力が増すから。全知全能ではない人間は、これ以外のことからは、自分が正しい証明ができない。
 ある意見が、いかなる反論によっても調整される要素がなかったゆえに正しいとされる場合と、始めから誰も反論をしない環境である場合との間には、極めて大きな隔たりがある。これがミルの意見。
反論を許されない環境での正しさは、正しくない可能性が極めて高いということ。独裁国家がそう。反論を許されない環境での正しさを説く者が全知全能の神でない限り、真の意味で正しさは証明されない。

倫理が進んだ現代でも、いやむしろ倫理が進んだ現代だからこそ、政治的正しさという理由で抑圧される意見がある。「放送コードに違反しているから」という理由になっていない理由で封殺されているうちは、正しさの証明ができないと思う。
 そしてネットの普及により完全に正しいと確信しているのにも関わらず、違う意見に対しては排除する姿勢が目立つ。なのでネットでは議論とは到底呼べない争いになる。
完全に正しいとしているのに、他者の意見を聞き入れて調整する姿勢は無いという矛盾した環境。



参考動画


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