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ちぢむ人への思い

再度自らを確認しておこう。
私は母にたいしてなにもしていない。ただ帰省のたびに脳の萎縮そのものを体現していく母のからだの変化をみていたにすぎない。

母の様子がおかしいと周囲が騒ぎ始めた頃、私の勤務先の近くの大学病院へ母の主治医に紹介状を書いてもらい、
まだ一人で電車に乗れた母と待ち合わせして連れていったことはある。
問診をして脳波を撮り長谷川式をやり
それだけのことで診断は確定された。
私たち家族は何をしたらよいのか?
これからどうすればよいのか?
医師に質問をしたが、
「主治医と相談なさってください。」

娘さん、わかるでしょ?処置なしですよ、処置なし。治るなんて思ってないでしょうね?あとはね、あんたら家族がよく面倒見てやって。うちはね、診断を確定するだけなの。カルテ書いて診療報酬もらって。薬は主治医にもらってよ。手術するわけじやないんだから金になんないわけだから。はい、帰った帰った👋

私は母を駅まで送っていくあいだ、医師の表情からあることないこと想像して彼の心の声を吹き出しに収め自分の回りに浮遊させながら無言で歩いた。
アルツハイマーと認知症の区別もつかないそのころのこと。
私は物忘れや徘徊、暴言暴行など、
世間で語られるこの進行性の病の症状に、そして変わっていく母を想像して
絶望的な気持ちになっていた。

駅に着くと用を足す手順も少しずつおぼつかなくなっていた母とともに多目的トイレに入り、母が衣類を汚さぬよう、身支度をちゃんと整えられるようフォローしたのちホームまで同行し電車に乗る母を見送った。
いま思えばあれが病身の母にした唯一のことではなかったかと思う。
それから2、3年のあいだに恐るべきスピードで一人で食事がとれない状態にまでは病気は進行した。
いま、克明に思い出す。
帰省するたびにちぢむ母の病状。
そんな母を父はしだいにうけいれながら介護を続け、姉もそのフォローを自身がなくなるまで苦しみながらしていた。

でも、私はなにもしなかった。
人にいわせると逃げまくっていた、となるかもしれない。

母が亡くなってからしばらくのあいだ私は自分がなにもしていないのに肩の荷が下りたようになってしばらくは穏やかに暮らした。
しかし、母の死後25年たってそのうちの20年を引きこもった娘によりそい(と、いえるかどうか?)そしてその内の12年を、中途障害者となった夫のサポート(迷いながら)に費やしてきたこの今、その「なにもしなかった」ことへの後悔の念、焦燥感、恐怖などが次から次へと湧いては消え「私は今をいきるのだ」といきがってみたりしたが、
家族のサポートに加えて障害者をサポートする仕事まで始めたことでその「なにもしなかった感」は逆に増大していった。


母にたいしての私のあり方が間違いであったわけではないと思う。人それぞれであり正解はない。
ただ、冷酷で利己的な娘だなぁと自らを評してみても全ては過ぎ去って「今」があるだけなのだと虚しさが
静かにしんしんと肩に降り積もる。








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