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[癌、ガンでも前がん状態 2]ー安堵からの絶望、貧困での治療放棄夫ー

子宮全摘後、私はなぜか、安堵した。

子宮を失った悲しみよりも、恐怖から解放されたことの方が大きかった。

ここ(入院病棟)は、夫におびえながら暮らさなくてよいし、何より暴力されないし、栄養もとれる。ネグレクトなんてされないですむ。

キチンと医療を受けられる、『日本人の、人間として最低限度の権利』をやっと掴めた気がした。


流産で出血していた時も、夫は構わず無理やり性行為を強要してきた。

私は入籍後、無事に出産して、なんでもないような日常を大切に、親子で平和に暮らしたいだけだった。もし、もう、赤ちゃんが無理でも二人で、幸せに暮らしたかった。

だけど。


紙切れだけの婚姻届を役所に提出しに、なぜだかひっそりと夜中につれていかれた。

後から考えると、夫は、茨城に来る前に、よその土地で税金やらなにやら、色々と支払義務を果たさずに沢山の『未納金』があったようだ。平日昼間に二人で役所に行ったら、やましいことが私にばれてしまうからだろうか。


入籍後夫は化けの皮が剥がれた。

まず、私に社会保険証が送られてこない。正社員だと言っていたし、私は戸籍上も夫の扶養にも入っている。夫に問い詰めてもはぐらかされ、役所に聞けば国保だという。

会社名も、親会社の名前で正社員だと聞いていたが、どうやら孫請の派遣らしい。結婚した事を派遣会社に報告すらしていないらしい。どうりで国保な訳だ。国保税も払っていない。ギャンブルも、嫌いだから元々やらないと言ってたけど大嘘である。もちろん、子供を産んで育てるしばらくの貯金も、あるなんて、嘘だった。多重債務者であった。

千葉に来てからも税金や各種支払もしていないらしい。問い詰めると逆ギレして暴力をふる。いつも、自分にとって都合の悪いことになると、些細な事でも暴力を振るわれた。
付き合っていた時は片鱗も見せなかった。
言葉のDVも、生活費を渡さないなどの金銭的DVも、その他よくある『DVのリーフレット』に書いてあるもの全てに当てはまった。もちろん、行動できなくなるようにされていた。洗脳状態だったのかも知れない。

私は当時、『サイコパス』とか『ソシオパス』という言葉の意味を知らなかったが、世間でよく聞くようになり、当時は夫がそれなのでは?と思ったけどよくわからなかった。調べたくてもスマホもパソコンも使えない金銭状況だった。私の結婚前の貯金は、夫が勝手に下ろしてギャンブルに消えていたのが後からわかることになる。

結婚前とはうってかわって、夫は「めんどくせぇー」という言葉をよく言っていた。
仕事で上司から叱責されるとすぐ辞め、日雇いのバイトすら面接に行かず、すぐにカッとなり、ゲームするか食うか寝てるかだった。
日常的に「ムカつく」、「だりィー」を連発し、責任転嫁ばかりで努力嫌いなのに、プライドだけは高くて嘘をついたことすら正当化してきた。
暴力的なゲームに溺れ、課金しては負けると私に当たって殴る蹴るがエスカレートしていった。
夫は2次元に住んでみたいとか言っていた。アニメやラノベの世界で、努力しなくても転生したらレベル99の賢者だった、とかになりたいと。

度重なるDV、流産で、私は連日泣いた。悲しくて、小さな命が消えてしまった事に。わたしのココロも消えてしまった。身体もメンタルもボロボロだった。

夫は心配するどころか、スマホゲームをずっとやっている。無表情で。目だけはギラギラしていて、まるで人の心の痛みなどわからないようだった。

今思えば、つわりがひどくて脱水状態でフラフラでろくに動けないのに、毎日性行為を強要してきた。

私は一人で引越し後の片付けしながら毎日フラフラになって、DVも頻繁で、授かった赤ちゃんも何回も流産した。避妊も勿論してくれない。してくれと言うと殴られた。

周りに知り合いなどもおらず、私には実家もないため、あちこちに相談しようにも携帯電話料金を生活費に当てるしかなく、電話は使えなかった。
東日本大震災で両親や家族親戚を失い、一人きりで生きてきた。相談できる家族がいる人を羨ましく思った。

流産の後、「めんどくせえー」といい放ち、私が婦人科に流産後の子宮のなかをきれいにする処置をしに行きたいと言うと、いつも「金がねぇ。」と無表情で言い、そのまま何処かに逃げていた。

度重なる妊娠と流産で、わたしの子宮が悲鳴をあげていた。産まれてこれなかった赤ちゃんたちの魂が、反乱を起こしたかのようだった。


子宮は、今はもう無い。

妊娠する不安も、

遠くに住む義母からの言葉のプレッシャーも、

流産での悲しみも、

心と身体の苦しみも痛みも、

もう、経験しなくてもよいのだ。

これ以上、悲しい涙で枕を濡らさずにすむのだ。

小さな命を、これ以上絶望に突き落とすことはなくなったのだ、作らないようになったのだ、

と、自分のココロに繰り返し繰り返し、言い聞かせた。


手術後3日目。この日は各種詳しい検査の予定が入っていた。脳と肺、肝臓などの転移がないか、MRI等の予定が入っていて、少しドキドキしていたが、久しぶりのMRIすぎて少し緊張する自分がいた。

2017年10月に、結婚のために千葉県に引っ越してくる前に、一人暮らしをしていた茨城県で、人間ドックをやったとき以来のMRIだったかな?等と回想していた。

そんな事を思い巡らせていたときだった。急に夫がやって来た。


「金がねぇ!問題でも起こして退院しろよ!」

あ然とした。

悪魔がやって来たような気がした。

このままアパートに帰りたくなかった。

というか、その時、『帰る』という言葉を使いたく無かった。他に行くところが無いから、そこしかなかった。

結婚前は、一人暮らしで働いていたけど、今はこんなに身体もココロもまいっていて、親戚などもいない。

ナースステーションすぐ横の、手術後の為の
個室の病室で、私は夫に帰りたくないと、言い争いになった。

騒ぎを聞き付けた看護師さんが、慌ててやって来た。ここは産婦人科病棟である。もちろん、新生児室や出産直後の産婦さん、切迫早産などで入院中の妊婦さんもいるし、婦人科領域の病気で入院している人もいる。寝かしつけたばかりの赤ちゃんたちが起きてしまう。みんなが困ってしまう。

お金がなくてこれ以上入院、治療が出来ません、と夫の目の前で言ったならば、プライドばかり高い夫に、帰ってから殺されるかもしれない。まだ、病院で医療事故で死んだ方がましと思った。

わたしの心の中で、なにかが「ぶつり。」と
嫌な鈍い音をたてるようにして、ちぎれた。

ココロ、が破綻した。周りにお構いなしに、大声で泣いた。言葉になんて、ならなかった。きっと、看護師や医師は、私が子宮を失ったから悲しくて取り乱して泣いていると思ったのだろう。

違う。わたし一人が泣いているんじゃないんだ。産まれてこれなかった何人かの赤ちゃんだって、悲しくて苦しくて痛くて辛くて寂しくて泣いている。

あまりの魂の苦しみで、
私はわたしでなくなった。
理性的な『わたし』が、心の叫びを止めていたが、もう、押えきれなくなってしまったのだ。

看護師さんに、医師に、静かにしてくれと言われたが、あまりの夫の不条理に、魂の叫びが止まらなかった。

何かの書類にサインをさせられ(夫に、「お前は名前だけ書け」と言われた)、
病院の車イスに、夫に無理やり乗せられて、
夫が乗ってきたわたしの車の助手席に座らされ(夫は車すら持っていなかった)、峠道を越えて、遠い自宅アパートまでの道のりの中、夫に『言葉を発してはならない』と命令されて車に揺られていた。

子宮全摘開腹手術後3日目の事だった。



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