るいるい🐰

ながさきのワクワクPEACEクリエイター。4年間小学校で先生していましたが、2年前に映…

るいるい🐰

ながさきのワクワクPEACEクリエイター。4年間小学校で先生していましたが、2年前に映画の主人公になり、今年は《被爆の継承》をテーマに本を出版することになりました〜。

マガジン

  • NAGASAKI HAPPEACE PROJECT

    長崎から、ピースな愛のバイブスでポジティブな感じで《被爆の継承》をテーマに発信していきます。

最近の記事

【 おじいちゃん、お誕生日おめでとう。】

「うれしいねぇ、なみだがでてきた。」 今日何度もそう言って涙を流していたのはおばあちゃんだった。 おじいちゃんのお誕生日を、自分のことのように涙を流して喜ぶおばあちゃん。 おばあちゃんが認知症って言われてどれぐらいの月日が経っただろうか。 初めの頃は忘れてしまう自分と、ハッキリ思い出せる自分を行き来していて、忘れてしまう自分が嫌でものすごく怒っていた。 彼女が、自分自身に怒っていたのをよく覚えている。 あのときが1番苦しんでいたのかもしれない。 わたしが高校

    • 真っ暗闇の中で。

      昨日夜、わたしは携帯も財布も何も持たずに家を飛び出した。 気がつけば20キロの道のりを一人歩いてたのだ。 被爆の継承のための本づくり、クラウドファンディングが終わってから早4ヶ月。 「本どこまで進んでるの?」 「どうやって暮らしてるの?」 「これからどうするの?」 3月から9月までとにかく突っ走ってきた。 メディアも新聞にラジオにテレビに全国でも取り上げられ知名度がぐーっと引き上げられた。 その反面、みんなから期待される自分に追いつけなくて苦しくて、少しでもつ

      • 永井隆博士。

        長崎で、原爆に被爆なさり、夫人を亡くされ、ご自分も被爆により43才で世を去られた長崎医大の医師、永井隆さんが、二児に残された遺言です。       *** いとし子よ。 あの日イチビの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一(まこと)よ、かやのよ、 お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世にとどめて、ついにこの世から姿を消してしまった。 そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものはなんであるか。 原子爆弾。いいえ、それは原子の塊である。 そなたたちの母を

        • わたしが日本を飛び出したお話し。

          19歳のとき、失恋をした。 なにもかもキラキラ輝いてた日常は一瞬にして色を失ったように思えた。 バックパック片手に、日本を飛び出した。 行く宛もなく、現地に頼る人もおらず、宿も決まっておらず、少しだけバイトで貯めたお金握りしめ ガンジス河に涙と思い出流そうって。 言語も知らなければ、どんなところかも知らない。歴史も、文化も。 馬鹿みたいにまっすぐで、純粋で、信じやすく、騙されやすいわたしには決して天国とは言えない場所だった。 「くさい。」 それがあたしの第一印

        【 おじいちゃん、お誕生日おめでとう。】

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        • NAGASAKI HAPPEACE PROJECT
          2本

        記事

          砂漠の村の子、ラズー。

          オールドデリー駅を出発してから18時間は経ったかな。 やっとこさ目的地に着いた。 砂漠の街、ジャイサルメール。 見渡す限りカラッカラの砂、まるでアラジンの映画のセットにいるような光景が広がっていた。 ラクダに乗って砂漠へ旅に出るいわゆるキャメルサファリというやつをしに、やってきた。 案内をしてくれるらしいターバンを巻いた、いかにも砂漠の民って感じのおじさん。 笑うと金歯が光って眩しかった。 そのおじさんの後ろに隠れてこちらをチラチラ覗いてくる男の子。 彼の名は

          砂漠の村の子、ラズー。

          砂漠の町、ジャイサルメール。

          コロンビア人、ホアナとの出会い。 わたしが砂漠の街ジャイサルメールの安宿、パレスイントーキョーに泊まっていたときのこと。 まず名前に笑った。 ネーミングセンス良すぎ。 安宿のくせにプール付きで、ルーフトップからはアラジンのお城が見えていた。 お部屋も砂壁にハンモックがかけられていて、すごくいい雰囲気醸し出してる。 長い長い列車旅のあとだったから疲れて、衝動的に服着たままプールに飛び込んだ。 もちろん水着なんて持ってきてなかったから、オーナーに言ったら「そんまま飛

          砂漠の町、ジャイサルメール。

          ふたつの命から学んだこと。

          忘れないよ。 東日本大震災を。 決して忘れないよ。 福島原発事故を。 宮城県の丸森町から保養に来てくれた双子ちゃん。 原発事故と言えばみんなは福島のことを真っ先に想像するかもしれない。 でもそれもそのはず。 だって事故は福島で起きたのだから。 宮城県の丸森町はね、宮城県の南部の方にあるの。 東日本大震災から5年経った今、日本の中でその記憶が薄れてしまいつつある。 でもね。福島だけじゃないんだ。放射能汚染されてるのって。 普段長崎の人たちが生活していて日常にある

          ふたつの命から学んだこと。

          NAGASAKI HAPPEACE PROJECT

          はじめまして。わたしの名前は松永瑠衣子と申します。生まれも育ちも長崎で、3月まで4年間小学校の先生をしておりました。わたしの故郷長崎は、海と山に囲まれ魚も野菜も新鮮で美味しく、歴史も深く、伝統文化を大切に守り抜いている とても素敵な街です。 そんな長崎の街には、決して忘れてはならない記憶があります。 1945年8月9日の11時2分。一発の原子爆弾が投下されました。祖母は「被爆者」と言い、孫にあたる私は被爆3世と呼ばれています。 毎年長崎では8月9日が登校日です。 いつま

          NAGASAKI HAPPEACE PROJECT

          26歳、ながさきPEACEクリエイター。

          【《被爆の継承》のための本づくりに挑戦!】 はじめまして。 私の名前は、松永瑠衣子と申します。 生まれも育ちも長崎の26歳です。 ここ長崎は、山や海に囲まれ自然豊かで 地元の野菜や魚が新鮮で美味しく、歴史も深く、伝統文化も大切に守り続けられている街です。 わたしは3月まで4年間、小学校の先生をしていました。 子どもたちは素直で一生懸命、やんちゃでいたずら心も忘れない。もう可愛くてたまらないんです。 そんな毎日が楽しくて、素晴らしい環境にいたにも関わらず、 わたし

          26歳、ながさきPEACEクリエイター。

          はじめまして。 松永瑠衣子と申します。 生まれも育ちも長崎の26歳です。 山と海に囲まれ、自然豊かで人も温かい長崎には、決して忘れてはならない記憶があります。 73年前、ありふれた日常の中に投下された一発の原子爆弾。当時を生きた人たちの思いを受け継ぐために新たな挑戦をします!

          はじめまして。 松永瑠衣子と申します。 生まれも育ちも長崎の26歳です。 山と海に囲まれ、自然豊かで人も温かい長崎には、決して忘れてはならない記憶があります。 73年前、ありふれた日常の中に投下された一発の原子爆弾。当時を生きた人たちの思いを受け継ぐために新たな挑戦をします!