![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/7278749/rectangle_large_type_2_7cb088c5e921d7572e8c653dd5bdb420.jpg?width=1200)
NAGASAKI HAPPEACE PROJECT
はじめまして。わたしの名前は松永瑠衣子と申します。生まれも育ちも長崎で、3月まで4年間小学校の先生をしておりました。わたしの故郷長崎は、海と山に囲まれ魚も野菜も新鮮で美味しく、歴史も深く、伝統文化を大切に守り抜いている とても素敵な街です。
そんな長崎の街には、決して忘れてはならない記憶があります。
1945年8月9日の11時2分。一発の原子爆弾が投下されました。祖母は「被爆者」と言い、孫にあたる私は被爆3世と呼ばれています。
毎年長崎では8月9日が登校日です。
いつまでも原爆の残酷さや悲惨さを忘れずに、二度と戦争のない世の中をつくるために、被爆地長崎から平和の尊さを発信していこうと再確認するためです。
ですが私自身、毎年この日を迎えるのがとても恐ろしく、なんのために被爆講話を聞かなければならないのか分からなかった子どもの一人でした。
今度は教える立場に立ってみて、子どもたちにこんな質問をしてみました。
「今まで、被爆講話聞くの嫌だな、怖いな、悲しいな・・・って思ったことのある人。」
すると、学年120人いる ほとんどの子どもが手を挙げたのです。
「これだけ平和教育が盛んな長崎の子どもたちでさえも、そう感じてしまうんだな・・・。」
自分が学生だった10年以上経った今でも、変わってないんだなぁって。
その頃からです。「なんのために平和教育をするのか、子どもたちは分かってるのだろうか・・・。」と疑問に思い始めたのは。
もちろん模範解答は誰だって答えられるんです。
「平和な世界をつくるため。」
じゃあその「平和な世界」ってなんのこと?
どんな世界になったら「平和な世界」と呼べるの?
そんな世界をつくるために、どうして「被爆講話」を聞かなきゃいけないの?
被爆者のおじいちゃんおばあちゃんは、なんのために夏の暑い日にわざわざ学校まで出向いて「被爆講話」を話してくれるのか。
わたし自身が変わるきっかけとなったのは16歳のとき。
2008年4月4日。今からちょうど10年前。語り部さんが「手の届く距離」で被爆講話をしてくださったときのことです。
「妹は原爆で失った家族を思い、死ぬ勇気を選びました。でも私は死ぬ勇気を選ぶ勇気がなかった。」
そのとき、話を聞きながら 今まで流したことのない涙 が流れてきて。
「ああ、、目の前にいる女性が、実際に体験したことなんだ。」って。
戦争を知らない私たちと同じように、青春があって、友達がいて、家族がいた。そんなあたりまえの日常を生きていた。
初めてそう感じたのです。
学生時代、被爆講話を聞いた中では一度も抱いたことのない感情でした。
そして、その時に語り部さんが手を握りしめて 私に掛けてくださった言葉。
「 平和のバトンを あなたに 」
この言葉が、当時のわたしに被爆3世であることを再認識させてくれました。
いろんな継承のかたちがあるはず..
そう悩んでいたときに出会った映画
「被爆体験」そのものを語り継ぐのも《被爆の継承》ですが、私が戦争体験者の講話をそのまま語っても、当事者が話すときに伝わる「思い」の10000分の1も伝わらないだろうなと感じました。
戦争や被爆体験を "あまり聞きたくない怖い話" で終わらないように、もっと伝え方について考えたい。
そう悩んでいたときに出会ったのが「この世界の片隅に」という映画でした。
戦争体験者にだって、自分たちとなんら変わらない「ありふれた日常」があったんだって。
当時どんな暮らしをして何を食べてどんなことをして遊んでいたのか。当時もあった「ありふれた日常」を知ることで、より身近に感じ、本当の意味で戦争体験者の心に寄り添い彼らの「思い」を継承することができるのではないかと思ったのです。
映画「この世界の片隅に」の 片渕監督に会いに
日本アカデミー賞を受賞したアニメ映画、「この世界の片隅に」の監督片渕須直さんに会いに行きました。
「ぼくはね、戦争を生き抜いた人たちと『同じ気持ち』を探したんだ。
戦争体験者と私たちの『違い』ばかりを探すから、他人事になってしまうのかなって。
どんなに質素なご飯でも、毎日家族とちゃぶ台囲んで食べてたし、暗くてもそれが毎日あたりまえで、どんなに質素な服を着なくてはならなくても、それなりにお洒落も工夫してやってた。」
わたしたちはどこかで、戦争体験者は『特別な存在』だと思い込み遠ざけていたんじゃないんだろうか。
「そのとき生きてた人たちは『かわいそう』だからわたしたちは今の世の中に生まれてきてよかったねー。」
そうじゃない。
悲しいことや辛いこと、きついことばっかりあったのが戦時中じゃない。 その中にも「幸せ」はたくさんあった。
「今の広島の原爆資料館の近くから、ビー玉とかお人形さんとかお箸とかいろんなものが見つかったんです。そこには確かに、生きてたんです。そこに生の営みがあったんです。
僕はね、原爆資料館の近くにあった商店をできるだけ正確に再現しようと思ったんです。いろんな人から聞き込みをして、当時そこにお店を構えていた人たちの似顔絵を募って、それを映画に反映させた。だって、あの爆弾が落ちるまでそこにあの人たちは生きてたんだって。」
戦時下にもあった「幸せ」の中に 空襲 が起こって、 原爆 が落とされたんだって。
わたしとお話を続けていく中で、監督の目に涙がたまっていました。
「 そうなんです。わたしの祖母家族は、その戦時下でかまぼこやさんを営んでいました。きっと、監督が思い描いてくださった、その商店に並ぶ生きてた人間の一人で、その一人の人生をわたしが物語にしたかったんだろうなって思って。 」
すると「うんうん」と頷き、「教えてください。かまぼこやさんの物語。ぼくもあなたの本が欲しいです。」とおっしゃってくださいました。
「ありきたりな日常」にこそ本当の価値があることを、気づかせてくれました。
そして後日、ツイッターに私のことを書いてくれました。
日本の西の片隅にいる私のことも見つけて応援してくださる片渕監督。
「こんな人がつくった映画だからこそみんなが惹きつけられるんだなぁ。」と。監督の優しさに感銘を受けました。
私の中で「自分も出来ることを全てをやろう」という思いが一層湧き上がってきました。
なぜ今、先生の仕事をやめてまで 取り組むことにしたか
初めて「語り部」さんとお話ししてから10年経った今。
わたしが当時あたりまえに笑い合っていた有名な被爆者の方はほとんどいらっしゃらない。
原爆が投下されてから73年。
たとえ10年後、自分に経済的な余裕ができてから《被爆の継承》をしようと思っても、どれぐらいの方々がご健在で戦争体験が話せるか分からない。
だからこそ、「今」やらなければ一生後悔すると思ったんです。
全く異なる2人の女性をモデルに 物語を書こうと決めた
わたしは、自分の人生を変えてくれた被爆者で語り部の女性と、自分の命を繋いでくれた被爆者で祖母、二人の女性をモデルに物語を書こうと決意しました。
血の繋がりもなく、生まれた場所も家族の形も生き様も性格も全く違う二人をモデルにすることに。
まったく違う人生を歩んできた二人が、1945年8月9日の11時2分だけ同じ体験をした。
一方は、原爆の恐ろしさや悲惨さを伝え、二度と戦争のない世の中をつくろうと「語り部」として訴え続けた女性と、
差別を恐れ商売と家族を守るために被爆者であることを隠してきた女性。
目指したいのは「誰にでもできる継承」
そのきっかけになる本を
この本は、「被爆者」だから特別な話というものではなく、どんな困難をも乗り越えて戦後を生き抜いた二人の「女性」の力強く逞しい生き様に勇気をもらえるような作品でありたいという思いと共に、
「今」を生きる私たちは、先祖をたどっていけば必ず「戦争体験者」に行き着き、貧しさや悲しみを経験したその先に「喜び」や「幸せ」があって、その延長線上に「私たちの命」があるということ。
このプロジェクトのテーマにしているのは「誰にでもできる継承」です。
最後に
広島・長崎だけが「平和」について考えればいいのだろうか。
原爆だけが戦争じゃない。
73年前の今日、どこかで空襲があっていたかもしれない。
5月25日だって、6月23日だって、7月7日だって、あのときの日本は、誰かが剣を振りかざし、どこかで弾丸が飛び交い、空襲警報が鳴り、爆弾が落とされて、尊い命が奪われていた。
語り部さんがおっしゃってました。
「過去に目を瞑るものは、未来に対して盲目である。」と。
過去を「知り」、「主体的」に受け止め、二度と戦争が起こらないようにするためにはどうしたらいいか「考え」、「行動」する。
アクションはどんなに小さなことでもいい。
あなたの住むその街にも 戦争体験者は いる。10年後、もし「戦争当時の話を聞いてみよう!」と思っても、話を聞きたい人はもうこの世にはいないかもしれない。
だからこそ 今 、「ありふれた日常」の中からどうやって戦争に向かっていったのか。そして、その後にもどんな人生が続いていったのかを知りたい。
戦争体験者の「願い」はたった一つ。
「二度と後世に戦争を体験させないこと」です。
そのために、彼らはどんなに夏の暑い日でも重い腰を上げて、老体に鞭打ちながら これからを生きるわたしたちの未来のために 思い出したくもない被爆講話をしてくれているということ。
そんな戦争体験者の「やさしさ」をしっかりと受け止め、未来に繋ぎたい。
このプロジェクトを通して、その夢を実現する第一歩を踏み出したいです。
50万円集まったら、このプロジェクトの取材費や、講演会やイベントにかかる活動資金、そして県外で講演や授業をする際の渡航費や滞在費などに使わせていただきます。
100万円集まったら、一人で行ってる講演会やこの活動にカメラマンと記者に同行してもらい、より濃い活動報告と動画などの配信も行っていきたいです。
200万円集まったら、長期休みを使って、学生を同行させたいです。経済力のない彼らに支援をしつつ、一人でも多くの子にこんな思いを共有できればと思います。
現在は主催者である私が貯金を切り崩して、全ての活動を行っているのですが正直とても厳しいです。テーマが「被爆の継承」ということもあり、手伝いたいと言ってくださる方が少しずつ増えていってます。長崎で行うイベントだけ手伝っていただいておりますが、県外や国外でもやっていきたいのと、特に高校生や大学生など若い子たちを同行させたいです。そして、今年だけの活動で終わることなく永続的にやっていきたいので、資金が集まれば集まるほど、この活動の幅を広げていきたいと考えております。
全国の戦争体験者の思いを語り継ぎ、長崎から世界へ。
よろしくお願いします!!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?