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[エストニアの小説] 第4話 #1 ヤーニハンスの森(全15回・火金更新) 

葉っぱの坑夫

「白夜」は、アウグス・ガイリの短編連作小説『トーマス・ニペルナーティ:悪魔の舌をもつ天使』の第4話です。主人公のニペルナーティは全7話に登場し、それぞれの村で騒動を巻き起こします。
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Original text by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 この男が長いこと路上生活していたのは明らかだ。見た目くたびれ、埃まみれだった。先を急いではいなかった。ただ歩くこと、気晴らしのため、楽しむため、森のそばを、道にしたがって。木陰や、湿地のそばに古びた納屋でもあれば、そこで休むことはあった。多くを望まず、少しのもので満たされた。

 ときに道からそれて草原を渡っていったり、森の奥深くに入り込み、薮や木々の生い茂る中を何日も歩きまわったりもした。そして道に出会えばまたそこを歩いた。三日月湖のそばの河岸で足をとめ、自分ひとりしかいないと思えば、歌をうたい、ツィターを奏で、大声でひとりごとを言った。鳥や藁の上を走る虫や蝶を見つければ立ち止まり、息を詰めてじっと観察した。が、またパッとからだを起こすと歩きはじめた。1箇所に長く留まることなく、何かにせっつかれてでもいるように、たえず探しものでもしているように歩くのだった。

 何を思ったか、後ろを振り返り、歩いてきた道を戻ることもあった。野良犬の吠える声とか、突然鳴き出すカラスといったものが、この男の気分を台無しにすることがあるからだ。ポケットに少しでもパンが残っていれば、村人を避け、家のそばに近づかないようにしていた。人が近づいてくれば、さっと森の中に入って隠れ、通り過ぎていくまで木の陰でじっと待った。

 この男、別荘の前で足を止めると帽子をぬぎ、歌いはじめたことがあった。しかし窓の向こうに目を覚ました男の顔が見えると、歌を中止してさっと背を向け、来た道を戻っていった。またある時、湿地でクサリヘビをたくさん捕まえると、空っぽの藁小屋に運びこんだ。夜になるとそこに、帽子一杯のツチボタルを加えた。そして床にすわると、自分のまわりでチラチラする光を眺め、シューシューというヘビたちの怒りの声を聴いて楽しんだ。こんな風にして、生きものをまわりに従えてうとうとと居眠りした。しかし朝にはヘビはいなくなっており、ホタルも姿を消していた。どうしたものか、男はイライラし意気消沈した。そしてまた旅をつづけるのだった。心のうちで何かが壊れ損なわれた。白夜がこの男の不安の元のようだった。

 日照りがつづいていた。太陽が火車のように燃え上がり、まわる軸から炎を投げつけてくるようだった。風は土埃をあげることなく口をつぐみ、眠っている。葉一枚、藁一本、動かなかった。焼けた地面は岩のように固くなり、炉から出したばかりの鉄のように光を放っていた。苔は焦げてロウソクの芯となり、触ると灰になって落ちた。湿地は燃え上がり、もうもうと煙が広がって、空は黄色い膜に覆われた。誰かが道を車でビューッと走っていけば、その背後には長い長い砂埃が舞い上がった。砂埃は長い時間、宙にとどまりユルユルと尻尾を揺らせ、走者に食いつく大蛇のようだった。曲がりくねる道を行く大蛇の背骨は、木立や小さな丘で隠れて見えなかった。あたりはしんと静まりかえっていた。

 鳥さえも暑さに負け、黄色いくちばしを苦しげに開けて、藪の中でまどろんでいた。カワガラスの群れが喉が渇いたとさえずったり、チフシャクムシクイがいらいらと声をあげたり、シギが乾ききった泥炭地の上で仲間を呼ぶ声があるくらい。遠くの森から、カッコウの声が聞こえてくる。しかしそのカッコウでさえ、太陽と松脂の臭いに気押されて、長い間を入れながら、休み休み鳴いていた。大胆に鳴きはじめても、最初のクッのあとのクーが続かなかった。

 夜になると、あたりは煙幕と土埃に満たされた。湖は色をなくし生気が消えた。沈む太陽は煙幕と土埃を通して錆色に輝き、束の間、森の向こうに姿を消したが、光が消えたわけではない。大海原のように広がる空は紅く染まっていて、ポツポツと漂ういくつかの雲は赤い船のようだ。赤銅色の月が空の端から顔を出すが、1分後には色をなくし引っ込んでしまった。空は新しく始まる日の光を受けていた。夜はほんの一瞬の出来事、乳白色で、とんでもなく暑く、クローバーや木々の樹脂や花々の毒々しい臭いに満ちていた。沼地からやってくる小さな雲を除けば露も靄(もや)なく、その雲も銃を撃ったあとの煙のようにすぐに消える。新たな日が始まったが、昨日よりさらに暑そうだ。サリクス・キネレアの銀色がかった小さな葉っぱが、日の出を恐れたかのようにちょっと震えた。そしてヨーロッパビンズイが鋭く鳴いて、泥炭地のすみかへと消えていった。

 トーマス・ニペルナーティはヤーニハンスの森を歩いていった。道は急な下り坂だった。目の前にはマーラの湿地や泥炭地が広がっていて、ところどころに島の頭が見えていた。この島々には小さな家や貧しい農家の畑があり、その畑は家のところから始まって、ミズトガリネズミのように水場に向かってまっしぐらに走っていた。くねくねした皮のような道が、芝土や木の根っこの上を架け橋のように走り、島と島を結びながら伸びていき、生暖かい泥炭地のぬかるみの中に消えていた。ヤーニハンスの森から川幅のあるカーブ川が流れ出ていたが、マーラ湿地のところにくると、散り散りになって小さな湖や水たまり、沼になっていた。滝のところまで行きついた流れのみが、ふたたび滝壺に集まり勢いを取り戻し、唸り声をあげていた。滝のそばの土手には、筏(いかだ)と筏乗りの小さな小屋があり、その反対側にはクサリヘビやマルバナヤナギ、ヨーロッパダケカンバに囲まれた居酒屋があった。その赤い屋根は、湿地を見下ろす灯台ような見映えだった。

 ニペルナーティが道を下ろうとしていたとき、突然風がおきた。風は犬が鳴くようにキュンと一度、二度、三度と音をたてた。木立や藪がザワザワといいはじめ、路上の土埃がくるくると柱のように立ち上り、湿地の方へと運ばれていった。森の奥深いところが、一瞬、それに反応して静まりかえった。と思ったら、唸り声をあげてからだを揺らしはじめた。モミの木のてっぺんが葦のように身震いした。

 墨色の雲が、湿地の向こうに湧き上がった。まるで黒い平らな壁が地面から持ち上がったようだ。雲は縁をメラメラと燃え上がらせながら、するすると見る間に上昇していった。同時に遠くの方から、くぐもったゴロゴロという雷の音が聞こえてきた。ニペルナーティは恍惚となって足を止める。雲は高いところまで昇っていき、大地を二分した。黒い壁の下の草地は、冬の夜が訪れたかのように真っ暗になった。森も、草原も、家々も、奈落の底に沈んでいくようだった。ところが雲のこちら側は、明るく光に満ちている。太陽は湿地帯のうえ高いところで輝き、畑の黄色い土埃の柱が一つまた一つと、元気よく沼の方へくるくると渦巻いていった。

 風は静まり、犬のようにピンと耳を立てて耳を澄ます。森が低くうなり、火を消される前のロウソクのようにじっと立ちつくす。藁一本動かない。鳥たちは心震わせながら待機する。チュン、ピー、さえずりはいっさい聞こえない。コオロギさえ羽をこすり合わせることなく静かだ。遅ればせながら森へ向かうカラスが、忌まわしい声で鳴くばかり。なんとも奇妙な沈黙、厳粛にして神聖な間、これから大変なことが起きそうな不安。

 ところが突然、風が暴れ馬のようにキーッと悲鳴をあげて立ち上がると、木々をとらえ、藪をかき混ぜ、喜び勇んで雲に向かって上昇し、湿地や森を襲わんと出ていった。木々はザワザワと音を立てはじめ、薮は正気を失ったようになった。木々の1枝1枝、藁の1本1本が揺れ動き、サワサワ、ヒューヒューと音をたてた。するとボトリと最初の特大の一粒が、焼けて熱くなった大地に落ちてきた。真っ黒な雲の壁が、空のてっぺんに向かって昇っていった。その縁は黄色い炎に包まれギラギラと光を放っている。太陽が黒い雲の影に隠れ、あたりは夕暮れの薄暗さに包まれた。すると遥か遠くの丘が、一瞬、光を受けて輝いた。雷がどんどん近づいてくる。雨が降り出した。トーマス・ニペルナーティはすべなくそれを見ていた。

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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