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[エストニアの小説] 第4話 #14 お馬ちゃん、インダス(全15回・火金更新)

前回 #13 アン・マリとヨーナ
わたしたちだけで、静かに、滝のところの岩壁に火薬筒を埋め込むんだ。そして準備万端整ったら、岩壁を爆破する。ドリルで穴を開けるのにそれほど時間はかからないだろう。4、5日でやり終えると思う」
 「オレはやんないよ!」 ヨーナが強く抵抗した。
 「なんてアホなんだ!」 ニペルナーティはそう言ってベッドに潜り込んだ。「悪い仕事じゃないんだ、マーラの水捌けによって金メダルがもらえるだろうね。だからヨーナ、明日の朝だ、朝早くな」
 ちょっとするとニペルナーティの寝息が聞こえてきた。ヨーナにこれ以上何が言える?

 雨が降り続いていた。空は端から端まで雲でおおわれ、昼となく夜となく、朝から晩まで雨が降り続いた。雨につぐ雨で、いっときも止む気配がなかった。湿地はゴロゴロいう水でいっぱいになった。ほんのわずかの地面が、アザラシの丸い背中みたいにポツポツと水から突き出ている。目に見えるのはマシュロック、松、カバノキの頭くらい。溝も道もすべて川の流れになっていた。暗く陰気な日がつづき、湿地帯を風があえぎながら渡っていった。村人はみんな家に閉じこもった。外を歩きまわる人はめったにいない。ジプシーのインダス(トビハネ・ヤーン)がぬかるんだ道を飛び跳ねていた。
 しかしそのインダスも最近は腰がまがって、楽しげにいなないたりはしなくなった。飛び跳ねている最中に突然、足をとめ、悲しげに頭を垂れた。何か重大な懸念、大きな謎が頭に沸いたのだ。
 なぜどの動物にも主人がいるのか、動物を世話し、罰し、愛する主人が。なのにどうして自分にはそれがいないのか。馬ならばみんな荷を引き、その荷の上にはムチを手にした主人がすわってる。なのに自分には主人がいない! 自分には愛してくれる人も罰してくれる人もなしだ。自分を売ろうという者さえいない。市場につれていって、交換したり、売ったり、硝酸カリウムを与えてくれたりする者がいない。すごく妙なことだ、わけのわからないことだ。他の馬たちがムチに打たれて嬉しそうに歩いているのを、鼻を鳴らし、いななき、重い荷を運んでいるのを見る。ときどきインダスは他の馬のところに行ってみる。並んで走ってみる。しかし彼らはインダスを家畜とはみなさない。インダスのどこが悪いのか、なぜ見下されたり、ニセモノ扱いされるのか?

 年をくっているせいなのか、骨と皮しかない年寄りだからなのか? じゃあ、どうして皮をはいでくれない? そういう馬にも価値があることをインダスは知っている。居酒屋の前で男たちが馬革の値が上がったなどと話しているのを聞くことがある。天の神様、どうして自分の皮を誰もはがないのか。

 唯一、背の高いよそ者がときどき、インダスのことを「お馬ちゃん」とか「ジージー」と呼んで撫でてくれる。とはいえこの男でさえ、自分を家に帰すくらいしかできない。そう、たいしたお家にだ! それはボロい小屋だ、ドアや窓は壊れ、部屋の中央にあるストーブでさえ崩れ落ちている。風の強い日など、小屋はガタガタといい、揺れたり震えたりして、丸太や板が落ちてきそうだ。それに馬小屋もない。これがインダスの家かって? どこかの貧しい人間には充分かもしれないが、インダスには、馬には向かない!
 もしかしたらインダスは野生の馬なのか、飼い慣らされていない、向こう見ずな。いやインダスが望むのは野生の馬じゃない、暖かな馬小屋がほしいし、主人がほしいのだ。もし主人さえいれば、インダスは貧しい小屋でもがまんするだろう。いまや誰一人、インダスをムチ打つ者はなく、くつわを付ける者もいない。鞍や引き具をつけたり、荷を引くよう命令したり畑を耕したりするよう言う者もいない。こういうことを今だってできるのは確かだ。結婚式に花嫁花婿を乗せて走れるし、荷を積んだ馬車で丘をひとっ走りで駆け上ることだってできる。なのに誰も、誰ひとり自分を必要としてくれない。もし人間であれば、市場に行って自ら口をきいて売り込むことができる、少なくとも皮剥ぎについては。しかしインダスはしゃべることができない、哀れなインダスはただの馬、しゃべることを神が与えなかった馬なのだ。

 そう、インダスは知ってる、みんな彼のことを疑っていると。あいつは人間だ! そうみんなは言う。妙なことだ、どうして自分は人間なんだ? みんなもっと近くに来てよく見てみるといい。銀色のたてがみがあるだろう、足枷をつけた蹄が見えないのか、首から鐘だって吊り下げてるのに。馬がやるようにいななきはしないか、馬のように走りはしないか、地面を蹄で踏みつけはしないか? 疑い深い不運な人々、醜いペテン師、そういう人たちは目はあるのにちゃんと見ようとしない、耳はあるのに聞こうとしない。根性の悪い人間たちは、1度、2度とムチ打つことさえ嫌がる。

 あの背の高いよそ者だけが、ちょっとだけ優しくしてくれる。インダスはあの男がどこにいるか知ってる。ここのところ、渡し守と一緒に滝のそばで何かやってる。来る日も来る日も雨に濡れて、口をきくことなくむっつりとハンマーを打ちつづけている。
 だからインダスは滝のところへと走っていく。
 インダスはいななき、足を踏み鳴らし、誇らし気に頭をそらす。
 「ここに来るなと言わなかったかい? あとでここから石を運び出すときに、きみのことを呼ぶから、荷馬車を引く装具をつけるから。だけど今は家に帰って」
 ニペルナーティはインダスの背中を手のひらで叩いて、こう言う。「急げ、お馬くん、ほら行くんだ」
 するとインダスはその命令を嬉しそうに受けて、家へと走り去る。

 ヨーナはハンマーを脇に置いてため息をつく。
 「これって奴隷みたいだ」 苦々しげに言う。「雨は止むことがない、オレはキノコみたいに濡れそぼっている。この自滅作業はどんだけ続くんだ? 滝に飛び込んだ方がよっぽどましだ」
 「不満を言ってる場合じゃない」 ニペルナーティがぶっきらぼうに答えた。
 しかしヨーナはやめない。
 「この作業がどういうものか考えれば」とけんか腰のヨーナ。「なんの意味もまったくない! アン・マリだって望んでない、クープもだ、それにジプシーたち、あいつらがマーラに水がないのを見たら、もうここには戻ってきやしない。まあ、あんたはここにちょっとばかし土地が欲しいんだろうがね」
 「わたしが? それはない!」 ニペルナーティはけんもほろろ。
 「じゃあ、なんであんたはこの壁に穴を開けるんだ?」
 「いいか、よく聞くんだ」 ニペルナーティがイライラしながら言う。「いやだったら、家に帰ればいい。わたしたちの仕事はもう終わったも同然だ。もうすでに9個もの穴をあけた。壁を壊すのに充分な数だ。雨がやんだところで、穴に火薬筒を詰めて、導火線をつないで、そうすれば滝の脇に大きな割れ目ができる。そうなれば水がどんどん流れ出ていく」
 ニペルナーティはこの手のことの熟練者のように周囲に目をやり、嬉しそうな声でこう言う。「どうだ、どんだけ大きな爆破が起きることか。一生の間で見ることがないような、でかい洪水が起きて轟音が鳴り響くぞ」 そして藁で穴の水分を吸い、そこを覆い、ハンマーやドリルをカバンにしまった。「さてと、ヨーナ、われわれもこれでお開きだ」
 そして水を滴らせながら、二人は家に向かう。

 アン・マリが渡し舟のそばに立っている。そして湿地を悲しげに見ている。
 二人が目の前を行きすぎると、アン・マリは目をあげて声をかける。そしてため息をついてヨーナにこう言う。「ヤイラスが帰ってきた…」
 ヨーナがびっくりして足をとめ、アン・マリにおずおずと目をむける。そして「そうか……ヤイラスはもう帰ったんだ」と言う。
 「そう、もう帰ったの」 アン・マリはため息をつく。「ああ、神様、あの人は変わってしまった。おとなしくて、飼い慣らされた人みたいになって。家に着くなり、聖書と讃美歌集を探しまわってる。そんなもの家にはなかった、だからナーベスのところに走っていって借りたんだ。ヤイラスはウォッカも飲まないしタバコも吸わない。悪魔めがとも言わないし、床に唾を吐いたりもしない。あの人をどうしたらいい? 痩せて骨ばかりで、顔じゅう白髪まじりの髭でおおわれて。神様のことしか口にしない。信心深くてお祈りばかり、ヒヨコみたいに顔を天にむけてる。行って見てくるといい。あたしはもう、たくさん!」

 ヨーナは顔を赤らめ、口ごもり、困った様子。
 「いや、あんまり」と言ってから、「会いたくはないな」
 「楽しい見てくれとは言えない、言えないね」 アン・マリはすぐに同意する。「あいつはもう9回も神に祈りを捧げ、5回罪を 告白し、教義を2回唱え、今は嘆きの声をあげている。居酒屋は神様と神の言葉でいっぱいだ、教会みたいに詩の言葉が空っぽの部屋で響いてる。あいつは声も変わってしまった。鼻は針みたいに尖ってる。刑務所であいつは何をされたんだ。もしかしたら毒薬を飲まされたのかもしれない。熱い棒を押し付けられて拷問されたのかもしれない。重い聖書で毎日頭を叩かれたのかもしれない。ひどいアホになってしまった、トビハネ・ヤーンと何も変わらない。今あの二人は居酒屋にいる、ヤイラスとクープだよ。ヤイラスは祈っていて、クープは聞きながらイラついてる。あー、惨めなクープは皿を壊したことで頭にきてる。涙を溢れさせ、食器棚から皿を取り出しては床に投げつけている。これも壊してやれ、そう唸りながら、これもだ、最後の1枚だってね。終わってるよ。ヤイラスがアホになったとしたら、もう終わりだ。あたしたちはヤイラスが戻ってくるのを待ちに待っていた。いろいろ計画したり考えてたんだ。なのにあたしたちには呪いしかない、それしかないんだ!」
 アン・マリは雨でずぶ濡れになるまでそうやって話しつづけた。そして顔をぬぐうと、ため息をついて足早に居酒屋へと戻っていった。

 ヨーナも家に戻り、ベッドに潜りこんだ。しかし長いことずっと眠れずにいた。胸を何かに押し付けられているような感じで、ノドがひくひくして今にも泣きだしそうだった。それが何なのか、どうしてなのか、自分でもわかっていなかった。

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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