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[エストニアの小説] 第4話 #15 実行の日(最終回)

前回 #14 お馬ちゃん、インダス
 ヨーナも家に戻り、ベッドに潜りこんだ。しかし長いことずっと眠れずにいた。胸を何かに押し付けられているような感じで、ノドがひくひくして今にも泣きだしそうだった。それが何なのか、どうしてなのか、自分でもわかっていなかった。

 ヨーナは朝方になってやっと眠りについたものの、目を閉じた途端、ニペルナーティがベッドの脇に立っていた。

 「ヨーナ、起きて」 嬉しそうに声をかける。「見てごらん、空は真っ青、お日さまが沼地を照らしている」
 「オレは行かない」 眠そうな声でヨーナは抵抗する。
 「だめだ、だめだ、すぐに起きるんだ」 ニペルナーティが命令する。
 ニペルナーティは興奮して部屋の中をコマのようにクルクルと歩きまわる。
 「やっとだ、やっとのことで、待っていた日が来たんだ」 ニペルナーティは朗読でもするように、厳粛な面持ちで言う。「わたしはこの日をずっと待っていた。愛する人を待ちわびるみたいにね。今日、やっとあの沼は水がはける。2度とゴロゴロうなったり霧がたちこめたりしない。起きて、ヨーナ、早く、早く」 

 ニペルナーティは火薬筒と導火線を自分のカバンに詰め、思いついたようにツィターの方に目をやると、それも手にした。
 「沼の水がブクブクいいながら消え去ったら、わたしの成した仕事とその技能をたたえて歌をうたう、自分をほめてやる、自然に打ち勝ったからだ」 そう宣言するように言う。
 そして半ば強制的に、ヨーナを引きずって滝の方へと急ぐ。
 滝に着くと、熱に浮かされたように忙しく立ち働き、穴に火薬筒を詰め、ハンマーでそれを押し込み、導火線をつける。ヨーナはそれをぼんやりと眠そうにして見ている。

 ヨーナは悲しい気持ちでいる。「もうこんなことは終わってたらいいのに」 沼なんかどこにもなくて、ニペルナーティもいなくなって、家でまた窓辺にすわって歌をうたっていたら、川を見ながらアン・マリに、アン・マリ一人にうたっていたら。そういう時はまた来るのか? ヨーナはピンと皮を張った太鼓みたいだ。通りがかりの人誰もに叩かれる太鼓。ヨーナは以前のように自分自身でありたい、自分で自分の道をきわめたい。村長は身の回りのもの一切合切とともにヨーナを放り出すといって脅さなかったか?

 「ほら、見てごらんよ」 ニペルナーティが声をあげる。
 ヨーナは導火線に火がつけられるのを見る。青い小さな炎がネズミみたいに、素早くダイナマイトの穴の方へ走っていくところを見る。
 ニペルナーティは遠くへ、遠くへと走っていく。
 ヨーナも走る、遅れまいと。カッと頭に血がのぼり、足が鉛みたいに重くなる。やっとニペルナーティに追いつき、岩の後ろに身をふせる。と、恐ろしい爆破が起こり、地面が揺れ、巨大な火柱が宙に立ち上がる。そしてもう一つ、さらにもう一つ、そしてまた………マーラの沼全体が粉々になったかのようだ。地球の固い中心部が砕け散ったみたいだ。つづいて何かが気味悪い音をたてて唸り声をあげる。水が轟音を発しながら流れはじめる。

 ニペルナーティはパッと立ち上がると、走って見にいく。
 滝の脇のところに大きな口が開いている。そしてそこを水が勢いよく流れていく。
 ニペルナーティは喜びの声をあげようとして、ギョッとして押し黙る。滝の岩壁のごく低いところが割れただけだった。よくてマーラから溢れた水が、少し掃けるくらいだろう。滝から落ちてくる水は流れださなかった。その場にとどまり、ブクブクと泡をたて、滝の下に大きな水場をつくっている。壁の開いたところから、水はクープの干し草畑へと流れはじめた。

 ニペルナーティはヨーナのところに行ってこう言う。「さあ、行くんだ」
 「ここを離れる?」とヨーナが訊く。
 「ここを離れる、家に帰る」 ニペルナーティが答える。
 「もうやることはない。見るべきものはもう見た」
 「で、マーラは水が掃けるのか?」とヨーナ。
 「そうだ」 ニペルナーティはしぶしぶ答える。
 「それならそれが見たい」 ヨーナは急に興味が湧く。ニペルナーティの顔が曇る。
 「何であれ、もう見るものなんかない。水は水に過ぎない、それだけのこと。もうわたしは充分見た。想像するほど面白いもんじゃない」 ニペルナーティは苛立たしげに言う。

 ところが二人が家に向かおうとすると、居酒屋の方から騒ぐ声が聞こえてきた。
 ニペルナーティはヨーナの隣りにかがんで、岩陰からそっちを見た。
 ヤイラスが先頭にいて、アン・マリがその隣りに、そしてクープが、その後をたくさんの人々がこっちに向かってやってきた。村じゅうの者が徒党を組んでやってくる。男たちは手に銃や斧、大鎌をもち、女たちは熊手や草刈り鎌、火かき棒を手にしている。叫び声をあげながら、手にした武器を振りかざし、黒々とした雷雲みたいにして近づいてきた。

 「いったい何の騒ぎだ?」 ニペルナーティは驚き戸惑う。「みんなで狩りでもするのか、集団で。沼地でオオカミかクマでも見たんだろうか」
 ヨーナも顔をあげて、そっちを見た。
 「ああ、神様!」 ヨーナは恐怖の声をあげた。「もう終わりだ、オレの人生も。オレらはもう終わりだ、あいつらが攻めてきてオレらやっつけられる。あいつらが探してるのはオレらだ。オレたちを追っかけてる、水捌け人をな」
 「来いよ」 ニペルナーティがさとした。「怒ってるわけじゃないだろ、このちっぽけな冗談に」
 しかし声はだんだん近づいてくる。「あのクソッタレ水捌け人はどこだ。あの爆弾ヤロウはどこにいる。あいつらにどうやって沼の水を掃けさせるか、土地を耕すのか、教えてやろう。あいつらを粉々してやるぞ。踏み潰して粉砕する」
 「森だ、森に行くんだ、早く」 ニペルナーティが言った。

 そして腹の上をのたくるヘビみたいに、岩の間をくねくねと通りぬけて森に向かった。そして足をとめ、耳を澄ませた。
 群衆は滝のところまで走っていって、立ち止まり、口をつぐんだ。が、それも一瞬のこと、さらなる大声をあげはじめた。みんな正気をなくしたみたいな様子だった。
 「俺の干し草畑は、みごとな干し草畑はどうなった!」 クープが絶望の声を上げた。「みんな水の底だ。水の底深いところに沈んだ。毎年毎年、この岩壁を積み上げてきた。石に石を重ねて、それで沼の溢れた水が干し草畑まで流れてくることはなかった。あの頭のおかしい男が、俺がつくった岩壁を壊しやがった。天罰だ、疫病だ、ああ、ナザレーのしょうもない息子よ。あのならず者はどこにいる。俺の怒りをどこにぶつければいい」

 「あいつらを粉々にしてやる、踏み潰して粉砕する」 ヤイラスが大声をあげて銃を振りまわした。「あの悪魔ヤロウはどこだ、どこに隠れていやがる」
 アン・マリがヤイラスのまわりをウキウキして飛びはねている。
 「ねぇ、聞いた?」 アン・マリは幸せいっぱい。「ヤイラスが悪魔って言った。聞いた? ヤイラスが粉々にするって言った。あー、あたしのヤイラスがまたいい男になって帰ってきた。もう病気じゃない。みんな見た? 最初の爆発音を聞いたとき、ヤイラスは聖書を放り投げて、銃を手にとった。ヤイラスが一番にここに着いた。もうヤイラスは前のヤイラスとは違う。この人は刑務所暮らしで簡単にダメになったりしないんだ」
 アン・マリはヤイラスに色っぽい目を向け、大事な仲間兵士を見るみたいにして立っていた。「俺の干し草畑、俺の大事な干し草畑が」 クープがうなり声をあげた。
 「沼と森を封鎖するんだ、急げ!」 ヤイラスが人々に命令した。「あいつらを捕まえねば」

 「ヨーナ」 ニペルナーティが決心したように言った。「わたしたちはここから消えねばならない」
 「どこへ?」 ヨーナが震えながら訊く。
 「遠くだ、この忌まわしいマーラから遠く離れたへだ」 ニペルナーティが不機嫌な声で答えた。そして二人は振り返ることなく、走り去っていった。

*第4話「白夜」、終わりまで読んでいただき、ありがとうございました。この続き第5話「テリゲステの1日」は3月14日(火)より連載を予定しています。

'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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