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[エストニアの小説] 第4話 #9 一人語り(全15回・火金更新)

前回 #8 カタツムリ
 「ここの者はみんな冬眠中のクマみたいだ。眠ってるかうなってるかだ。誰一人、コトを起こそうとしない、偉大な、不可能なことを成し遂げようとしない。貝殻の中のカタツムリみたいだ、そこから出てこれないんだ。そしてヨーナ、きみもカタツムリの1匹だ、すごくちっちゃい、ミジンみたいにちっちゃい。だからわたしには見えないくらいだ。いくら探してもね。きみをこの目で見る方法はない。多分、顕微鏡の下に置けば、見えるようになるんだろうな」
 そしてニペルナーティはそれ以上、心を落ち着けることが叶わず、小屋から走り出ていった。ドアをピシャリと閉めて。

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 それは夜のことだった。ニペルナーティはしばらくじっと立って、額の汗をぬぐい、考えはじめた。そして渡し舟で川を渡った。居酒屋のまわりを長いこと歩きまわり、裏のドアをあけて足を踏み入れた。
 「アン・マリ」 ニペルナーティは小さな声でささやいた。盗っ人じゃないよ、わたしだ。そこで静かに眠っていて。わたしはきみを傷つけようなんて思ってない。ちょっと来ただけだ。足の裏が燃えるようで、どこにいても心を沈められないんだ。きみが片方の耳で聞いてくれるだけでいい、あとは眠ってていいから。きみは怒ってなんかいない、そうだよね?」
 藁のところからカサコソ音が聞こえてきた。
 「実際のところ」 ニペルナーティは嬉しくなった。「きみはそこにいる、きみの肌の暖かさを感じるよ、離れていてもきみの柔らかな手を感じる。きみは芝の下にいるモグラみたいだ、暗闇の中で目が輝いている。そうだ、アン・マリ、わたしがこの腕にきみを抱きとめるときがやってきた。きみの笑い声、楽しげな声がどこででも聞こえるようになる。いいかい、逃げ道はない、きみをスズキみたいに捕まえた。えらをバタバタさせて何の意味がある? 降伏してほしい、寛大な創造主をたたえて、自分の運命に満足するんだ」
 「だけど今日、わたしは悲しい。秋が来て南に飛んでいく白鳥みたいな気分だ。木々はもうブロンズに紅葉していて、薮の木は赤紫の木肌をさらし、その枝は空にむかって突き出たほうきみたいだ。草原も道もみんな、虎の毛皮みたいに落ち葉におおわれてまだらだ。ナナカマドだけが赤い実の房をつけて、緑色のトウヒとマツの枝が秋の歌に陰気に揺れている。そして牧草地、牧草地は濃い茶色だ、茶色とグレーに染まってる。初雪の白い色が斜面や谷間に見えている。わたしは空を飛ぶ、そして感じる、すべては過去のこと、もう再びこの森を見ることはないだろう、この牧草地を、この沼地を。これは最後の飛行だ、最後のさよならだ。そして向こうの方、南に行けば、わたしの立派な翼は崩れ落ち、わたしの白い首は切られたみたいにガックリ垂れ下がる。死が近づいている予感の中で、最後のひと目と眼下に目をやる。できることなら夏から夏へと力強く飛びまわった、すべての場所を引き連れていきたい。白鳥の歌を聞いたことがあるかな? ただの鳴き声だ、ゾッとするような、奇妙な、おかしな声だ。残された力や人生の喜びが、草原に投げ出されたみたいな、年老いた恋人を思い返すみたいな声だ。

 「そして納屋や小屋から冷たい秋の空気にむけて、灰色の煙がもくもくと上がっている。犬が吠えたて、キャラバンが道をゆき、川や湖はすでに氷の蓋を乗せているが、すべてわたしからは遠い遠いところにある。わたしには見える、でも心は冷たく沈黙している。このすべてはわたしに何を訴えようとしているのだろうか? 何も道をともにするものはない、自分の墓にもっていけるのはわたしのこの身だけだ」
 「夏の真っ盛りに、どうして秋のことを考えねばならない、滅んでいくことを」
 「あー、アン・マリ、この夏が最後の旅になる、わたしにとっての最後の別れになるかもしれない、それを誰が知ろう。しかしその後に来るものは違うもの、かなり違うものだろう」

 「この白夜は、わたしたちを悲しく、不安な気持ちにさせる。優しい言葉だけを口にしたい、しかしわたしのくちびるは、腐った肉の臭いがする。このような白夜の日々に、わたしたちの魂は殻を出て、そわそわと辺りをうろつく。どの道を、通りを、魂が孤独にさまよっているか、神は知っている。どの沼や森で、魂がグラバーやシダや魔法使いと親しくなるか、霊とともにいるのはどんな集団か。よその土地にだって、見知らぬ場所へだって魂は行くかもしれない。わたしたちの心が届かない場所を旅するのかもしれない。これが、わたしたち北の人間が新たな土地を、世界を、切望する理由ではないのか。本当の故郷のように、永遠の住処と感じられる場所を見つけられない理由ではないのか。父方の故郷でさえ、ジプシーのための木陰のようだ。少しの間、いることはできても、永遠にではない。太陽が登ればのぼるほど、わたしたちは不安になる。わたしたちは巣の中にこもる鳥だ、目を赤くさせ、恐ろしい叫び声で口を充満させる鳥だ。だからこの白夜は苦痛と、不安と、悲しみの夜となる。わたしたちの魂はわたしたち自身から遠く離れたところにある。魂はひとり、あちこちの道を、通りをさまよっている。しかし殻は心配している、魂が戻ってくることを望んでいる。殻は木の根っこみたいに地面に固定されているから、不安なのだ。白夜というのはこのようなものなんだ」
 「たぶん、わたしがこんなに不安になっているのもそのせいだ」

 「今晩、わたしはちょっとした優しい言葉をかけに、そしてきみの静かな吐息をききに、ここにやって来た、そうなんだ。礼儀正しい人間はそんな風に考えはしないかな。そのことに何か悪いことはあるだろうか。でも見てごらん、この近くで、居酒屋の主人クープは眠っているだろうね。クープは目を覚まして、人の声を聞きつけ、盗っ人か、アン・マリを誘惑しにきたやつかと考えて、棒を手に、わたしをぶったたいて殺し、新聞にはやり合ってる間に、名だたる盗っ人である犯罪人が殺されたと書かれる。わたしに運がなければ、そういうことになる。しかしもし運がわたしの側にあれば、話はまったく違ったものになる。たとえば、わたしがここに座って、気分よく話をしている、あたりに警戒することもなくね。ところがわたしは物音を耳にする、ドアが開いて、薄汚れた男が入ってきて、アン・マリのところに素早く近寄る。こいつはクープだとわかる。わたしはアン・マリを愛しているので、そして彼女は世界で一番大事な人なので、クープのところにひとっ飛びでいって、その首をひねる。その後4、5日して、彼を殺したことで政府からわたしは表彰される。わたしに運があったときにはこうなる」
 「あー、アン・マリ、今話してることは全部ちょっとした小話で、もっと素敵な会話のための入り口なんだ。今日、わたしは完全に手に負えない状態で、頭は壊れたザルだ、何一つ頭にとどめておくことができない」
 「マーラの水捌けを終えるまで、素敵な家をきみのために建てるまで、そしてきみがわたしの方に走ってきてにっこり笑って腕をひろげるまで、ちゃんとした話をすることはできないと思うよ。そうなったらきみをわたしの腕の中に受けとめて、ちゃんとした話ができる。きみがこんなにも遠くにいる間は、意味あることを話すのはとても難しい。それにわたしはきみがどこにいて、どんな格好で眠っているかさえわからないんだ。壁にむかって話をしてるみたいな気分だ。以前に、納屋の前で話をしてたときみたいにね」
 「でも今は、ちょっとだけ、きみをみたいな」
 「急がなくては、急いでやるべきことがたくさんある。ヨーナは今日、町に送られる、ドリルと火薬筒を手に入れるためだ。沼地はさらに計測する必要があるし、調査もしなくては。渡し舟も動かさなくては」

 ニペルナーティはため息をついて顔をあげた。
 夜明けの光が入り口のすき間や窓から漏れている。
 ニペルナーティはまわりを見た。
 「アン・マリ!」 突然恐怖におそわれて声をあげた。「アン・マリ、どこにいるんだ?」
 飛び上がると、目を凝らした。
 そこの隅では、牛が、羊が、フェンスの中で口をもぐもぐ反すうさせていた。互いの尻に頭をつけ、身を寄せ合って立っていた。ニワトリが枝から飛び降りて、コッコッと鳴いている。反対側の隅では馬が1頭、立っている。
 「アン・マリ!」 ニペルナーティが呼んだ。「それともここにはいないのかな? ここにずっといなかったのかい? またわたしは、羊や牛にむかって、美しい言葉を駆使していたのか? こいつらは静かに笑って聞いている、ひとことも返さずに。なんて悲しいことだ! わたしの言うことを聞いて、理解してくれる人はどこにいる。わたしの最高の言葉を、灰みたいに投げ捨てた!」 ニペルナーティは飛び上がり、呪いの言葉を吐いた。

 クープは居酒屋の戸口に立っていた。顔をのぼる太陽の方にむけ、パイプの音をたて、咳をした。
 ひとっ飛びで、ニペルナーティはそのそばに立った。
 「アン・マリはどこだ?」 不機嫌な声で訊いた。
 クープは口からパイプを離し、笑みを浮かべた。
 「アン・マリはどこだって?」 そうゆっくりと返した。「おそらく納屋で眠ってるさ。あの子を呼ぼうか?」
 「だけど納屋には空のビール瓶の入れ物があるだけだ、そうあんたは言っただろう。アン・マリは向こうで眠ってるって、馬のそばで。そう言わなかったかい?」
 「女のやることだ」とクープ。「こっちかと思えばあっちだ」
 「あんた、あんたは悪魔の角笛吹きだ!」 ニペルナーティが真っ赤になって怒りだした。「あんたは魔法使いだ、魔法をつかって、わたしからアン・マリを遠ざけている。わたしのいないところに行かせてるんだ!」
 ニペルナーティはののしりながら、渡し舟の方へと走っていった。
 クープはそのあとを目で追いながらつぶやいた。「沼さらいじゃない、仕立て屋でもない、あいつは頭がおかしい。ここの警官はこう言われるはずだ。あいつには前科を記した書類があるだろうとな」

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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