見出し画像

[エストニアの小説] 第4話 #8 カタツムリ(全15回・火金更新)

前回 #7 沼さらい
 あー、あいつがここに来てなかったなら! 元いた場所にいてくれたら。なんであいつみたいなのが、このあたりを歩きまわり、湿地の水捌けをしたがったり、渡し舟を出したり、奇妙な話をしたりしてるのか。アン・マリについて、彼女の子どものこと、アン・マリの農場の話、無宿者のヨーナについてペラペラと。
 そしてヨーナは悲しげにため息をつく。

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 ニペルナーティはといえば、たくさんやることがあり、1日中、忙しそうに沼を計測したり、滝を調査したり、渡し舟を引いたりしていた。こういったことの中で一番問題なのは、言うことをきかないヨーナだった。ヨーナは町に行こうとしない。ニペルナーティの言い分を聞き、耳を貸し、でも行こうとしない。どうして、ニペルナーティは自分でドリルと火薬筒を買いに、町まで行こうとしない。この男にはすることがいっぱいあるからだ。アン・マリに朝、おはようを言う時間もずっとなかった。クープでさえそう、遠くからニペルナーティの姿を見かけるだけ。
 しかしときに、重要な仕事を忘れたみたいに、ニペルナーティは森に走っていって、木の下に寝ころがり、長いことそこでじっとしている。

 毎日暑い日がつづいて、空に雲は現れない。真昼の太陽が沼地の上や牧草地を照りつけている。そしてクモのように、木や茂みの下にぎっしり光のネットを編み込む。風が吹いて枝や葉っぱを揺らせば、この光の布は突然生き返り、広がり、交わり、輝き、どこもかしこもが息を吹き返し、風が衰えれば、また1枚の網の布となる。そして千の虫が、千の這い回る甲虫が、千のちょこまかした虫が、葉という葉の裏を、松葉を、苔の上を這いまわる。トウヒはバラのように赤い球果にびっしりおおわれ、若い球果は黄色い樹脂の涙を落とす。空色のスイカズラは花咲き、青々したシダが木々の影、水溜りのそばで密集して生えている。そして明るい水色の空が、高い木の頂の上で輝いている。

 夕方になると雲が出てきて、雨や雷を予感させるように明るく照り輝き、素早く空を覆った。しかし雲は朝までになくなり、太陽はまた明るい青空に昇ってくる。
 暑く静かな日で、犬でさえ吠えたてることがない。日陰に入り込み、そこで丸くなっている。雄鶏も鳴かない。じゃがいも畑の畝の間で、くちばしを開けてあえいでいる。ゴロゴロいう車輪の音さえ、土ぼこりに飲まれて音を消す。
 人々は日焼けで顔を黒くし、疲れてはて、口をきかず、むっつりしている。
 ニペルナーティが森にいると、ヨーナは不安になる。いくつかの荷が船つき場にとどき、川を渡るのを待っている。ヨーナは走り出し、声をかける。「トーマス、おーい、トーマス」
 ヨーナは耳を澄ます。向こう岸に向かい、また叫ぶ。「トーマス、聞こえるか、渡し舟を頼む!」
 向こう岸にいる男たちが呪いの言葉をかける。
 「おれたちを渡してくれないのか?」 男たちがヤジを飛ばす。「それともこいつは渡し舟でもうけて金持ちになって、見習いを雇ったってわけか? おい、ヨーナ!」
 しかしヨーナは行こうとしない。
 「あー、愛する神よ、カナンの不運な土地よ! あのケモノはどこ行った?」 ヨーナは文句たらたら。「あいつがすべて引き受けるなら、森や沼地をうろうろしてないで、もっと真面目にやるべきだ」
 ヨーナが渡し舟に乗るまで、長い時間があった。

 ところがニペルナーティはもっと遅くに戻ってきた。ニペルナーティは猟犬のように凍りついている。この男は大鎌の刃を研ぐ音を聞いた。
 耳にしたあと、音の方へと急いだ。クープが居酒屋の庭に立って、大鎌を研いでいた。
 「もう?」 ニペルナーティが訊いた。
 「もう、そうだ」 クープがゆっくりと答えた。片目をつぶり、それを持ち上げ、眺め、検証し、それから親指を光る刃に沿って走らせた。「そうだ」 クープは重々しく言った。「もう時間はあまりない、すぐに干し草作りのときがやってくる。あと4、5日のうちに、始まるだろうな。アン・マリもそう思うはずだ」
 「ふん、あんたはそれほど刈るものがないだろう」と不満げなニペルナーティ。「二つ三つなら手でも刈れるだろう。大鎌でやるなんて、恥だ。いいかい、わたしが沼の水をさらえば、大量の干し草が育って、山ほどの仕事ができる」
 クープは答えなかった。アン・マリを呼んで、居酒屋の鍵をすると、二人はクープの干し草畑を見に出かけた。それは滝の下にあった。クープが前を歩き、その後をアン・マリがついていった。
 「いや違う、一つ確かなことがある」 ニペルナーティが声をあげた。「この男をわたしは沼か川に沈めなくては! こんな虫野郎が立ちふさがっていたら、生きる道はない!」
 そしてニペルナーティは腹をたてて家に戻った。

 「ヨーナ!」 家に飛び込むと声をあげた。「若くてイケている若者二人が、あのジジイがアン・マリを手玉にとっているのを見てるなんて、どういうことだ? あいつのやることに素直に従って、まるで従順な妻みたいだ。こんなことはすぐにでも終わらせなくては。わたしのような親切心のある者は、アン・マリが来る日も来る日も、幸せな時間ひとつ持てず、耐えて暮らしてるのを見てはいられない」
 「あいつが耐えてるとは思えないけど」とヨーナが疑問を呈した。
 「じゃあ、アン・マリは耐えてないっていうのか?」 ニペルナーティが耐えがたいというように叫んだ。「あんなゴロツキと一つ屋根のもとで暮らすことが、いいとでも思ってんのか? あのゴロツキは何者でもない、曲がった足で、いじきたなく歩いてるだけだ。あー、ヨーナ、町に行ってこい!」
 ニペルナーティは席につくと、イライラと指でテーブルを叩きはじめた。

 「きみはどうしようもない男だ、ヨーナ」 ふてくされてニペルナーティ。「きみが静かにしていられるのがわからない。きみはどこにも行こうとしない、何もしない。巣の中で麻痺してるみたいだ。もう歌だってうたえまい、ヨーナ。どうして歌をわたしに歌ってくれない?」 ヨーナはにっこりして、ハミングをはじめた。
 ニペルナーティは耳を傾け、首をかしげ、頭を振った。
 「いいや、ヨーナ」 ニペルナーティはイラついて言った。「それでわたしを楽しませることはできない。きみの声が素晴らしいのは確かだ。きみが死んだあと、天国で神様のコーラスでソリストになれる。でも、わたしは自分が歌い手であるときだけ、歌うのが好きだ。それ以外のときは、一番嫌なことになる。歌うのをやめたらどうだ、リュックサックを背に、町になぜ出かけていかない。どうしてそうしないんだ、ヨーナ」

 ヨーナが悲しげにため息をついた。
 「沼の水捌けを少し、遅らせることはできないのかな?」 ヨーナがおどおどと訊いた。「穴あけ作業を後にまわして、来年の春とか、少なくとも今年の秋くらいまで。それまでに、誰か手伝ってくれる人を見つけられるだろうし、オレももう少し時間ができるから。作業は逃げはしない、あー、いや、そんなことは今まで起きたためしがないからな。しなければならないこと、人はそこから逃れられない。なのに、なぜそんなに急ぐ?」
 ニペルナーティが飛び上がった。
 「頭がおかしいのかい?」 びっくりしたように言った。「この手の仕事をあとにまわすって?」
 ニペルナーティはヨーナのすぐ近くに迫った。
 「いいかい」 ニペルナーティはさも重要だという態度で告げた。「この仕事はわたしの生涯一の仕事になるかもしれない。ここまでやってきたことのすべてが無駄になったとしても、これは永遠に残るものだ。そしてこうも思う。未来のいつか、100年、200年先に、この沼地はマーラではなくて、トーマス・ニペルナーティと呼ばれるようになる。ちょっと想像してみてごらん。トーマス・ニペルナーティの干し草畑、トーマス・ニペルナーティ橋、トーマス・ニペルナーティの滝。そのときわたしはすでに墓の中で、にっこり笑って、こうつぶやく。うん、名前をつけること、それに反対はしないよ。それにきみの名前、ヨーナもだ、もしわたしの良き手助けになってくれるなら、有名になるんだ。ちょっとした森とか丘に、きみの名前がつくだろう。実際のところ、おかしなことはない、もしそれが起きるならね、わたしは固く信じてるよ。そしてそうであれば、秋になるまで、仕事を残しておいてもいい」

 彼は部屋の中を2周、3周した。
 「だけどクープはなんて言うかな」 ヨーナが反対した。「マーラの水捌けをすることに賛成するかな? クープの干し草畑は滝の真下にある、そこに水をぶちまけることになる。クープは警察を呼ぶかもしれない」
 「クープはなんとかする」 ニペルナーティが腹をたてて叫んだ。「あいつの首をへし折って、沼で溺れさせることくらい簡単だ。それに警察を呼んで、わたしたちを脅すことはできない。そこには、わたしの友だちがいっぱいいるんだ。なんて運の悪いところに、わたしは引きずり込まれているんだ」 そして身振り手振りをとりまぜて、大声をあげた。ニペルナーティはイライラして、太い眉をしかめ、目をギラつかせた。

 「ここの者はみんな冬眠中のクマみたいだ。眠ってるかうなってるかだ。誰一人、コトを起こそうとしない、偉大な、不可能なことを成し遂げようとしない。貝殻の中のカタツムリみたいだ、そこから出てこれないんだ。そしてヨーナ、きみもカタツムリの1匹だ、すごくちっちゃい、ミジンみたいにちっちゃい。だからわたしには見えないくらいだ。いくら探してもね。きみをこの目で見る方法はない。多分、顕微鏡の下に置けば、見えるようになるんだろうな」
 そしてニペルナーティはそれ以上、心を落ち着けることが叶わず、小屋から走り出ていった。ドアをピシャリと閉めて。

#9を読む

'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?