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[エストニアの小説] 第3話 #9 契約書 (全10回・火金更新)

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 次の朝、ニペルナーティと農場の主人は牧師館へと向かった。そこで何をしたのか、誰も知らなかった。二人は慣れた調子で馬車に飛び乗ると、ゴロゴロと音をたてて道に出ていった。
 ニペルナーティは主人に、川をさらう費用を持つと説明した。その見返りに、河口の砂洲の1エーカーが欲しいと。
 「古き良き時代が帰ってくるのにそれほど時間はかかりませんよ」 ニペルナーティはそう説明した。「どれくらいの間、人は他人のために奴隷みたいに働けるんでしょうね。わたしは漁師を職としています。爺さんになったら、砂地の岬に小さな小屋を建てますよ。神様がわたしに富と力を与えてくれますよう。船を手に入れて、それから魚を獲る網もね。そうしたら何も心配することなく、ここで暮らせますよ」
 農場の主人の方も同じことを考えていて、二人は仮契約のために牧師館へと向かっていた。
 同時にニペルナーティは、大工、建築技術者、発掘作業員など大量の働き手を求める広告を新聞にうっていた。応募者に農場宛てに書類を送るよう要請した。
 家に戻るとニペルナーティは興奮気味にエロの部屋に入っていき、仮契約書を見せた。
 「ほらこれを見てごらん。君の父さんは50年間、わたしに河口の土地を貸してくれた。川の財宝を発掘するのに充分な時間だと思うかな?」
 エロは自分の目が信じられなかった。長いことその契約書を吟味していた。ニペルナーティは本当のことを言っていた、そうでなければこの契約書は何のためにあるのか。
 2、3日のうちに、ニペルナーティ宛ての職を求める郵便がたくさん舞い込んできたので、農場の人々は驚きを隠せなかった。
 「あのニペルナーティとは何者なのか、神のみぞ知るだな」 農場主は得体が知れないといった風に妻に告げた。「あいつは農夫でも漁師でもない、それは確かだ」
 しかしニペルナーティ本人は、これについて何かを尋ねられると、抜け目ない態度で、しぶしぶこう言った。「あー、わたしには友人がたくさんいるんだが、どうやってあいつらがここの住所を嗅ぎつけたのやら」
 ニペルナーティはエロにだけ、その手紙を見せた。技術者、親方、労働者たちが仕事の手助けを申し出たり、働き手を提供しようとしていた。
 「この人たちはすぐにここにやって来るだろうな」とニペルナーティは自慢げに話した。「もう全員に返事を書いたんだ。全能の神よ、この人たちがいっぺんにやって来たら、なんて素晴らしく頼もしいことか。準備を進めないといけないな。まず岬に仮の小屋を建てる必要がある。そうでないと腹の減ったイナゴの群れを住まわせる場所がない。そいつらは畑を荒らし、森にも手をかけるだろう。冗談では済まされない」
 そして実際に、ニペルナーティは木こりたちに材木の値段を訊き、町に住む御者と日当について話をし、朝から晩まであちこち走りまわり、農場に姿を見せなかった。ほんの一瞬、家に戻ると、素早く新たな手紙を読み、すぐにまた出ていった。

 この2、3日、エロに大きな変化が見られた。ニペルナーティが家に戻ると、いつも入り口で待ち構えており、嬉しそうに走り寄った。
 「約束した宮殿はいつ建ててくれるの?」 エロは目を輝かせ、冗談めかして尋ねた。
 「すぐだよ、すぐ」 ニペルナーティは笑った。「こういうことは一晩では終わらない。いいかい、わたしがどんだけ走りまわらなければならないか、見てごらん。アシスタントが見つからないかぎり、わたし一人でやることになる」
 「でもわたしの結婚式はもうすぐなのよ」 エロはそう言うと。大きな目を曇らせた。
 「そうだな!」 ニペルナーティはがくぜんとして声を高めた。「そのことをちゃんと話さなくてはね、そうだろう?」
 しかし日はどんどん過ぎていき、エロは不安になった。エロは待った、が、ニペルナーティは何も言わなかった。ニペルナーティはいつもどこか行くところがあった、するべきことがあった、大量の手紙がさらに増えた。農場の人たちは、ニペルナーティの姿を見なくなった。あるときは農場主が、あるときはその妻が、またあるときは二人揃って町まで行き、そしてまたそれぞれが出掛けていった。大きな祭りでもあるのかというくらい、町からは大きな荷が、様々な物品が次々に届いた。
 エロはこの騒ぎにいっさい手を貸さなかった。一人悲しげに暗い表情で、ときに目を赤くして歩きまわった。頭が痛いと不満を言い、怒りっぽくなり、牧師のところへも行きたがらなくなった。ニペルナーティが帰って来たときだけ、エロは楽しく過ごそうとした。笑い声をたて、楽しそうにし、ニペルナーティを艶かしい目つきで見た。ところがニペルナーティの方はむっつりと黙り込み、ため息さえついて、目をあげようともしなかった。
 「なんでそんなに悲しそうなの?」 エロが尋ねた。
 「やるべきことが多すぎる、心配事も多すぎる」 ニペルナーティは嘆いた。「この財宝はわたしの年を奪っていく。この試練はとても耐えがたいものだ」
 「あー、どうして君は、わたしが膝をついて頼んだときに受けてくれなかったんだ? その重みで息が詰まりそうだ」 絶望の声をニペルナーティはあげた。

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'Pearl Diver' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)


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