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[エストニアの小説] 第3話 #10 結婚式 (最終回)

#9を読む

 それはまだ夕闇が迫る前、空には雲がかかり、木々がサラサラ音をたてていた。結婚式の前の日だった。二人は川の土手に腰かけていた。ニペルナーティは上の空で、小石を川に投げ込んでいた。エロはその指先が震えているのに気づいた。
 「覚えているかしら、あそこでわたしに言ったことを」 エロは岬の方を指さして、恥ずかしそうに尋ねた。
 ニペルナーティはうなずいて、こう答えた。
 「忘れられるわけがない!」
 「そのときあなたはわたしにあることを尋ねた。でもわたしは断った。どうしてそんな風にしたのか、わからない」
 エロは長いこと口をつぐんでいた。それから言葉をつづけた。「ニペルナーティ、なんて奇妙な名前なの。でもあなたはそれ以上に奇妙な人よ。でも、わたしは違う答えをすべきだった。明日があそこの人とわたしの結婚式だと考えると…..」 エロは今度は教会の方を指さした。「なんとか逃げ出したい。ニペルナーティ、わたしと一緒に逃げてくれる? あなたのことはよく知らない、あなたの財宝の話が本当なのかだってよくわからない。でもそれは重要じゃないの。もしあなたがそうしたければ、あなたの言う金なしで、生きていくことだってできる。あなたが納屋の前にすわって、トゥララに森に住むことはできるって言ってるのを聞いたことがあるの。誰にでもそれを言ってるの? わたしはあなたと二人で、森の中に住んでいる絵を描いてみた、猛吹雪の中、雪に閉じ込められて。ああ、神さま、わたしは何を言ってるの。すべてがナンセンスなこと、あなたはわたしのことを笑ってるんでしょう? 今までずっと、来る日も来る日も、わたしはあなたを待っていた。あなたは帰ってきても何も言わない。あの男がわたしを抱きしめるとき、どれだけ嫌な思いをしてるか、あなたが知っていれば」
 エロはニペルナーティの腕の中に倒れ込んだ。
 ニペルナーティはエロを熱く抱きしめ、うわ言のように何か言いながらキスをし、涙さえ流した。

 「あなたが誰なのか、どこから来たのか知らない」 エロがささやくように言った。「あなたの話すことはみんなすごく変で、信じていいものかわからない。でもあなたの燃えるような眼差しから逃れることはできないし、あなたの言葉はわたしの中でずっとこだましてる。でもわたしは、あの人と結婚することになってる!」
 「ダメだ、ダメだ」 ニペルナーティは声をあげた。「そういうことにはしない、絶対に。明日の朝早く、わたしたちはここから逃げる。結婚式の客が到着するときには、もう遠いところに行ってる。でも財宝が、君も知ってるとおもうけど、わたしには兄さん(あいつも背がすごく高い)がいる。兄さんをここに呼んで、わたしたちが逃亡してる間、仕事の監視をしてもらう。兄さんはとても分別のあるやつで、ぜったい裏切ることはない。それに兄さんは採れた金を船で送ってくれるだろう。そうすればどこで暮らしてても、心配は何もない」
 「わたしたちに金がいるとは思わない」とエロ。
 「それは違う、違うよ」 ニペルナーティは父親のような口振りで反対した。「幸運を葬ってはいけない。いいかい、可愛い人、君はわたしの腕の中だ、年長のニペルナーティの腕の中にいるんだ。君は牧師のもとを、母親、父親、この森や畑や草原とも別れようとしている、このわたしのために、そうだろう?」
 「そうよ」 エロが小さな声で言った。
 「それに君はわたしを求めている」 ニペルナーティは強い調子で言った。「わたしをね、他に誰がいる? さらには君はわたしに金がなくとも、真珠がただの夢物語だったとしても、わたしといたい、そうだろ?」 
 「そうよ、その通り」 エロは熱意を込めてそう答えた。
 するとニペルナーティはもうじっとしていられなくなった。エロを手放すと、子どものようにその辺を飛び跳ねてまわった。それからまたエロを引き寄せて、幸せいっぱいで有頂天になった。
 「いいかい、明日の朝、早くだ!」 歌でもうたうようにそう告げた。「明日の朝早くに、君の部屋の窓をノックする。そしてここから、ずっとずっと遠くへと二人で逃げるんだ。だけどわたしの兄さんをここに送り込まなくてはならない。兄さんは真珠採りの連中を引き受けてくれるだろう」
 子どものように幸せいっぱいで、夢と希望に満たされて、二人は真夜中になって家に戻った。

 ニペルナーティは眠れなかった。不安げに敷地の中を歩きまわり、ため息をついた。その額には耕されたばかりの畝(うね)のように、深いしわが刻まれていた。そして行ったり来たりを繰り返した。それから岩の上にすわった。が、すぐにハッとして立ち上がった。また行ったり来たりが始まった。
 「ニペルナーティ、愛しいニペルナーティ」 ささやくような声が納屋の戸口から聞こえてきた。
 ニペルナーティはそちらを見た。白いシャツを着たトゥララが立っていた。
 「わたしに答えてと言ったでしょ」とトゥララ。「いま、わたしは答えます。ニペルナーティ、あなたの行くところどこへでも、一緒に行きます!」
 「ほんとうなの、トゥララ」 ニペルナーティは嬉しそうな声をあげた。「わたしの行きたいところどこへでも? 嬉しいよ、可愛いひと、君は素晴らしい、とてもとても素晴らしい。いまはベッドに戻って、トゥララ。明日になったら、ゆっくり話そう」
 「わかった、ニペルナーティ」 トゥララは従順にそう言うと、納屋の中に入った。
 ニペルナーティは長いこと、その場に立ち尽くしていた。すると空の端が明るくなっているのに気づいて、たじろいだ。盗っ人のように足音をたてずに家に入り、置いてあったツィターを手にとり外に出た。エロの部屋の窓の下を息をつめ、腰をかがめて通り過ぎ、敷地を通り抜けて、丘を登っていった。道に出ると、ホッと一息ついた。

 結婚式の最初の招待客が到着したとき、ニペルナーティは遥か遠いところにいた。
 カササギにようにピョコピョコと飛んだり跳ねたりして前に進み、長い腕を風にはためく旗のようにパタパタさせた。大きくてブカブカのアコーディオンみたいな革長靴を履いて歩いていった。

*第3話、終わりまで読んでいただき、ありがとうございました。この続き第4話「白夜」は12月13日(火)より連載を予定しています。

Pearl Diver' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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