葉っぱの坑夫
悪人vs.善人。世界の2分に茶々をいれる、逆転の発想とフィクション
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悪人vs.善人。世界の2分に茶々をいれる、逆転の発想とフィクション

葉っぱの坑夫

人間には悪人という種と善人という種があって、それは明確に分類されているのでしょうか。悪人は100%悪であり、善人は100%善であるといった。

ヒーローものの映画やドラマでは、昔から正義の味方というのはおそらく100%善人だったんじゃないかと。このジャンルあまり詳しくはないのですが、スパイダーマンとかスーパーマンとか水戸黄門は正義の味方であり、善人でしょう? 社会的には善人なんだけど、家庭ではときどきDVをしていたり、家父長制そのまんまの思想の持ち主だったり、重箱の隅をつつくようなクレイマーだったりとか、そういう人格の持ち主ではないですよね。

それはどうしてなんだろう、と。勧善懲悪という言葉があるけれど、たいていのヒーローものの主人公には、悪の部分やグレーなところはほとんど含まれていないのでは? 21世紀のいまも、それが通ってるというのは不思議な気もします。(最近の例外:記事下の注釈1を参照)

ただフィクションの外、つまり現実の世界を見た場合、政治的な観点から見て善と悪は存在する、悪者と善き者(正義)ははっきり分かれている、とされることは案外多いようにも思います。北朝鮮やイラン、イラク、ロシア、中国などは、日本を含む欧米社会の中ではおおよそ悪の役割を担ってきました。今回のウクライナの紛争でも、すぐに目に見える形でそれが表現されて驚かされました。

イングランドのプレミアリーグのサッカー場は、一時期、黄色と青のウクライナの国旗でスタンドが埋まり、ウクライナ人が含まれるチームは出場選手全員が国旗をまとって入場したり、ウクライナ応援・支持の特製ユニフォームを着て出てきたり、画面表示ではプレミアリーグのロゴの脇にウクライナの国旗が表示されたりと、いっきに全面応援の姿勢になりました。個々の選手やクラブチームを超えて、FA(イングランドサッカー協会)の意志もそこにはあったということです。この素早い対応、動向には驚きました。

と同時に、欧米社会を中心とする世界が、何をどう見ているかがはっきりとわかり、ああ、コトが起これば世界は簡単に二分するんだなと感じました。

ここにはどの立場から見てなのか、という視点は隠れています。

いま書いているこの文章は中国語でも、ベンガル語でも、ポルトガル語でもなく日本語なので、日本語の属している世界から見て、ということになると、おおざっぱに言えば欧米社会とともに歩く先進国としての日本の視点、戦後70年以上変わらずアメリカの傘下にいる日本の見方ということになります。

わたし自身のいまの見方でいうと世界の枠組みとして、G7よりG20、NATOやEUより上海協力機構やBRICsの方に興味を引かれます。いわゆる欧米中心の世界観ではないものが見たい。そこから漏れた国や地域、あるいは敵視されている国家がこれからどういう世界をつくりたいと思っているのか、どう行動するつもりなのか、欧米社会にどのように向き合っていくのかといったことに未来を見ています。

プレミアリーグのイギリスで経験したように、簡単に世界は二分することがある、と知ったことはわたしにとって大きな事件でした。そこには善悪があり、正義の側と世界の秩序を破壊する悪の側が明確に分類され、指摘されます。ウクライナは善であり、ロシアは悪です。そこにはほとんどグレーゾーンというものは存在しません。そしてそのことが日々、新聞やテレビやネットをとおして、徹底して拡散されます。ほとんど何を見ても聞いても、それに類する情報ばかりです。ジャーナリストや記者も、事実を調査して記事にするだけではなく、感情を込めて表現を選び、正義のためにテキストを書いているように見えます。

善と悪。こんな風に明確に良いことと悪いことが天から降ってきたみたいに決定され、みんながそれを信じたり従ったりしている世界というものに、驚きと同時に不安を感じています。非常に大規模な世界宗教の名のもとに暮らしているみたいな感じです。あるいは外部をもたない完全包囲型の世界にいるような。

文学や音楽、アートの世界がもつあいまいさ(判断保留)、左右の落差の承認、ときにその意図的混合、未知への探究や数少ない可能性へのトライ、知られていない認められていない人々の発掘……
宗教はおそらく、こういう不確定要素を許容しない、信者が心から信じることのできる、グレーゾーンのない明確な世界を目指し提示しているのでは。(記事末の注釈2を参照)
もしそうだとしたら、わたしはやはり宗教ではなくアートを選びたい。

この世界の大半が宗教のように善悪二分でコトが済む、片づけられるようになったとしたら……. 逃げ場はアートあるいはフィクションの世界になるのでしょうか。


トーマス・ニペルナーティという男がいます。風来坊、あるいは放浪者(またはそう装っている)。奇妙な男で、感情の起伏が激しく、感激屋で虫1匹、木1本、花一つ見て感情を高ぶらせ、道を歩けば目の前の風景に陶然とし、草地に寝ころがれば雲を何時間でも見ているような人間です。

ピュア? 純真? まあ、そうかもしれません。

女の子を見ればひとっ飛びでそばまで寄っていき、あれやこれや嘘と本当をまじえた面白い話をするので、聞いている方はいつの間にか引き込まれ、取り込まれ、恋する乙女状態に陥ります。かわいい○○、小さな○○、いとしい○○などと呼びかけ、小屋を建ててそこに住もう、牧師のところに行こう(結婚の意味)など将来のことを軽々と口にします。

騙して悪さをしようとしてる、というわけではなく、その瞬間の気持ちに嘘はないようです。感情過多で感激屋なのです。あと先のことを考えて行動するタイプではないのです。また自分の言ったことを次の日にはケロッと忘れてしまうこともあります。それで困ったことになったりもします。

そういうときは……… 逃げの一手です。

年齢はわかりませんが、おそらく20代後半〜30歳代くらいか。見た目がいいわけではありません。背が高く痩せていて、目はギョロリと大きいのですが、長年の放浪で日にやけて肌にはシワが刻まれています。美しい男というわけではなさそうです。長旅のせいで服はみすぼらしく、アコーディオンのようなブカブカの靴をはいています。持ち物はほぼなし、大事なものとしてツィターと詩を書いたノートがあります。

ツィターは川辺で一人歌うときの伴奏として、あるいは女の子を喜ばせるためのもの。「ツィターを持たない自分は、魂のない木と同じ」というくらい大切だと本人は言います。レパートリーは豊富ですが、その声は「金切り声」の聞き苦しいもの。詩のノートというのは、「子どもの頃にいろんな本の中から選んで集めて書き留めた」もので、とてもいい詩が詰まっているそう。

本人にどこまで自覚があるかわかりませんが、その場の思いつきで次々に口から嘘から飛び出し、留まることがありません。嘘は一種の夢なので、嘘をつきながら自分が興奮してさらにどんどんしゃべりを加速させていきます(手のつけられないやつだ!)。職業もあるときは筏乗り、あるときは仕立て屋、あるときは湿地の水捌け職人…… いくらでもその口から「本当は…」という言葉とともに出てきます。

なーんだ、ただの詐欺師じゃないか。たしかに、そうかもしれません。でもただの詐欺師でもなく。基本、人のためにいいことをしようともしています。誰かが困っているとき、誰も思いつかないような素っ頓狂なアイディアをもちだし、こまごまとした計画をたて、実行に移そうとします。カリスマチックな雰囲気から、まわりの人々が何故か心動かされ、熱狂し…… と、実際に人間を動かしてしまいます。ただし最後のところで辻褄が合わなくなって、とんだ展開になることもあり、そうなればあとはひたすら逃げるのみ。

味方につければ役にたつこともあるけれど、敵にまわすと結構やっかいなやつで、相手を口だけで侮辱しつくして自分の下位に置くこともお手のもの。やられた方は怒り心頭だけれど、悪魔のような舌には抵抗叶わず。

いったいどういうキャラクターなのか、このニペルナーティという男は。と最初にこの小説を読んだとき思いました。そしてそのわからなさに興味をもちました。

この男、悪人か善人か、と言ったとき、わたしは悪人ではないと思います。それは心が腐っているわけではないから。心に悪が巣食っているということはなく、悪気というのはないように見え、その意味で悪魔より天使に近いのかもしれません。常にいいことを、この世を楽しくすることを、自分も人も愉快になれることを考えている、そういうことが好き、そういう風に生きたいと思ってる、だから悪魔ではない。ただしその舌は、ペラペラと嘘もホントも区別なく垂れ流す舌は、悪魔の息がかかっているかもしれない。心は天使、でもその舌は悪魔。

どうでしょう、善と悪、簡単に二分されることを見せつけられる世界にいま生きていて、このような善なのか悪なのか見極めるのが簡単ではない存在というのは一つの救いかもしれません。少なくとも、いったいどっちなのか、人を左右に振ることで考えさせるところがあります。

この小説『Toomas Nipernaadi』(原題)は、エストニアの作家、アウグス・ガイリ(1891 - 1960)の作品で、「美しさと醜さという相反する存在に焦点を置いて作品を書いた」という解説があります。善と悪の混在と同時に美醜の見方にも独特のものがあります。
たとえばこんな描写があります。

 「きみの名前は?」 ニペルナーティが訊いた。
 「アン・マリ」と女の子は顔を拭いながら答えた。濡れた髪がニキビの跡のある顔に垂れていた。小さな目はむっつりと不機嫌そうに見えた。
(中略)
……. 頭に巻いていたスカーフを外すと、ひざの上に置いた。アン・マリの輝くブロンドの髪は濡れて束になり、肩にかかっていた。くちびるは白い顔に縁どられて、真っ赤なトマトのようだった。

『Toomas Nipernaadi』第4話「白夜」より

ニキビの跡のある顔、小さなむっつりとした目、輝くブロンドの髪、白い顔に縁どられた真っ赤なトマトのようなくちびる。ここには醜さともとれる描写と美しさを愛でる表現が混在しています。初めて日本語にしてみたとき、戸惑いを感じました。あれ、本当にそう書いてあるか?と。ふつうはこうじゃない。きれいな人であればきれいに、醜い人であれば醜く、と描写の際、読者がイメージしやすいように、そしてキャラクターをクリアにするために表現するはずです。

でも実際の人間を考えれば、むしろ両方が混在している方が普通かもしれず。フィクションの世界ではキャラクター設定が複雑になりすぎないよう、あるいは小説内での各人の位置づけをはっきりさせるため、どちらかの側に寄せて表現するのが良いとされているかもしれません。ヒーローもので善悪がくっきり分かれているのと同様に。

『Toomas Nipernaadi』の主人公であるニペルナーティも、ツィターを奏で子どもの頃から集めた詩のノートを持ち歩き、旅の合間に歌をうたって過ごすという「美しい習慣」を見せながらも、その声は「金切り声」で聞き苦しいとあります。訳が間違ってないか、と見返したくなるようなテキスト。

つまりこういうことに案外わたしたちは慣れていないのかも、と思い至ります。勧善懲悪とまで言わなくても、フィクションの中のステレオタイプな人物像というものを簡単に受け入れてしまう傾向があるといった。

このようなものの見方が、現実の世界を見るときにも適用されて、善悪真っぷたつに分断された見解や解釈や理解を助けているとは言えないだろうか? わかりやすくスッキリする解釈、その方が気持ちがいいという。とりあえず自分を善組に入れた上で、悪組を安心して敵視する。そういったことに慣れてしまっているのでは、と。

小説『Toomas Nipernaadi』は現在、その第1話を日本語訳で連載中です。興味をもっていただけたら、ぜひ読んでみてください。


*本文中の注釈(1):ヒーローで悪の部分をもつ最近の作品例

『ミニオンズ』の続編『ミニオンズフィーバー』が先週日本でも公開されたそうです。最強最悪の主に仕えることを生きがいとする単細胞生物ミニオンズ、これって善のヒーローへのある種の逆説とか?

*本文中の注釈(2):「グレーゾーンのない明確な世界」について。宗教について深くは知らないので間違っているかもしれません。イタリアのキリスト教左派のかつての活動とか、フランスの労働司祭の存在とか、宗教の世界にも善悪二分ではない思想があるかもしれず…..


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