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[エストニアの小説] 第3話 #1 トゥララ (全10回・火金更新) 

「真珠採り」は、アウグス・ガイリの短編連作小説『トーマス・ニペルナーティ:悪魔の舌をもつ天使』の第3話です。主人公のニペルナーティは全7話に登場し、それぞれの村で騒動を巻き起こします。
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Original text by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)


 道を歩き、森をとおって何日かの旅をしたのち、男は谷を見下ろす高台にたどり着いた。夕暮れ時の太陽が、低い位置から畑や牧草地を照らしていた。青い海が遠い森の向こうにあるに違いない。ハンノキやウワミズザクラの茂みの中を走る川が、家路を急ぐおしゃべりな女の子のように、この男にからみつく。葉を落とした木々の下に赤い屋根の農場の建物が見え、ツバメの群れがその上を舞っている。はるか遠くには、白くそびえる教会の塔や領主の家がアスペンの木々の陰から見える。春の夕べは花粉と樹脂の香りに満ちていた。
 男はじっと考えに浸り、谷を見下ろした。そして笑みを浮かべると、急ぎ足でそこを降りていった。
 男は背が高くがっしりとしていた。顔は日に焼けて荒(すさ)み、ずっしりとした鉤鼻は斧の刃のようだった。カササギのように気取って跳ね、スキップし、その長い腕を風にはためく旗のように振っていた。履いている革長靴は、大きくてゆるくアコーディオンのようだった。ツィターを首から下げ、それ以外、持ち物はなかった。幅広い胸をさらし、黒いツバ付きの帽子を頭のうしろに流していた。そんな風にして、男は口笛を吹きダンスでもするようにユラユラと歩いていった。
 農場の庭に着くと、男は帽子で足元のほこりを払い、大きな石の上にすわった。雲がゆっくりと上昇し、炎になった。土曜の夜を告げる教会の鐘打ちのように、カッコウが声をあげた。夕陽を受けて窓という窓が燃え上がった。一人の少女が牧草地からやって来て、見知らぬ男に目をやり、男の前で驚いたように足を止めた。その目は斜視気味で、赤い頬にはあばたが広がり、金色の髪が汚れた口のまわりに垂れていた。スカートは膝までたくし上げられ、泥だらけの靴は大きすぎてボートのようだった。

 「名前はなんていうの、きみ」 見知らぬ男が尋ねた。
 女の子は恥ずかしそうに目をおおった。
 「トゥララ」 そう答えると、分厚いくちびるに愚鈍な笑みが現れた。
 「ああ、なんて可愛い名前なんだ。誰がいったい考えたんだい?」と男。「きみは多分、あの家のお嬢さんじゃないのかい」
 「ちがう」とトゥララ。「あたしは使用人で、ここで牛飼いをしてる。雑用があればなんでもしてる。ここの人はあたしのことをこう呼んでる、アホのトゥララって。でもこの家のお嬢さんはエロって呼ばれてる。その子はちゃんとしたレディなんだ。あの人たちはこぎれいで金持ち。主人の畑は海までつづいてるし、ずっと向こうの森だって主人のものなんだ。それに乳牛も子牛もいっぱいいる」 斜視の目を大きく見開きながら「数えられないくらいいっぱいいるんだ」と言う。
 女の子は見知らぬ若者に疑わしげな目を向けると、真面目な声で言った。「ぜんぜん良くないことなんだ、若いレディが牧師と結婚しようとするなんて。そいつは何もかも手にする。だけどその牧師は真面目すぎる男で、笑ったり全然しない。片足が悪くて引きずってる。こっけいじゃない?」
 するといろいろしゃべりすぎたとでも言うように、女の子は背を向けて牛小屋の方へと走っていった。角のところで立ち止まり、斜視の目でもう一度若者を見返し、小走りに去っていった。

 男は笑みを浮かべ、目の前にある家に足を踏み入れた。中に入ると、こう言った。「わたしの名前はトーマス・ニペルナーティ、この農園で何か仕事があるんじゃないかと。畑を耕すとか、フェンスの修理をするとか、何かありませんか。ここに来るときに、フェンスが壊れているのに気づいた。それに庭はぬかるみだらけだ、どこかの貧しい百姓の農地みたいにね。大きな農場がこんな風のままではいけない」
 それは日曜日のことで、この家の主人はテーブルで新聞を読んでいた。妻はその隣りで、ぼんやりと外を見ていた。主人が新聞を読むのをやめるまで長い時間があり、メガネを外すと立ち上がった。主人は窓を開けると、大声で叫んだ。「トゥララ、トゥララ、この役立たずが! どこをうろついてる。雄牛が井戸を粉々にしちまうぞ!」
 返事がちっとも返ってこないので、主人はまた椅子にすわり、それからやっと見知らぬ男の方を向いた。「で、どっから来たんだ。おまえは誰だ、図々しいやつだな」
 トーマスは手にしていたツィターを隅に置くと、テーブルについた。
 「遠くから来たんですよ」と陽気に言った。「あなたの知らないところです、旦那さん。わたしはこの辺をぶらぶらしてるだけです、あっちに行きこっちに行きとね。しっかり働くときもありますよ。でも大金を得ようってことじゃないんです。出ていくときに金をもらいます」
 「あんたにやってもらうことはない」 主人がピシリと言った。
 「この人にいてもらっても」と妻が眠りから覚めたように言った。「哀れな魂はいったいどこに行ったらいいのか」
 「どこに行くべきか、まったくその通りだと思いますよ」 トーマスが素早く返した。長い議論を恐れるかのように、男はツィターを取り上げ、陽気な曲を弾き始めた。もうやり取りが蒸し返されることはなかった。
 で、ニペルナーティはこの農場にとどまった。

#2を読む

'Pearl Diver' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku


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