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[エストニアの小説] 第5話 #2 14人目の私生児(全15回・火金更新)

 カトリは自分も、自分の所有物も、人に与えることに寛容だった。
 
 毎年、赤ん坊が生まれ、毎年、カトリの領地は狭くなっていった。毎年毎年、領地のすぐ外に新しい家が現れ、輪を描くようにして、家々がカトリの屋敷のある中心部へと迫っていった。カトリ・パルビは嘆いたり、文句を言ったりしなかった。そしていつも男の肩に手を置くと、このように言った。「あなたの名前は何だっけ、アード・アンビエルじゃなかった? そうそうよね、愛するアード・アンビエル、馬番に馬具をつけるよう言ってちょうだい。あなたと町まで行きたいの」
 
 そしてカトリ・パルビの評判は国の隅々まで行き渡り、この女の奇妙な話があちこちで噂されるようになった。といっても、そこに嘲笑はなく、人々はこの女に同情でもしているように、首を振って起きていることについて話すのだった。
 
 あるとき、牧師が自らカトリ・パルビに会いに来たことがあった。
 怒り心頭の老牧師は祭服を着て、胸に銀の重い十字架を付け、威厳に満ちた顔つきで、邸宅に足を踏み入れた。
 「カトリ・パルビ、重要な要件でわたしは話に来た」と重々しい口調で言った。
 カトリは頬を染め、下を向いて小さな声で訊いた。「そんなに悪いことが?」
 中に入るよう伝えると、カトリはさっとその場を離れ、白いエプロンをつけ、顔を洗い、髪をとかし、長い時間かかって化粧をし、それから姿を表した。そしておずおずと牧師の前にすわると、黙って手をひざに置いた。
 
 「カトリ・パルビ」 牧師の重々しい声は怒りと興奮で震えていた。「わたしのところの聖具室係はすでにあなたの7人の子の洗礼を行なった。わたしの教区の登録簿はあなたの私生児でいっぱいだ。それで訊きたい、あなたはこの先まだ、わたしの教会に不名誉を与えようとするのか。あなたの堕落を、犬どもが道で吠えたて、カラスが草地で言い立てている。あなたの堕落の悪臭が、わたしの信徒教会に広がってる。あなたは静かにキリスト教徒のやり方で暮らすと、わたしのところに来て誓った。しかしあなたはそれを裏切った、わたしはあなたのことを恥じている」
 
 カトリは涙をポトリと膝に落とし、その大きく無垢な目を牧師に向けると、小さく囁(ささや)いた。「ほんとうに、わたしはどうしたら。すべては神様の手のうちに」
 
 「わかった。すべては神の手のうちにある。あなたはそう言う、あなたは少しも許しを請うつもりがないのか? このまわりにある白い小屋を見てごらん、そこに住む男たちはあなたをあざ笑っていないかな?」
 牧師は部屋を歩いては怒りを爆発させ、また歩いては怒りを爆発させた。カトリの無垢な目がその姿をせわしく追った。牧師の心はやがて鎮まり、少し優しさを見せ、カトリの隣りに腰をおろす。そしてカトリの暖かな手を自分の手の中に引き入れてこう尋ねた。「あなたは良き道をゆくと約束するね、カトリ」
 「はい、もちろんです」 カトリ・パルビは答え、頭を牧師の膝に埋めた。

 しばらくして二人が家から出てくると、牧師はおずおずとさよならを言い、馬番に家に戻るよう告げ、自分は歩くからと言った。道に出ると牧師は駆け出し、そのときになって初めて胸に重い十字架があるのに気づいた。ヘビにでもかまれたように驚いて十字架をむしりとり、ポケットに隠した。「ああ神よ、神よ」 そううなり声をあげると、道端にすわって頭を抱えた。
 
 カトリ・パルビが生き方を変えることはなかった。数年後、領地に残されたものは屋敷と果樹園、製粉所と居酒屋旅館だけだった。畑に森、湿地に沼地、牧草地に雑木林、借地に干し草畑は、すべてなくなった。次々に立てられた新しい家は、カトリの屋敷の隣りにあるも同然だった。手放すものなどもうないカトリはギシギシいうベッドを宿屋に運び込み、自分がそこの管理人となった。しかしそこにも長くは留まらなかった。ある日、一人の男が宿屋にやって来た。その男はカールした茶色の髪と青い目をもち、笑うと白い歯がこぼれた。カトリはまごまごして椅子にすわり、大きな目をその男に据えた。
 「ウォッカを」とその男は注文した。
 カトリはそれを運んだ。ウォッカと食べ物、コーヒーにリキュールをテーブルに運び、無邪気な子どものようにテーブルとキッチンの間を行き来し、じっと男に目を据えた。カトリは1日、2日、3日とウォッカを運び、そしてギシギシいうベッドは製粉所に運ばれた。カトリは手を男の肩に置いてこう言った。「あなたの名前はなんだっけ?」
 「マルティン・ビクラ」
 「マルティン・ビクラ、なのね?」 とカトリ。「そういう名前は聞いたことがないわね、遠くから来たの?」
 「話は聞いている」とその男が笑った。
 「話って? わたしに何か悪い噂でも?」
 「いい話じゃないな、そのとおり」 男が認める。
 「くるったババアのことを聞いた。自分の運を男たちにばら撒いてるやつだ。で、あんたがその、ババアなのかい?」
 「そうね」 カトリ・パルビはため息をついた。「あなたは何ができるの? わたしにはあげられるものはないけど、ここにいてもいいわよ。居心地のいい人気の宿よ、あなたがいい人なら、金持ちにだってなれるかも」
 「で、こんな風に、人にやってるわけかい?」 男が尋ねた。
 「こんな風にやってるわね」 カトリが真面目な顔で答えた。
 「何のために?」
 「他の人たちはこんな風にして財産を手に入れてきたの、だからあなたも?」
 男は頭をかくと、不機嫌な顔でそこにいた幼児を見て、こう言った。「こんな風に宿屋を自分のものにしたいとは思わない。物乞いじゃないんでね。自分で払う、だけど前払いじゃなく。毎年いくらか払うが、手付金がある。これであんたがよければ」
 カトリ・パルビはお金を受け取り、製粉所へ歩いていった。そしてスカーフの中に金をしまい込んだ。その様子は何か重く恥さらしなものを運んでいるみたいで、あまりの重さでよろよろするほどだった。宿屋から1キロもないのに、カトリは歩いては休み、歩いては休みして製粉所まで行った。
 「可笑しな子だわ、あたしに金をくれるなんて、なんのため?」
 傷でも負った気分で、胸のあたりがチクチクした。しかし笑顔と青い目が特徴の男は、カトリの心の中にとどまった。
 製粉所に着くと、カトリはお金を引き出しの中に投げ入れ、仕事を始めた。

 カトリはまもなく50歳、11人の息子に2人の娘を産んだが、クマのように強靭だった。顧客から穀物袋を受け取ると、背中に背負い、男のようにそれを運んだ。カトリは製粉所で朝から晩まで忙しく立ち働き、製粉所は音を立てつづけた。カトリ・パルビは疲れも年齢も感じていなかった。カトリは生まれながらにして、力強さと健康を余すところなく与えられていた。そして50歳になったとき、激しい労働で走りまわる中、カトリは12番目の息子を出産した。小さなトーマスは、健康で生き生きとした子どもだった。カトリは胸をときめかせた。こんなことは初めてのこと、愛する息子をじっと見つめ、いつも目でその子を追った。その子は青い目と茶色のカールした髪をもち、笑顔もとびっきり、愛らしく優しく、白い服に包まれた小さな赤ん坊というより、マルティン・ビクラそのものだった。いや、この子はどこにもやらない、大切な息子としてそばに置く、あの世に行くまで、自分のところでこの子の世話をしたい。「ああ、可愛いトーマス!」 カトリ・パルビはその子を胸に抱いて、そう呟いた。「あー、可愛いトーマス!」
 
 戦争があり、いざこざもあって、製粉所はカトリの手からよそ者の手に渡った。しかしカトリは気にすることなく、ベッドを元の屋敷に運び、トーマスの手を引いて生家で暮らした。今も古い屋敷と果樹園を所有していた。そしてこれをトーマスに継がせたいと思っていた。昔からあるリンゴの木は実をたくさんつけ、枝はその重さで地面につきそうだった。スグリやラズベリーが生え、サクラやナシの木が庭をぎっしりと縁どっていた。カトリが生き延びるのに充分な収穫があった。カトリは自分の土地を分け与えることに、喜びさえ感じていた。他の領主たちの間で、この分配は論争を巻き起こし、訴訟問題となり、欲深いよそ者たちが村にやって来た。しかしカトリ・パルビの受益者たちはみな大家族の一員のようで、カトリは自分を村の母、そして「生命の木」のように感じていた。

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'A Day in Terikeste' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue DaikokuTitle painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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