[エストニアの小説] 第5話 #1 女主人(全15回・火金更新)
シンガ低地の森や沼地を過ぎると、急に風景にうねりが現れ、オークやトネリコ、カエデの木々を頂上に据えた小さな丘、尾根、高台や丘陵地が目の前に広がる。その下には窪地や谷間があり、湖や干し草畑の間を小さな流れがくねくねと通っている。丘陵地の斜面には、畑があり、谷の底から色とりどりのリボンのように尾根に向かって伸びている。農夫や小作人、領主の家が、湖や川の縁に建ち、テリゲステの村を構成している。数年前には、広々とした畑とマディス・パルビのテリゲステ領地があったが、穂先から種がこぼれ落ちるように、年を経て朽ちていった。今は丘の脇に残された、古い木造の邸宅と大きな果樹園が残るばかり。
マディス・パルビはけちで、怒りっぽく、極端に禁欲的な男で、唯一の人生の目的は自分の領地を広げることだった。年経るごとに、地域の農園や小作人の小屋や森、そして湿地や泥炭地までがこの男のものとなった。邸宅を建てはじめたものの、費用のせいで完成させないまま捨て置かれていた。それで羽を広げた鳥のような、背の低い建物のままだった。パルビ自身は左の翼部分に住んでいた。大きな何もない部屋で、中央にばかでかいギシギシいうベッドがあった。テーブルと小さな食器棚が部屋の隅に置かれていた。それ以外のものは何もなかったが、扉と窓には鉄格子と南京錠が設置されていた。カトリという名の娘が一人いたが、街に住んでいて、不仲なため、パルビが娘のことを口にすることはなかった。ところがある秋の夜、町へ出ていった際、マディス・パルビはその途上で殺人鬼に襲われた。馬が血にまみれたパルビの死体を家に運んできた。使用人たちが主人を田舎風のやり方で埋葬し、娘のカトリからの連絡を待った。
実際のところ、すぐさま、カトリは家にやって来た。シルクの靴にレースの長手袋のいでたち、念入りに化粧して、小さなパラソルを頭の上に掲げ、数日間、辺りを歩きまわった。カトリはがたいの大きい骨太の女で、その尻は村の入り口にある門のようにどっしりとしていた。足はずんぐりと太く、男のようだった。頬骨の下は大きく窪み、鼻はどっしりと横に広がり不恰好だった。しかしその目は大きく、キラキラと子どもように輝いていて、すべての欠点を覆い隠した。カトリは庭や公園、森などを数日間歩いて、使用人や農夫と話をしたが、高慢なところはなかった。その週末、カトリは地区の牧師を訪ね、父親がしていたように自分も農夫となると誓った。そして牧師に父親のような助言を求め、キリスト教徒となる誓いをたてた。
そしてすべてが始まった。カトリは身につけていた宝飾品をはずし、簡素な服に着替えた。すぐにカトリの男っぽい大きな声が、敷地から聞こえるようになった。街暮らしの名残りはすっかり消え去った。新聞も本も読まなかった。日曜ごとに教会に出向き、信心深く、勤勉で、いつも穏やかだった。土曜の夜、仕事が終わると、農園の人々を集めて、自ら聖書を読んできかせた。節度や誠実さについて説教し、その野太い声を響かせて讃美歌を歌ったが、他の者がついて歌っているかどうかは気にしなかった。説教が終わると、人々はサウナに行き、家に帰って休むことができた。カトリは父親のやっていた生活を続けた。館にはカトリ・パルビひとり、父親同様、大きなギシギシいうベッドで眠り、派手なことを求めることもなかった。父親の時代の使用人が週に一度やって来て、部屋を掃除した。しかし料理は自分でし、農夫の誰かれ、倉庫管理人などと食事した。
ところでカトリ・パルビには大きな弱点があった。男を放っておくことができなかったのだ。カトリは女を嫌い、見下し、鞭打って働かせたが、男については、チラリと目を向けられただけで、すぐさまその手に落ちた。農夫が仕事を求めて来たり、小作人が借地料を払いに来たり、倉庫管理人が報告に現れたり、農場管理者が相談に来たりすると、そのすべてを待ち焦がれた恋人でも迎えるようにして接した。寛大な態度で彼らを迎え入れ、中に入って座るよう言い、誘惑に負けて崩れ落ちた。どんな男であれ、カトリの膝は震え、骨張った顔に赤みがさし、おずおずと期待で目を閉じた。
そして翌朝、農夫なり倉庫管理人が家を出ていくとき、玄関で立ちどまり、親切な女主人に良い1日を、ごきげんようと挨拶すると、カトリは男の方へと歩み寄り、手を肩に置いてこう言った。「あなたの名前はなんだっけ? ユリ・アーパシバーじゃなかった? そうそうよね、愛するアーパシバー、馬番に馬具をつけるよう言ってちょうだい。あなたと町まで行きたいの、敷地の一部をあなたの名前で受け渡すから」
そしてユリ・アーパシバーが彼女をどういうことかと見て、馬を用意しようとしないと、カトリはこう言った。「いい、あたしを軽蔑したままここを出ていってほしくないの、夕べのことを言いふらしてほしくないの。純真な心でわたしのことを心にとめてほしいし、二人が楽しい思いをしたこととして昨夜のことに感謝してほしいの。あなたの心の内に留めてくれますよう、そすればあたしは後悔などしなくて済むし、この先また顔を合わせたときに恥ずかしい思いをしなくていい。さあ、あたしが言ったことを、馬番のところに行って伝えて」
というわけで新たな家が敷地のあちこちに現れ、斧をふるう音が至るところで聞こえるようになった。ユリ・アーパシバーが家を建てていた。そしてテニス・ティクタ、ヤーン・シルグパル、メオス・マルティンも。何度となく、カトリは男を連れて町まで行き、契約書を書いた。
カトリ・パルビは子どもを生み、農園を運営し、と人生に大満足だった。
子どもたちがヤギ飼いができる年齢になると、井戸のところに連れていき、口と手と足をていねいに洗い、外出着を着せて、丘の高いところに連れていった。そこからはこの村全体が見下ろせた。カトリは子どもに手紙と10ルーブル銀貨とシャツを2、3枚入れた包みを持たせ、こう言った。「ほら見て、丘の斜面に白い小屋があるでしょ、見える? よおく見るのよ、白い屋根に赤い煙突がある小屋よ、その隣りのオークの木のてっぺんにコウノトリの巣があるから。そこにあなたのパパが住んでる。さあ、そこに行きなさい、戻ってきてはだめ。わたしからの挨拶を伝えてね。この手紙と10ルーブル銀貨を渡して。でも歩いている間、あの家をちゃんと見てるのよ、そうじゃないと迷子になるからね、別の家に行ってしまうよ」
子どもがそこで泣いて行きたくないと言うと、カトリは怒りを爆発させた。
「あー、あんたは恩知らずのオオカミの子だよ」と言って長い棒を振るった。「しょうのないガキだね、父さんのところに行きたくないなんて。どこにあんたを置いたらいいんだい。小さな子たちで家がいっぱいなのがわかんないのかい。まだまだ出てくるんだって。あたしはあんたを育て、自分の足で立てるようしてやった。大きくなるまで育ててきたのよ。もう父さんの足手まといにはならない。あんたが父さんを助けるの。さあ、行きなさい」
というわけでカトリ・パルビの子どもたちは丘の頂上から、それぞれの方向へと散っていった。泣きながら、ときどき後ろを振り返りながら、見知らぬ父親と義理の母の家に向かって、小さな荷物を片手に、手紙と10ルーブル銀貨をもう片方の手に。カトリ・パルビは丘の上で手に棒を持ったまま、子どもがちゃんと家に着くまで見張っていた。そして棒を投げ捨てると、満足して家に向かった。
'A Day in Terikeste' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)