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幸い(さきはひ) 第一章 ⑥

第一章 第六話

 千鶴が応接間に入ると、千鶴の父は力なく椅子に座っていた。

 身体を表す影は長くなり、落ちていく夜の帳と同化しつつある。

 その目は遠く風景を瞳にうつしてはいるが、何かを認識しようと機能していない。

 千鶴はティーカップを片付けようとテーブルに近づき、静かに声をかけた。

「お父さん」

 西野は声をかけたことで、やっと自分以外の存在をきづいたように、肩を揺らす。

「すまない千鶴。昔の師に会って緊張していたのかな。少し気が抜けていたようだ」

 苦悩がにじみ出る顔でなお、ごまかすように微笑む西野に、千鶴は顔を歪ませ、言葉を落とす。

「先ほど、南山様と少しお話させていただきました」

 その発言に、西野の顔が瞬時に切り替わる。

 眼鏡の奥の小さな目が目一杯に見開かれ、鋭く千鶴を捉えた。

「話した」

 西野は確認するように、千鶴の語尾を繰り返す。

「はい、お話ししました」

 千鶴もそれを肯定するように再度繰り返す。

 その言葉に西野は短く

「何を」

 と尋ね、乗り上げるように椅子に手をかけた。

 温和な父から発せられたとは思えない、腹の底から出た低い声。

 千鶴はそれに少し気圧されながらも答える。

「南山様のご子息が桜病《さくらびょう》に感染され、療養されていること。

 私に派出看護婦《はしゅつかんごふ》として、ご子息を看護することを依頼されたことです」

 告げられた言葉に西野の顔は歪む。

 千鶴はそれに気づかないふりをして話を続けた。

「どうして教えてくださらなかったのですか。

 私は看護婦養成所に通い、正式な看護婦の資格を持っています。

 派出看護婦も短い期間ではありますが、経験があります。
 
 南山様も方々をあたられたところ、なかなかご縁がなく、こちらに頼まれたとのこ  
と。

 お父さんはいつもいっておられるじゃありませんか。

 どんな人であっても、苦しんでいる人を助ける人でありなさいと。

 大学時代の恩師のお子様であれば、なおさらです。

 なのになぜ、私に尋ねる前に断られたのですか。

 それに最近、派出看護婦の仕事も・・・」

「桜病は風邪やなんかの普通の病とは違う。

 分かっていないことのほうが多い危険な病気だ。君も知っているだろう」

 千鶴の言葉を遮るように語気を強めて西野は言う。

 それに千鶴も反論するかのように強い口調で言葉を返した。

「ではなおのこと、専門の看護知識を持った看護婦が必要なのではないですか」

「千鶴は分かっていない」

 西野は椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がり、怒鳴った。

 千鶴は驚き、洋間の絨毯の上に後ろ手に座り込む。 

 そんな千鶴の姿を見て、西野ははっと我に返ると、すまない、と小さな声で謝り、力なく椅子に戻る。

「私は昔、南山教授のもとで桜病の対応にあたっていた。

 ゆえにその恐ろしさをだれよりも知っている。

 妻も桜病で失っているから、傍で看病する者の難しさも分かっている。
 
 だからこそ、千鶴にはそんな思いをしてほしくない」

 身近で桜病を見てきた父が、普段温厚な父が、ここまで声を荒げて言うからこそ、その病がどんなに恐ろしいものか、千鶴はしかと思い知らされる。

「それに、千鶴まで失うことになったら、私は耐えられない」

 西野の最後の言葉に、千鶴は心臓が直に握りしめられたかのように胸が苦しくなる。

―― 公平無私に人を助けてきた父が、私情をさらけ出し、千鶴が行くことを反対している。

 それは裏を返せばそれだけ娘である自分のことを大切に想ってくれているということ。

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