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我々は善良で在るべきか

 《「特定の価値観において良く在るべき」を押し付けるべきではない。》という言説を結婚出産に関して大変よく見る。

 家という集団の在り方、個人としての社会集団への参与の形が複雑化してきた昨今、「結婚してから一人前」「結婚したなら子供を持つものだ」という従来の(日本の家父長制か揺るぎなかった時代の)価値観に摩擦が生じるのは当然だと思う。普遍的であるかどうかに関わらず、「良く在るべき」という圧力は反発を受けるもので、勢力図によってその当たり前は唾棄されていくものだと。

 では、結婚出産以外のモラルや社会通例はどうだろうか。我々は「良く在るべき」か。

「敬老」の価値観において「老人に優しくするべき」か。

「清潔」の価値観において「風呂は毎日入るべき」か。

「道徳」の価値観において「困難な他人に手を差し伸べるべき」か。

「伝統」の価値観において「(法で保護されている以外の)古い形式の文物を保存するべき」か。

「動物愛護」の価値観において「昆虫の命を大事にするべき」か。

「教育」の価値観において「子供の嫌いなものでも食べさせるべき」か。

「社会人マナー」の価値観において「封書は相手の社名に御中を付けて送るべき」か。

「女性」の価値観において「男を立てる言動をすべき」か。

「挨拶」の価値観において「お礼や挨拶の際は手土産を持参するべき」か。

 当然、定められている法は犯してはならない。しかし上記のケースはいずれも法で定められた尊守すべきものではない。価値観によって「良く在るべき」とされているにすぎない。全部無視しても罪に問われることはない。

 しかしそれらの価値観がまだ大事にされているのはなぜか。それはおそらく現状の社会集団の運営において有利な価値観だからだ。道徳的な価値観を守ることで、危険な人物がへの抑制になる。価値観を訴えることで集団を制御しやすくなる。集団にとって有利なシステムの支えになる。利があるからそうなっていると私は考えた。法で定めるほどコストはかけられないが共有することに大きなメリットがある。そのように価値観が扱われることは集団運営を考えると当然の流れであり、社会性動物としての生態の一部であるとも考えられるだろう。

 だから「良く在るべき」でなくても良い。しかしその集団への居心地が悪くなるのも受け入れなくてはならない。価値観の共有で生ずるメリットを損ねているからだ。

 ならば「価値観」へ反発がありどうしてもそれを解決したい場合、どのような行動が取れるか。どのようにすれば個々人が快適に集団の一員となれるのか。それについては3点ほど思いついた。

・共有された価値観を捨てる流れを作る

・所属集団を変更する

・メリットを損ねない形で価値観を拒否する

 完全に単独で生きていくのは現代の生活レベルではかなり困難なので、あくまで社会集団への所属は必須だとしたとき、集団の慣習が気に入らないなら集団そのものを変えるか、集団のあり方を変えるかしか無い。そうして受け入れられる価値観のもとで「良く在るべき」を実行して生きることがストレスの少ないない生き方なのだろう。

 しかし、上記は極端な例で、皆なにかしらの価値観を我慢しながら生きていると思う。そのほうがコスパが良いので。困難や我慢のない理想郷は結局のところほぼ存在せず、疑い、宥め透かしながらも「良く在るべき」ように生きている。価値観に行動基準を委ねるということはそういう事であり、覆い隠した内部摩擦は減ることはない。

 なので「所属する価値観だから」ではなく「自分がそれが良いと判断したから」という決定で行動をしていくのが幸せなんだろうなと、「自己決定権=幸福度」論を思い出した。(ここ論理の飛躍)

 七転八倒くらいしたが結論として、我々は幸福を望むなら「善良で在るべき」だ。

 そう在れる居場所とそう在れる自己決定権を持ち、「善良で在るべき」だ。

 それはきっと低ストレス高ハッピーな人生の礎となるからである。


妄想終わり

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