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子供時代の貧困と虐待生活 -プロローグ-

小学4年のとき、父と母が喧嘩をして、母が出ていった。
その頃住んでいた団地のすぐ目の前の公園で遊んでた僕は、父のすぐに帰ってこいという声に、少し不安を感じながら家に帰った。

父は泣きながら、母が出ていったことを僕に告げる。

一人っ子で兄弟もいない僕は、涙を流しながらそんなことを僕に告げる父親を見て、ショックを受ける。
40歳になった今でも、ありありと蘇る、当時の記憶。

翌日、母は帰ってきた。なぜかよそよそしく感じた。
奈良に住む母の叔母にあたる人を伴って帰ってきた。

なにやら大人たちがずっと話してる。そのとき僕は、一人で風呂に入っていた。
それまでほぼ毎日、父と一緒に風呂に入って、父が好きな歴史の話をつまらなそうに聞いていたのに、その日に限って一人で風呂に入らされた。

脱衣所で、聞こえてくる大人たちの声に聞き耳を立てる。
怖くて脱衣所を出ることができない。このまま出たら、なにか悪いことが起きそうで怖かった。
新しく準備された下着を着、寝間着を着る。ゆっくりと。時間が止まってくれないかと願いながら。

そしてそっと脱衣所を出る。

奈良の親戚の叔母さんが「ゆずるくん、こっちおいで」と言う。
ただならぬ空気。

母が泣いていた。
何かわからない。僕も怖いし、ただならぬ雰囲気に耐えられず涙を流してしまう。
子供特有のワーっと泣きじゃくる感じではなくて、自然と涙が流れ出す感じ。泣くのを耐えようとして泣いてる感じ。

奈良の叔母さんから両親の離婚を告げられる。

そしてどちらにつくか、小学四年生の僕に決めろと言ってきた。

僕はその質問に「父に付きたい」と言った。正直な気持ちだった。

実は僕の母はとてもヒステリックで、怒り出すとすごく怖かった。
そして父は温厚で、優しくておっきくて、大好きだった。
母は、なにかわからない怖さがあったのだ。

だから父のところにずっといたかった。

でも本当はふたりとも自分のそばにいてほしい、そんな気持ちだった。
3人しかいない家族が、ばらばらになるのがすごく嫌だった。

しかしそんなワガママな気持ちはもう言ってはいけないんだと子供ながらに感じていた。

そして結局、父のところにいたいという僕の意見も無視され、僕は母に連れられて、母の実家がある九州の、何度か来たことがあるけど、ほとんど知らない土地で暮らすことになった。

だがこれが僕の人生に多大な影響をあたえる、毒家族だったのだ。

つづく


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