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【ヨガ】完全呼吸法について その①【Perfect Yogic Breathing】


そんな訳でバストゥリカー、カパーラバーティ、ウジャイといった極端な呼吸法から遡ってヨガの最も基本的な呼吸法にたどり着いた。

この呼吸法こそがヨガを支える基本中の基本であり、ヨガで使うあらゆる呼吸とは、この完全呼吸から何らかの条件に合わせて何かを引いたり制限を掛けたものに過ぎない。まちがっても完全呼吸法から派生したり新たなものを足されたのではない。『全部盛りのネギ抜き』『全部盛りのニンニク抜き』みたいに、この完全なものから何かを差し引いたものがヨガの呼吸法のバリエーションなのだ。そのくらい重要な呼吸法だって事。

さて、前回わたくしは、 

「あらゆるヨガの行法には、5コーシャの最初の3つに対応した3種類の理が存在する」  

と述べた。最初の3つとは『肉体』『生気』『意識』の事だ。流行りっぽく云うなら「身・口・意」みたいに言い換えてもいい。この3つがいわゆる本来の意味での『三密』だ。

この完全呼吸に関しても3つそれぞれの理(理由であり理屈であり理論)を述べてみよう。

先ず肉体レベルに関して。3匹の仔猫で例えてみよう。
3匹の仔猫にエサをやるとする。ところがその3匹はまだ大人用のカリカリしたエサに慣れておらず、目を離すと食事をやめてすぐに何処かに行ってしまう。1匹を連れ戻してカリカリフードの前に置くと、今度は他の1匹がいなくなる。その繰り返しでいつまで経っても3匹の仔猫はちゃんと食事を摂る事ができない。

そこで、1匹づつ食事の時間をズラし、それぞれの1匹に付きっきりで大人用フードの食育を行おう。これは上手くいって、3匹の仔猫は皆んな無事に大人用フードを食べ終える事ができた。

つまりこれが完全呼吸だ。

人間の肺の解剖学的なモビリティは大きくは3つに分かれている。①横隔膜が弛緩収縮することによる肺底部の上下運動、②肋骨が背骨を支点に拡大収縮するふいごパタパタ運動、③鎖骨まわりが上下することによる‘フタの開け閉め’運動、この3つだ。
この3つの運動が先程の3匹の仔猫にあたる。これら3つの構造のひとつひとつに別個にフォーカスし、それぞれの稼働範囲(容量)の最大限を引き出す。これが身体上の完全呼吸の理屈だ。具体的なやり方はヨガの入門書を参考にするといい。ベーシック過ぎてここで字数を費やすのはもったいない。とにかくこれをマスターすれば、肺を全く拘束しない状態でのこのやり方を基本として、アーサナやバンダや呼吸法によって肺のどこかしらが圧迫されたり伸展不可能だったりしたなら、それ以外の部分の肺のキャパシティを常に最大限で使い、どのような体勢でもその体勢の最深の呼吸が行えるようになる。先日のウジャイ呼吸もよくある片鼻呼吸も、首から下はこの呼吸法が基本になる。

次に生気レベルでの理を語る。
この完全呼吸法をやっている時、プラーナの流れは吸気に合わせて背骨を尾骶骨の最下部から頭頂部まで上昇し、呼気に合わせて頭頂部から尾骶骨最下部まで下降する。吸って上昇吐いて下降、呼吸の際にはこのイメージを繰り返し完全に内面化させる。つまり、無意識であっても常に呼吸に合わせてエネルギーが上下に行ったり来たりで流れてる感覚を身体に染み込ませるのだ。

例えばアシュタンガヨガやビニヤサヨガをやる際に背骨の中で起きているこの流れを常に意識してみるといい。自分の動きと背骨内の流れ(つまりは呼吸)が100%一致するはずだ。むしろ背骨の中のこの流れにもってかれる事によって身体が動いているような感覚になる。これがいわゆる

『呼吸と動きが一致した』 

という状態だ。流れのイメージというのがやりにくいならば、背骨の中を重い玉がゴロゴロと転がっている様を思い浮かべるともっとわかりやすい。インヘルアップもジャンプバックも重い玉の転がりの慣性が身体をもっていってくれる。これが生気における理。

そして最後に意識における理だ。
ちなみにここで

「そもそも生気だってイメージだから意識の範囲だよね」

と疑問を持つ人もいるかも知れない。実際、5コーシャで云えばひとつめの身体(食物鞘)以外は全て意識のバリエーションなので、ここでの生気と意識の違いというのは「何が意識されるのか?」の違いだと言っていい。先日のウジャイも同様だが、生気レベルでは単純にエネルギーの流れという、言うなれば『亜物理』的なもののイメージに留まるが、ここで言われる『意識レベル』とは、哲学とか思想、際どい言葉を承知で言えば宗教などのイメージに踏み込む(※先日のウジャイ呼吸でこの意識レベルの解説の歯切れが悪かったのは、あの頭脳内のラインに何かしら存在するはずの哲学的あるいは宗教的な意味付けを俺が知らなかったから)。

つまりこの完全呼吸法も、背骨で起きてる呼吸によるモビリティを理解するだけでは、結局アシュタンガやビンヤサの動きの役に立つ程度にしかならない。それはフィジカルなテクニックだけを見ていた実践者が、ちょっとしたイメージ的な「コツ」を掴んだというだけの事だ。だがヨガをやる目的というのはもちろんそんな事ではない(そんな事じゃないよ!)。

という訳で完全呼吸法の意識レベルにおける理だ。大きい話を先取りすることになるが、基本的にハタ・ヨーガと呼ばれるものは、身体も含めた自分という『個』を、それこそ社会や民族や地球から宇宙そのものまでの『全体』の縮図だったり或いはそれと同一のものだというふうに見なす。

それによって、自分という『個』を深く見つめたり或いは能動的に操作する事が、そのまま社会から宇宙まで全体を理解する事だと知り、最終的には自分と自分の外側で取り巻くものを同一だと見なし、それが人を様々な意味で苦しめることの原因たるエゴからの解放をもたらす。

そんな訳で、ハタ・ヨーガは自らの身体に『自分/全体』の様々な構図を配置するのだが、そのうちの代表的なものが背骨の上と下に配置されるそれそのもの。すなわち、背骨の最下部を『自分個人』とみなし、最上部を『全体性』とみなす。

ここで先の『生気の理』を思い出していただきたい。息を吸うとプラーナは背骨を上昇し、息を吐くと背骨を下降する。意識レベルつまり哲学や宗教的にこれが何を意味するのかというと、

【息を吸うことによって、自分という個の領域の中に外部から空気という全体の要素が取り入れられる。すなわち個と全体が混ざる。これを背骨に配置された構図で見るなら、背骨最下部にこびり付いた『個』が全体に向かって上昇しエゴが希釈されるということになる。

息を吐く事によって、身体から混ざっていた空気が排除され、全体の中から個が際立つ。これを背骨に配置された構図で見るなら、最上部に上昇して全体と混ざっていた個が、個の領域である最下部に戻っていく】

という事になる。つまり意識レベルでこの呼吸法を行うなら、背骨の上下に全体と個をそれぞれイメージしながら(こういうのを布置-ニャーサと呼ぶ)、吸気で個が全体に合一し、呼気で全体の中から個が際立つ様をイメージする。

ちなみにインドではこの『個』のことを『アートマン』と呼び、『全体』のことを『ブラフマン』と呼ぶ。ウパニシャッドという有名な教典(哲学書)のテーマは

「アートマンとブラフマンの合一」

・・厳密には、合一というよりも元々それらがひとつである事を理解するという事だが、要するにこの呼吸法はそのウパニシャッドの思想を呼吸を通して実践しているという事になるのだ。

(長くなり過ぎたので次回に続く)




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