格差は誰のためのもの?
正規の保育職員として民間の保育所で働いている友達がいる。給料も申し分なく、有給休暇を含め、休みも比較的取り易いという話を聞いていると、良いところに縁があったのだな…と羨ましく思ったりするのだが、そんな彼女にも納得出来ない事があるらしい。
彼女の話はこうだ。
友人と同じ職場で正規職員として働いた後、定年退職し、再雇用のアルバイトとして再び働いているスタッフがいる。その人は自分が「アルバイトになったから保育の主担は出来ない」と言うらしい。では子どもの様子を連絡帳に書くように頼むと、今度は「目が見えにくいから書けない」と言う。ならば、サブ的な役割として、食事の後片付けや掃除を頼むと、「足や腰が痛いから出来ない」と言ってやらないのだそうだ。友達は、保育の主担も連絡帳の記入も、後片付けや掃除も、全て自分一人でこなさなければならず、相手は何の為に再雇用されたのか!と憤っていた。
まぁ、これはある種、独特の例である。
私は長らく、公務の世界で非正規職員(アルバイトや嘱託員)として働いてきた。
社会に出たての若い頃は、人生経験のみならず、職務経験も勿論未熟で、自分でも職場の役に立っている実感が持てなかったのだが、長く働くうちに遣り甲斐を感じ、努力が形に成って誰かの役に立つことを身に持って感じながら、仕事が出来るようになって行った。その分、与えられる仕事が雑務に終始すると、自分の存在価値に疑問を感じるようになった。私の仕事は資格を必要とする専門職だったこともあり、雇用の時点で資格を証明するものの提示を求められるのだが、職場でやっていることと言えば、果たしてその証明が何の為に必要とされるのか、わからないようなものばかりであった。
また、あまりにも長く同じ場所・同じ雇用形態で仕事をしていると、自分より若かったり、年は上でも経験不足の人間が、正規職員と雇用されたりすることがある。その人達は、私のように一定の立場に甘んじている人間と違って、自らの努力でその地位を勝ち取るために努力を重ねたに違いないのだが、明らかに未熟なその人達を相手に、雇用格差からの態度の在り方を指摘されることは違和感を感じる一つの要因ともなった。
一方で、給与の差はあるのに、仕事内容に大きな差がなければ、最初は良くてもそのうちに不満が育って行く。実際、仕事内容に差があると言われたとしても、目に見えてハッキリわからなければ同じことだ。
ある市で働いた時、私はその極端な雇用格差に目を丸くした。そこは公立の保育所だったが、私には理解し難いルールが敷かれていた。
先ず、保育を担当するのは、試験を勝ち抜いてきた正規職員と、同じく試験を経て有期雇用された嘱託職員である。双方は交代で保育の牽引役を担当する。そして、それらの下で、正に下働きをするのがアルバイト職員である。アルバイトだからといって、適当に雇用されるわけではなく、勿論、有資格者であることを前提にした面接の後、審査を経て雇用されるのだが、それに科せられたルールというのが、私にとっては俄かに信じがたいものであった。
まず、保護者と話してはいけない、と言われて驚く。
そして、フォローとしてクラスに入ったなら、子どもに触ってはいけない、と言われた。
仕事は主に、掃除や雑務。大であれ小であれ、お漏らしする子がいれば、普段触ってはいけない子どもであっても、後処理するのはアルバイトの仕事とされた。
何とも劣悪な職務内容である。何の為の資格職なのか…。
嘱託職員は、自らもある種、臨時雇用の身であることを何処かで意識しているところがあって、アルバイトに何かさせるにしても、態度や言葉遣いに配慮の余地が見られたが、正規職員は正に〝人を顎で使う〟かのような横柄さである。アルバイト職員には、人として、有資格者としてのプライドさえ持つことが許されないのかと思い、情けなくなった。
その場所におけるアルバイトを定義するなら正に〝奴隷〟である。アルバイト職員の中には妊婦もいたが、重い机なども平気で持ち運びさせられる。私は『何かあったらどうするのか』と、気が気ではなかった。
正規は非正規に対して、威張ることで立場が上であることを誇示した。立場が違い、給与が上なのも当たり前だという態度だ。自分達は試験を突破したから上り詰めたのであって、それを選ばなかったのは其々の責任なのだと…。
しかし、実際に動いている姿を見せなければ一緒である。どんなに偉そうにしていても、下の人間はそれを見ており、どんなに威張り散らしても、日頃の行いによっては、非正規が正規に付き従い、盛り立てて行こうという態度にはならない。
格差は、上にとって権力誇示を目的とするものであり、下には必要ないものである。
しかし、それらの改善を願い、改革を求める者がいる一方で、現状維持で自身を守ろうとする者もいる。どちらが大切かは、其々の事情によって違ってくる。必要としない者がいるのは、その人達が仕事によって得ようとするものが、〝遣り甲斐〟や〝向上心〟ではないせいだ。必要最低限の収入が手に入れば満足する者もいれば、格差に不満があっても、現状に波風が立って、将来的に落ち着いて働けなくなることを恐れて黙っている者もいる。
しかし、改革が望めなければ、下は向上心を持てず、持っても報われない。報われるシステムがあれば、企業はもっと成長出来るのではないか…?と私は思うのだが、少なくとも行政は企業とは違い、成長発展することで活性化していく場所では無いのだろう。ある意味、常に守られた状態にあり、無くなることのない世界なのである。そしてそれは、そこの中心として働く正規職員にとって言えるのも同じことで、彼らが身を呈して努力・精進することは決して義務ではないのである。
ブラック企業が生まれる背景とは、働く者を大切にしない世の中にある。そんな世界で心を病む人は増加し、鬱という長い苦難を強いられる者も少なくない。普通に考えれば、悪循環の温床を絶つことは、下に居る者に限らず、上に立つ者にとっても働きやすい社会になるという現実に辿り着くはずなのだが、多くの人間は其々のエゴや目先の欲に目を奪われている。
『自分さえ良ければ良い』
そんな風に考えることなくこの社会で働いている人間が、一体どれくらい居るのだろう。
私は非正規雇用を全面的に否定するつもりはない。その職場や職種のすべてが非正規なら、皆同じで差が無いため、格差など生まれず、ある程度は平和なはずである。しかしそうなると、何のための正規で、何のための非正規なのか…という話になって行く。
結局、設けられた格差を撤廃することでしか、この問題は解決しない。人ひとりひとりが人らしく、社会で前を向いて働くには、格差など必要最低限であるに越したことはないのである。それ以外に、この社会を元気にする方法があるなら、私は是非知りたい。
何だか選挙演説のようになってきた気がするので、もうこんな問題からは筆を置きたい。唯々、切に願うのみである。
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