それぞれの春 ③

 Kさんが市立図書館で勤務していることを知っている司書が他にもいたかも知れなかったが、誰も何も言わなかった。知らないと考えるほうが妥当だとも思った。新年度は始まったばかりで、相互貸出を要する機会はまだ先であるようにも思える。また、勤務時間が削減されたことで、司書自ら赴いて資料を選定する時間が、どの学校でも確保出来ないのが普通になっていた。私が気軽に来られたのは、市立図書館から一番近い場所に学校があること、そして、想定外に授業開始にストップがかかったせいで、業務開始に遅れが生じていたために、空き時間に自転車を走らせる時間が出来たせいでもあった。
 時間がないとはいえ、年間一度も市立図書館へ出向かずに業務を完結させることは、どの司書であっても難しい。行けば出会う可能性は充分にあるが、全く出会わない可能性だってある。司書会に知らせるべきだろうか…と考えていたら、虫が知らせたのか、退職したMさんからメールが届いた。
 
【雇用保険のことでやっと私の理解が追い付いたかな…ということでご報告です。Sちゃん(Kさんの前任)が即給付だったのは、任期満了で尚且つその職種が無し!になったため。つまり、任期満了=市の都合で次は無し←十一月の意向調査時に辞める人が出たので、しめしめ人員削減して予算を減らしちゃおうと目論み、Kさんは一人別枠で入れた。他の司書にはわからないようにして、次年度の人員削減はその時点(前年度十一月)で決まっていた。で、私(Mさん)の場合は、三月二十日時点の意向調査で、四月からの雇用を今更いじることは出来ない=意向調査通り(任期満了だが本人が継続を希望しなかった)という扱いです。説明会をされないとか、意向調査に退職願を同封される「いやがらせ」は全員にしたことで、それを「嫌がらせ」と感じて退職を「選んだ」のは私だけだったから、「個人への嫌がらせ」には当たらない=自己都合による退職…ということになるみたい。】
 
 事前の説明会で回答として得ていた失業保険給付に関する内容が、いざ退職してみると全く違っていたために、Mさんの予定は大いに狂わされていた。ハローワークへ行くのが辛くなり、精神的に参っているという。
 彼女の読み聞かせは癒しそのもので、プロとしてラジオや舞台で朗読などの仕事を得ていてもおかしくはないと思うほどスキルが高い。平和教育を大切にし、児童が手に取らないから…という理由で、私があまり選定対象に加えていなかった類の本を知るきっかけを沢山くれた。実際、Mさんおススメのそれらを書架に加えてみて、児童が喜ぶことはなかったが、気付いた大人は絶賛した。
「こういうもの、もっと子どもに読んで欲しい!」
 その通りだと思った。
 時間だけでなく、士気も削ぎ取られて「もっと色々出来るはずなのに…」とジレンマに苦しむ私に、同じように共感してくれた。
「もっと色々出来るし、してあげられるし、したかった。」
 Mさんはあと一年で、同市の司書としての勤務経験が丁度十年になるはずだったという。
「あと一年働きたかったわ。でもこういう労働問題を全部受け入れてたら、もっともっと悪くなる。辞められる人間が辞めて抗議しないと!」
 二人の子どもさんは既に巣立ち、一人目のお孫さんが生まれたばかりで、若すぎるおばあちゃんになっていたMさんの決断は尊く、私にとって勇気の源になった。
 一緒に労働基準監督署へ赴くとき、彼女の携帯には何度も電話が入った。勤務する小学校で共に働く教員たちからのもので、隣に座っている私にはすべて丸聞こえ。しかし聞けて良かったと思う。退職を決めたMさんの決断を引き留める電話は、今まで惜しまなかった彼女の努力や、先生方との連携、乗り越えた数々の苦難と築かれた人間関係を象徴するものだったからだ。
司書の仕事を知らない人なら笑ったかも知れない。
 教員として日々児童や保護者と対峙し、時に心を病んで休職や退職に追い込まれる人が居る。そんな様子を何度か目にしていると、〝先生〟という仕事の大変さが身に詰まされる。司書が気楽だというならそうかも知れない。教員に比べると、児童や保護者に対する直接的な責任がほぼ無いからだ。
 しかし気楽に見えるから、居ても居なくても大して問題がない職業だと捉えるなら、それは熱意の欠片もない人間がその仕事をしているか、雇用する側が、従事する司書に熱意や業務スキルを求めていないからである。この市に関しては後者なのだろう。現職を貫いた私以外の七名中、半分は確実に前者とは違う。残り半分はよくわからないが、では私は…と問われれば、前者とは違う人たちの背中を追って、必死に自分が出来る努力をした結果、腑抜けになってしまった人間だ。
 市にとって正規雇用ではない人員とは、いつでも取り換えが利く使い捨てなのかも知れない。Mさんの代わりが十日足らずで決まったのも、Kさんが別職種として舞い戻ったのも、縁が繋がったと言えば聞こえは良い。実際、経験もないのに思いがけない倍率を突破してこの仕事を得た私にしても、前職で当市と過去に繋がりがあったからかも知れないのだ。
 経験と人伝からの知識で言えば、この市で臨時に雇用されたければ、取り敢えず気に入られれば良いらしい。雇止めにあっても、違う雇用形態や別職種で新たに雇用されることが多くある。嘗て前職を退くことになった際、私にも打診があった。市に気に入られたのではなかったと思うが、特におかしな動きをしたわけではなかったので、〝二度と要らん〟とは思われなかったのだろう。断ったのは、同じ職種を続ける気も、雇用形態を変えてまで打診された別の職場で勤務する意思もなかったからだが、随分熱心に食い下がるので不思議に思った。不採用決定を下したのはそちらなのに…である。
 採用試験を突破出来なくても、別の働き方で職が得られることに感謝する人もいるかも知れない。自身にもそういう時期があったのでわからないわけではない。仕事があるのとないのとではまるでその後のことが違ってくるし、希望の職種や職場でなかったことが、反って良かったと思える場合もきっとある。
 しかし考え方によっては、とても失礼な話だ。そう感じてしまった時点で、私自身が現状に甘んじていて良いわけではないということなのではないかと思っている。
 私の代わりはいくらでもいる。私はここで、私にしか出来ないことを沢山してきたと思っているが、それは他の人にも出来ることだったのかもしれない。また、私には出来なかったことを出来る誰かが後に来れば、それはそれで何かの形でプラスになるはずだ。
 その人は司書としてのスキルが私とは比べ物にならないくらい高いかも知れない。私には出せない癒しのオーラで、子どもの心に安らぎを与えるかも知れない。不利益な変更が生じても、状況に柔軟に対応し、不平不満を言わず、懸命に働ける人かも知れないのだ。
 私はKさんのようにはなれない。なれる身分でも立場でもないし、なってはいけない。自分だけでなく、誰のためにもならないことだから…。

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