ラグビーワールドカップ

こないだ友だちの家でラグビーを見た。ぼくはスポーツが嫌いだから、あまり楽しくはない。口をついて言葉が出ていたのだろう。

「いつもポジティブな発言が多いのに、スポーツになるとネガティブなこと急に言い出すよね。」

と言われた。たしかに、と思った。別にいいのだけれど。

でも別にいい、という言葉を使うときは別にいいと思っていないということだ。それは昔友人に言われた。「ま、いいんだけど」って言ってるときはいいと思っていないって。でもそのことに気づかずに時間が過ぎていってしまう。

誰かにこの話をした。笑い話として話した。そうかもねと笑った。それからしばらくして、違う友人にこの話をした。笑い話として話した。彼女は少しむっとした顔をした。それがうれしかった。

それからまた別の話。

働いているお店に来ていたお客さんが、ラグビーの試合をスマホで見ていた。注文を伺っている時に、点数を知らせてくれる。「気になるでしょ?」と言いながら、まったく興味ないけれど適当に合わせて「強いんですね。」と言ったら、「ね、うれしいね。」と言われた。それがめちゃくちゃこわかった。ね、うれしいね。と言っているときのその人の顔は笑っていたのだけれど、ぼくには能面みたいに見えた。そこにその人はいなくて、みんなが喜んでいるという共同体意識が、発言しているだけだった。そこに個人はなくて。

今までこんなことはなかった。ラグビーがはじまってからだ。同調圧力のようなものを感じる。

ぼくがスポーツが嫌いなのは、勝ち負けで何かを決定するところだ。それはぼくの一番嫌いな思想だ。だってそれは戦争だからだ。それが国を代表したら、それは余計に戦争だ。ぼくは戦争が嫌いだ。

ニッポンバンザイ、ニッポンバンザイ。

戦争の代替として、殺人や破壊をなくした平和的な仕方としてのスポーツ。オリンピックは平和の祭典。とても違和感がある。むしろそれは戦争の本質そのものなのではないか。

オープンマイクを何度か見た。オープンマイクとは舞台にマイクがひとつ置かれていて、飛び入りで詩の朗読やパフォーマンスができるイベントだ。そこでマイクの前に立ち、詩を読み上げる人たち。その多くに詩はない。ほとんどが体制についての詩。政治についての詩。いや、体制についての行を分けた言葉。政治についての行を分けた言葉。そこにいた観客たちが盛り上がり声を上げる。「選挙に行こう」「おー」「戦争に反対する」「おー」それらの言葉は戦争に反対する。でもぼくには翼賛詩とまったく同じ響きを持って聞こえる。共同体の為の詩。それらを認めて盛り上がってくれる人の為だけに書かれた詩。

(大体何かの為に詩を書くというのがおかしい。詩が手段になっている。詩は手段になり得ない。そうしたらそこに詩はない。いや手段にすらなっていない。それは共感してくれる人の為だけに書かれているから、訴えるべき人には届かない。)

「月に吠えらんねえ」というすばらしい漫画が完結した。そこには描かれている。詩がもっとも売れて、みんなに求められたのは、戦争の時代だったと。自分たちの詩性を削った詩が、日本で最も詩が輝いた時代だった。みんなの為の詩。それでもそれは生きて誰かが書いた言葉だ。黒で塗りつぶしていいのか。そんな色んな葛藤や、悲しみやらがその漫画の中には生きている。誰かが生きていたという痕跡を丁寧に汲み取り漫画にしている。美しさも醜さもぜんぶ平等にそこに掬い取って、漫画が葛藤している。すばらしい作品だった。

話を戻すと、オリンピックがこわい。「みんな」という言葉を疑わない人が増えている気がする。みんなって何だ。俺は一緒じゃないよ。その時、他人はみんなという言葉に一括りにされて個人を失う。そしてその時みんなという言葉を発する人もまた個人を失っている。それが心地いいのだろうか。安心するのだろうか。それが人を傷つけることがあると気づかないのか。それは考えて選択された言葉なのか。「日本人」とか「みんな」とか、そんな軽く当たり前に使っていいはずがない。町中の人と肩を組んで笑いたい人なんてきっと少数派だと思うのだけれど。

最初の話、ラグビーの試合の画面に旭日旗が映っていた。どういう意味だろう。どういう意味で持っているのだろう。無意識ならこわい。

偶然会った友だちがラグビーを見ていると言った。俺はぜんぜんわかんないやって言ったら、愛国心と一緒ですよ。と返された。まったく意味がわからない。それが答えになると思っていることが、こわい。愛国心を当たり前にしていることがこわい。

大体、クニってなんだ。何を指しているんだ。

わからないことが多すぎる。それは誰にもはっきりとはわからないはずなんだ。なのにみんなわかった顔をして当たり前な顔をして、日本を応援していることがとてもこわい。

そういうこわさを、気の合う友人やらが、ふと垣間見せることが何よりこわい。ぼくとは同じ人じゃない。同じ思想を持つ人なんていない。だからそれはほんとうは不思議なことじゃない。違う頭と違う心を持っている人が、何を言おうと不思議じゃない。だからこそ、同じことを言っていたらこわいじゃないか。違う人と違う人が。なにかわからない、空気がゆっくりと、いろんな人の肺に満たされて、気づけば私は私として、呼吸できなくなっていく気さえしてしまう。

サポート頂けると励みになります。