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ザ・ロード コーマック・マッカーシー

THE ROAD
Cormac McCarthy




「あの子が神の言葉でないなら神は一度もしゃべったことがないんだ」



火を運ぶ者。。。



ウェルカムトゥディスクレージータイム

イカれた時代にようこそ!

パパと息子は行く、死んだ世界を。
この世界は全て灰色だ。
全ては死んだ、しかし!人類は生きていた!
ああ、北斗の拳だね、ぼくは思った。


「越境」で心臓に風穴開けられ、躊躇していたこれ。
実はさこれ、映画で見たんだよね、冷たい世界にゾッとするんだ、怖いんだよ。

ぼくら極悪非道な人間様がさ、無政府状態になったらどうなるか、中年になったぼくには容易に想像できるよね。

略奪、殺人、レイプ、食人。

北斗の拳では見せない少年漫画にはそぐわない後者ふたつ。
「パパ」としてはそんなもん幼い息子には見せたくないよね。

前回読んだリチャード・パワーズの「惑う星」に次ぐ、パパと息子もの。
今度の世界はさらに生きにくいかもね。

なんせ食イモンないから。
しかも人喰いの奴らがうろついているゆえ、おちおち寝てもいられねえ。
太陽の光が遮られて寒くてしょうがないのに、おちおち火も熾せねえ。
寒いヨォ、疲れたヨォ、喉渇いたヨォ、腹減ったヨォォォ!!!

読み始めてからぼくは気になって仕方ない、こいつら水はどうしてるんだ?
どうにも水は汚染され「黒い」と表現されている、まさか、黒い水を飲むの?毒ない?

彼らは歩く、南を目指して、もはや、ここは寒くて生きられないんだ。
昼間はひたすら歩く。
喉が渇いてしょうがないよ。。。ぼくは思う。

「中の暗闇には貯水槽があり甘い匂いが嗅ぎとれる水が満ちていた。…これほどおいしい水を飲んだ記憶は彼の中になかった。」


水ーーー水ーーーーッ!水ーーーーーーッ!!!、本当に水の匂いがするようだよ、水の甘い匂い、甘い味、清い冷たさ、アリガタサ。。。

とにかく読んでいる間ずっと「不安」が付き纏ってしょうがない。
いつ人喰いの奴らに見つかるんじゃないか、ってね。
怖くてしょうがない、少年はブルブル震える、寒さと恐怖で。

「人間は憶えていたいものを忘れて忘れたいものを憶えているものなんだ。」

見ちゃいけないものを見すぎたんだよ。

「おそらく世界は破壊されたときに初めてそれがどう作られているかが遂に見えるのだろう。大海原、山々。存在をやめつつあるものたちの重苦しい逆の意味の壮観。広々とした荒れ野、浮腫んだ冷ややかな不朽。沈黙。」

生きることの限界に追い詰められたとき、どうする?
この場合、そのときにスパッと終われなかった者たちは人喰いの奴隷になる運命だ。イヤーーーッ!コワイヨォォォォ!これだけは勘弁願いたいね!人喰い様御一行を見てぼくは思う。

あれだ、ぼくがマッカーシーさんの世界に没入するのも、彼がいつも問いかけてくるからだ、「お前はどうする?」ってね。

世界は残酷で暴力に満ちている、そんなえげつない世界でお前はどう生きるつもりだ?って。
彼の作品の特徴である、「暴力」はエンタメじゃない。
最近よくある「グロい」系みたいに血まみれスプラッターはない。
彼の描く「暴力」はキミワルく冷ややかだ。
これはわかりやすい形の「デストピア」で描かれるけど、実際この「暴力」はこの世界のあらゆる時代、あらゆる場所に存在している。

まずさ、略奪、殺人、レイプっていう名の「暴力」。
こんなん、法でガッチガッチの今だってわんさかある。
人間様の嫌がる「自由を奪われる」とか「金を取られる」っていう「罰」でもって監視される社会においてでさえ、多発しとるんだ、「罰」がない無法地帯においてそれをしない人間様が果たして存在し得るか?

そう、人間という生き物は法を作って制御せねばならないほどに「邪悪」な生き物なんだ。

さらにだ、「食人」ね。
これね、いるんだよ、絶対、「私は絶対しない」っていうやつが。
しかし、「絶対」というものはあり得ないんだね。
こういうことを言うやつは「飢えたことがない」やつだ。
ぼくもそう、この飽食の時代において、飢えたことなどない。
そんな奴が「絶対食えない!」とかよくいえたもんだ、と。
人肉に限らず、虫でもカエルでもイヌでもそうだ。
気持ち悪いから、または、キャワユイから「食えない」と言う。
そうか、じゃあお前らは毎日なんの肉を喰っているんだ?

この先、本当に「飢える」時が来るだろう、そうしたらこの貪欲な生き物が喰わないものなどあるはずもない。人肉でさえ喜んで喰うだろう。


これは「意志」の問題だ。
人肉を喰うか、死ぬか、の二択を迫られたとき、お前はどうする?だ。

ここで「パパ」は少年を守るため、非道になる。
他者を犠牲にし、略奪も厭わない。
この世界設定において、至極自然なことに思われる。
むしろ「善」であるとさえ思われる。
ただ、人肉は喰わない。
汚れのない少年の意志は硬いのだ。

しかも、彼らは「運が良かった」のだ。
なんとかそのつど「食べ物」を見つけられた。
宝くじで大当たり級の運の良さだ。
だから、わりと脳も正常に働いた。
しかしだ、その運が尽きたとき、お前ならどうする?

だから彼は思う、

「お前にそれができるか?その時が来たら?その時が来たときにはもう時間はないだろう。なら今がその時だ。神を呪って死ね。」

もし、「その時ー運が尽きた時」がきたら、少年を殺し、自分も死ぬ。
喰われないため、喰わないため。
「お前にそれができるか?」だ。

たいていの人はできずに、喰うか、喰われる。
どちらも最悪だ。
しかも、この最悪の状態になってしまったら、そこから抜け出すことはできない、そして、「ニンゲンではないもの」になる。
いつもいうけど、「私は絶対しない」なんていう者は一番信用できない。そういう者ほど周りに流されるんだ。

考えべるきは、そうするかもしれない状況において「意志」の力で「死」を選択できるか?ということだ。
腹が減りすぎて脳に栄養が及ばずまともに考えることもできなくなっているだろう。
「食べたい」という原始的な「欲」は未だかつてないほど暴力的に襲ってくるだろう。
他人が食べ出して「食べてもいい」という空気に誘惑されまくるだろう。
それでも鉄の意思で持って、「否」と言えるのか?

震災の時に水やパンを奪い合う様子が思い起こされる。
そんな衝動的な彼らに鉄の意志があるとは思えない。
ぼくが観察するところ、たいていの人間様は「欲」に抗えないし、「同調圧力」にも抗えない、ワクチン接種もいい例だ。
しかも、抗う気もない、流されるの大好きなんだ。

そもそも、それほど強い意志を持てる者であれば、とっくに世間からはみ出しているだろう、とぼくは思う。


「あるものの最後の段階はそのものの優雅さを持っていってしまう。明かりを消していってしまう。周りを見てみろ。遠い先のことはなんともいえない。だが、少年はちゃんと知っていた。遠い先などという時は時とはいえないことを。」


ぼくが「パパ」で、「運が尽きたら」どうするか。
ぼくは自分の手で、自分が守ってきたものを終わらせることができるか?
それとも、少年を守ってゆくために人肉を喰い、少年を生かすために人肉を与えるか?
どちらにしてもそれを「邪悪」と言えるだろうか?


「よし。善い者というのはこうなんだ。いろいろ試している。絶対に諦めない。」

火を運ぶ者

「パパ」は「火」を消すことはできない、力の及ぶ限り守らねばならない。
この簡単に吹き消せる小さな「火」を。
この「火」が簡単に消せぬほど大きな炎になるまで。

この「火」は彼の「善」だ。
この無垢な少年は彼の「善」だ。
泥をかけて台無しにしたくない。

この「守るべきもの」を持つことの喜び。
これがこんな世界で「パパ」が生きようとする理由だ。

われわれはなぜ生きるのか?
暇な人間様が好きな問いだ。

お前はなぜ生きるのか?
そう、「火」を運ぶため。
お前の「善」を守るため。


ぼくはなぜ生きるのか?

マッカーシーさんは、「暴力」を描く作家だという、けれど彼は優しい、この親子を最後まで「幸運」で覆ってやる、そして彼の作品にはいつも「希望」がのぞく、ここでは「川鱒」だ。



「少年の周りには光があった。…少年がカップを持って向こうへ行くと光も一緒についていった。」


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