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ふたりの証拠 アゴタ・クリストフ

LA PREUVE
Agota Kristof



「いったい、きみは彼女を愛しているのかい?」
「ぼくは、その言葉の意味を知りません。知っている人なんていやしないんです。」




なんだよッ!これッ!!!



ぼくは喚いた。



噂には聞いていたものの、こんなに奇妙な話ってない。
こいつらはいったい誰なんだ?
そう、こいつら、こいつらすべての人々さ。

「悪童日記」の続きなんだ。
もはや「ぼくら」ではなくなった「ぼく」。
片方は国境を越え彼方へゆき、片方は今まで通りこちらに残る。
片方が見えなくなった「人ならざる者」は、「人間」らしく在る。


「すべての人間は一冊の本を書くために生まれたのであって、ほかにどんな目的もないんだ。…けれども、何も書かなければ、人は無駄に生きたことになる。地上を通り過ぎただけで痕跡を残さず終わるのだから。」



記録。
それこそが「証拠」。
記録することだけが、ぼくが存在した証拠である。

あっちへいったのは「クラウス(Claus)」。
これはこちらに残った「リュカ(Lucas)」の物語だ。
今回は一人称複数ではなく、神の目線で語られる。
美しい少年は15歳になったと。
そうして戦争が終わっても陰鬱な雰囲気に包まれたこの小さな町で今まで通り「おばあちゃんち」で暮らす。
リュカは書き続ける、独りになった「ぼく」の物語を。


そんな彼の狂おしい青春物語として読むよね?
この辺りから、こいつやっぱ狂ってる?双子とか妄想?という疑惑がフツフツと湧いてくるよね?
だってさ、見たまえ、この戦争が生み出した悲劇をさ!
誰も彼もみんな狂ってるんだよ。そう、みんないかれちゃってるんだよ、悲しみでさ。


「不幸といえば、きみも不幸じゃないか。でも、きみは不具じゃない。この子はたぶん、きみやきみ以外の誰かと比べて、特別不幸にはならないだろうよ」


そう、漏れなくみんな不幸さ、だからね、ちょっとくらい不幸だからって大したことじゃあないんだ、比べちゃあいけない、それが人生さ。

この小さな町に住む人々、戦争で大切なものを奪われた人々、気が触れてる、それでも死ぬことのできない人々。
ここは地獄だ、ここでもみんなゾンビだよ。
今も昔もニンゲンはいつだってゾンビになる。
壊れた寂しいゾンビどもはお互いの腐った肉を喰いあう。
そうして生まれるのは更なるゾンビ。
こうしてゾンビは増殖するんだね。

これは第二次世界大戦後の話で強制収容されて殺されたり、暗殺されたり、物騒なことだらけだ。
この不安だらけがこちらにも憑ってきてなんだか妙に落ち着かない気持ちになる。
心臓がバクバクいう、コワイヨッ〜、コワイヨッ〜。
小心者のぼくはソワソワしだす。

ひどい目に遭うかもしれない不安、死ぬかもしれない恐怖。

いつの時代もおんなじだ。
今、こんなにも平和に見えるここにだって、その「不安」が蔓延している。
毎日毎日ニュースはそれを煽る。
死に対しての不安なのか、生きることに対する不安なのか、とにかくぼくらニンゲンはいつだって不安に苛まれる。

これは原始の記憶だ。
生き物すべての精神の根源だ。
この「不安」から逃れるために忙しく働く。


愛する者がいて不安になり、愛する者がいなくなって不安になる。
愛する者を守ろうと懸命になるほど、愛する者は去ってゆく。
愛するがゆえに狂気に陥り、愛を無くして狂人となる。

どこまでいっても逃れられない。
ああ、なんて嫌らしいんだ。


「これから忘れていくはずだよ。人生というのは、そういうふうにできているんだ。すべてが、時とともに消えていく。記憶は薄れ、苦しみは減少する。」
「そう、確かに私は、減少する、薄れると言った。しかし、消え失せるとは言わなかったよ」


おのおの、ゾンビになる原因は違えど、いつの時代にもゾンビになる。
ぼくが死んでいるゾンビではなく、生きているニンゲンとしてここに在るためにすべきこと、それが記すこと、物語を創ることだ。

ぼくは書く、自分の物語を、自分の存在を。
ぼくは書く、愛した者の記憶を、愛した者のの存在を。

その手記こそが、ぼくの存在、ぼくの世界。
「ぼくら」であったころは、神で在った。
今、独りになった「ぼく」は、ただの「人間」だ。
悲しく、弱い、力を失った「神ならざる者」だ。
ぼくは世界の一部を破り捨てる。
存在しないように。

そうして、彼の愛する子も同じように世界を、存在を、破り捨て、燃やす。


あの子がいたことを、ぼくが記さなくて、誰が記すんだい?
あの子の存在を、ぼくが証明しなくて、誰が証明するんだい?

ぼくは、悲しい。



「われわれは皆、それぞれの人生のなかでひとつの致命的な誤りを犯すのさ。そして、そのことに気づくのは、取り返しのつかないことがすでに起こってしまってからなんだ」


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