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飯能市の成り立ち

こんばんは、飯能高校探究部の顧問のMr.Mです。

今回の記事は飯能市の成り立ちについてです。

探究部員のHiDEの前回記事を読みながら、飯能市がどのように形成されてきたのか興味が湧いてきたので調べてみました。

飯能市の生い立ちを語る上で欠かせないキーワードが高麗郡です。

716年に朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされています。

Wikipedia情報では以下とあります。

廃藩置県後に行われた全国的な府県統合に伴い入間県→熊谷県→埼玉県と所属を変え、1878年(明治11年)7月22日、郡区町村編制法制定に伴い、行政区域としての高麗郡が誕生した。高麗郡役所は郡の中心地であった飯能町ではなく、入間郡と共同で川越町に置かれていた。1896年(明治29年)3月29日、郡制の施行のため入間郡に編入されて消滅した。

その高麗郡は現在の日高市(全域)、鶴ヶ島市(全域)、川越市(入間川以西)、狭山市(入間川以西)、入間市(大字野田、仏子、新光)、飯能市(大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元、上名栗、下名栗を除く全域)で成り立っていたとされています。

1882年(明治15年)には飯能村・久下分村・真能寺村が合併して高麗郡飯能町ができあがります。

そして1889年(明治22年)4月1日 には町村制の施行によって現在の飯能市に含まれる地域では以下の町村が発足します。

*国立情報学研究所(NII)のGeoshapeリポジトリから歴史的行政区域データセットβ版 (市制・町村制(1889年)から現在までの市区町村に関するデータ)を使ってどのような場所に以下の町村があったのかも併記します。

東吾野村
 →井上村、白子村、長沢村、虎秀村、平戸村が合併。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070039.html

加治村
 →川寺村、岩沢村、笠縫村、矢颪村、前ヶ貫村、阿須村、落合村が合併。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070002.html

元加治村
   
→野田村、仏子村が合併。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070002.html

精明村
 → 小久保村、中居村、青木村、下加治村、芦苅場村、双柳村、宮沢村、
  平松村、川崎村、下川崎村が合併。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070026.html

飯能町
 → 高麗郡飯能町、中山村、久須美村、小瀬戸村、大河原村、小岩井村、
  永田村が合併。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070050.html

原市場村
 → 原市場村、赤沢村、中藤村上郷、中藤村中郷、中藤村下郷、上赤工村、
  下赤工村、唐竹村が合併。

合併前の原市場村は、元禄年間(1688年から1704年までの期間)に天領高麗郡日影村より分村して出来上がった村。

1747年(延享4年)には 一橋徳川家領となる。
1874年(明治7年)には曲竹村を合併。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070008.html

南高麗村
 → 下直竹村、上直竹村上分、上直竹村下分、苅生村、上畑村、下畑村、
  岩淵村が合併。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070042.html

以上が1889年(明治22年)4月1日 の町村制の施行によって発足した町村(現在の飯能市に含まれる地域にあるもの)です。

その後、1896年(明治29年) には入間郡・高麗郡および比企郡の一部の区域をもって改めて入間郡が発足します。そして高麗郡が入間郡と統合し入間郡となります。

入間郡となった町村はその後、1943年に 入間郡飯能町・精明村・南高麗村・加治村・元加治村が合併し、飯能町となります。

↓下の画像では赤線部分が1943年の合併後の飯能町。緑線部分は合併前の旧飯能町です。

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/11B0070050.html

1954年には市制施行により飯能市となります。その際に飯能市の一部(野田、仏子、新光の一部)は東金子村へ編入し、町制施行によって西武町となります。

2年後の1956年には飯能市は入間郡吾野村(旧秩父郡吾野村)・東吾野村・原市場村を編入することに。

そして、直近の2005年に飯能市が入間郡名栗村(旧秩父郡名栗村)を編入して現在に至ります。

合併する村が多い中で、他の村よりも約50年間、名栗村は村として存続していたこと、その辺りはもっと詳しく調べたいなと思いました。

過去を知ることが現在の探究部の活動にも必ず生きるはず。何よりも現在に至るまでの変遷を知ることは楽しいです。

どこかのタイミングで、現在飯能市立博物館で開かれている原市場村秘史展を探究部で見に行きたいなぁ。


今回はGeoshapeリポジトリの歴史的行政区域データセットβ版を利用させていただきました。こちらは以下にあるように、データが必ずしも当時の行政区域を正確に表しているわけではないそうです。

市区町村の行政区域境界は出典のデータを変換し、国土交通省「国土数値情報」(実線)と筑波大学「行政界変遷データベース(DB)」(点線)に分けて表示します。ただしデータ作成方法の限界により、必ずしも当時の行政区域を正確に表しているわけではなく、両者のデータに不一致が生じている場合もあります。今後はデータの修正を進める計画ですが、正確な情報が必要な場合は、より信頼できる文献(古地図等)の情報を必ずご確認ください。

もし記事情報に気になる点がある場合はお知らせいただけると嬉しいです。

また、今回の記事はWikipedia情報を元に書いています。信頼できる文献まで辿り着けていません。情報にもしかすると誤りがある可能性があります。もし気になる記述などがありましたら、こちらも教えていただけると助かります。

今回、飯能市の生い立ちを調べてみて、昔の町村に思い馳せることができました。どのような人々がどのような生活をしていて、どのような文化を形成していたのか興味は尽きません。

昔の町村名は現在では小学校名で残っているところが多いですね。

今後さらに地名を元に深く調べられればと思っています。

以下、気になった情報を備忘録として残しておきます。

京都大学のリポジトリ

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249815/1/shirin_048_3_374.pdf

学習院大学のリポジトリ

https://glim-re.repo.nii.ac.jp/record/1936/files/shiryokan_7_1_48.pdf



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